ここでは、帰雲城に関する民話伝説昔話を紹介します。

 帰雲城に関する民話伝説昔話について
                                                    2014 H26 01 18
 帰雲城に関する民話伝説昔話を4話紹介します。

 白山の権現様のたたり
 「保木脇の里に大きな城を築いて、越中三郡と飛騨三郡を領土に勢力をふるっていた内ヶ島兵庫頭氏理は、至って勇猛な武将だったといわれています。氏理は、正月15日「熊狩りの会」を催し、一番たくさん熊をとった者には賞金をあたえる、と城下にふれをだしました。その朝、城の広場にあつまった総勢100余名は弓、槍、火縄銃をもち、城主の激励の言葉に喜び勇んで、思い思いの山へ登りはじめました。その中に仲良しの5人の猟師がありました。5人は一組になり、白山下の大白川をカンジキをはき、温泉へたどりついたのは、正午近くでした。そこで湯に入り一休みして、5人で打合せをしました結果、熊の冬ごもりしている洞穴を順番に調べることに決まりました。少し登ると、大きなブナの木の密林があります。1本1本調べていますと、丁度10本目に熊の爪跡があり、ちかくに洞穴がありました。猟師たちはしめたとばかり、奥の方をうかがうと熊が寝ている気配です。早速、木の枝を切り穴口につめて煙いぶしの準備をし、別のところに穴をあけ、そこへ出てきた熊を槍でつきさす用意をしました。しかし、夕方になったので、やむなく明日に延期し、温泉までもどり野宿しました。
 翌朝、再び行ってみますと、熊は逃げだしているではありませんか。幸に天気はよし、足跡を追って行きますと、白山の方へ逃げこんでいきます。そのうち昼時になり、5人は岩陰の雪の少ないところをみつけ、弁当を食べました。ふと、1人が何気なく岩をみますと、大きな岩があり、ピカピカ光るものがあります。金の仏様の立像だったのです。「ヤッ、仏様がいる」と叫びながら両手でもち上げようとしましたが、ビクとも動きません。5人が力をあわせても駄目なのです。「これは、尊い仏様だからわしたちには持てないんだ。あきらめよう・・・・・・」と、再び熊を追っているうちに、1頭仕とめることができました。さて帰ろうとしましたが、白川の方へは帰れそうになく、郡上の折立部落へ下山することにしました。しかし腹がへって歩けません。やっとのこと、1軒の農家にたどりつき、「豆いり」や自分たちがとってきた熊の肉を食べ、どうにか元気を回復しました。
 翌日、城主に熊の皮を献上し、「熊の皮より金の仏像をさしあげたかった」と、昨日の様子を話しますと、城主は大喜びで、早速、家来をつれて仏像をとりに出かけました。足跡をたどって行きますと、岩穴に仏像があり、城主は両手で仏像をとろうとしましたが、動きません。今度は縄をかけ、みんなで掛声あげてひきましたが、やっぱり動きません。とうとう夕方になり、あきらめて下山することにしました。郡上の溝折部落で泊まることになり、城主をはじめ一同が、今日の有様を話しあい残念がっていますと、その家の老婆が恐る恐る、「女の腰巻きをまきつければ、難なく取れるんじゃ」と、教えてくれました。
 翌朝、2人の強い家来が老婆の腰巻を借りて山に登り、金の仏像にまきつけると、簡単に持ちあげることができました。2人は喜んで城主のもとへもち帰りました。丁度溝折の鉱山には、金を溶かす「タタラ」というものがあり、この中へ入れてみましたが、なかなか溶けません。 椿の炭火なれば溶けるとのことで、内ケ戸、椿原部落より椿の木を集め、炭を作り、7日7夜「タタラ」にかけましたが、全然溶けそうにもありません。そればかりか、仏様がただ笑っているように見えますので、城主たちは腹をたてて、川へ投げこんでしまいました。
 その天罰か、天正13年(1585年)11月20日に大地震が起り、保木脇の帰雲城及び郡上の溝折部落が同時に山崩れにあい、1000戸の戸数と数千人の人馬が、一夜にして全滅してしまいました。 その後、溝折の川底に光るものがあるのであげてみますと、金の仏像でしたので、これは白山権現様のたたりだと、もとの白山の岩穴に安置したと伝えられています。 猟師たちが「豆いり」をたべた郡上折立部落には、今でも大豆ができず、また内ケ戸、椿原部落の椿の花も、それ以来南を向いて花が咲かないといい伝えられています。」『白川郷の伝説と民話』6頁
 ↑の「白山の権現様のたたり」は、内嶋氏が金の仏像を盗んだ天罰で天正大地震により帰雲城が山崩れで全滅したことを伝えている民話です。このなかで、「金の仏像は簡単に持ち上げることができず」、「女の腰巻きを使うと簡単に金の仏像を持ち上げることができた」という比喩は何を言わんとしているのか不明です。金の仏像は例えで、正蓮寺や、金山開発に置き換えているという見方もあります。場所について「溝折(水沢上)部落」は、現在の岐阜県郡上市明宝奥住「水沢上地区」になります(めいほうスキー場のある所)
「折立部落」は、現在の岐阜県郡上市高鷲町西洞「折立地区」になります(国道156号線道の駅大日岳北東)

 次に文献の記録では、「その頃帰雲に狩人あって、ある時加賀の白山に登り別山より観音の金像を盗取って、密かに水沢上の金山に持行き彼金像を吹分け、鉄砧(ちん)にて打砕んとせしが、たちまち雷電霹靂し烈風枝を砕き暴雨塊を破る、日月の光を失ひ昼夜を不分事七日、時に天正十一年十月二十九日大山崩れ落ちて帰雲、水沢上の両村一時に滅亡し民家悉(ことごと)く地底に埋れ、老若男女更に残る者なしと也」『神岡町史 特集編』201頁に「飛騨略記」所収、1619(元和5)年『飛騨略記』朝比奈入道定味著
  ↑の『飛騨略記』では、金の観音像を盗んだ天罰の有様を記しています。そして、双方記述を比較すると、「白山の権現様のたたり」の内容が加筆されて読みやすくしてある民話であることが分かり、双方とも悪行をした天罰と、天正大地震の災害を伝えています。

 名医下方卦庵(けあん)
 「保木脇の帰雲城下に下方卦庵(61才)というお医者さんが住んでいました。お城の典医でもあり、見立ての良い医者と評判で、毎日40~50人の患者があり、忙しい日が続いていました。毎月の7日はお城へ務めることになっており、丁度秋も過ぎ、冬ちかくなった11月16日のことであります。お城へ参上し、城主を診察して驚きました。身体にはなんの異常もないのに脈だけが変なのです。「これは大変だ」と、奥方から側女、近侍なども診察しましたが、みな同じ脈なのです。そこで城主をはじめ一同に、「早くどこかへ逃げて下さい」と申しましたが、誰も信じてくれません。かえって下方医者は気が狂ったと、馬鹿にされてしまいました。城下へ帰り、道を歩いている人の脈をみても、死に脈です。自分の脈をみても死に脈、猫の脈はとみても死に脈、さてはと馬をみても死に脈。驚いて家に帰り、女房や子供の脈をみても死に脈であります。
 早速、医者として必要なものだけを箱に入れ、女房と子供3人で逃げだしました。やっと荻町にきましたので、荻町の人はどうだろうかと、道ゆく人を呼びとめ脈をみると、普通なので安心しました。今度は鳩谷、飯島の人をみてまわりましたが、死に脈ではありません。それから内ヶ戸、椿原と進み、丁度芦倉まできたとき、大音響とともに大地震が起こり、北も南も進めなくなりました。どうにか一軒の農家に泊めてもらいました。次の日になっても地震はやまず、そのうち病人がでましたのでみてやりますと、今まで一度も医者にかかったことのない人たちですから、すぐ癒り、たいへん評判になりました。この地震で、帰雲城下の町は山崩れの下敷となり、人馬もろ共全滅してしまったのです。下方医者一家3人だけが生き残ったと伝えられています。さて、下方一家は、芦倉の人々のすすめでこの地に永住することになり、その後、3代まで医者が続いたといわれ、今日でも下方家は繁栄しております。また当時の書物(医学的なもの)が残され、保存されています」『白川郷の伝説と民話』10頁
 ↑の「名医下方卦庵(けあん)」は、帰雲城主内嶋氏のお抱え医師で、天正13年に帰雲城が埋没した時に、下方卦庵は天災を予感して芦倉に逃れた実在の人物のようです。この民話は、天正大地震の予感と、下方家の名医について大別され、天正大地震の災害を書きつつ、人々の病を治した下方医者の活躍を感謝した昔話です。

 名笛白菊笙(めいてきしらぎくしょう)
 「その昔、帰雲城に地震がおきて、一瞬にして山崩れの下敷きとなる2ヶ月ほど前のことです。城内では城主をはじめ、家老や家来たちが集まって、仲秋の名月をみる宴がひらかれました。笛太鼓にあわせて、美女が舞いはじめました。この美女の名を白菊といいます。白菊は19才で笛の名人といわれ、また小姓の竹千代とは、お互いに将来を約束した仲です。今夜の宴での舞いは、白菊と竹千代でした。2人は、笛や歌にあわせて美しく舞っています。舞が終わると、不思議なことに笛が鳴らなくなってしまいました。 
 なんだか不吉な予感に竹千代は次の日、この横笛笙(しょう)の2種を京都へ修理に持って行くことにしました。京都に着いた竹千代は早速修理師にみてもらいましたが、少しも悪いところはありません。怪訝に思いながらそのまま持って帰ることにしました。途中、高山に寄って笙をあずけ、横笛だけ持って白川郷へ急ぎました。
 丁度、御母衣へきたとき日が暮れやむなく大戸家に泊めてもらうことにしました。その深夜地震が起こり、大音響とともに帰雲城は壊滅してしまいました。竹千代は難からのがれ、そのまま大戸家で一生を終わったということです。」『白川郷の伝説と民話』26頁
 ↑の「名笛白菊笙」は、横笛が鳴らなくなって不吉な予感がして、その後の天正大地震が発生したことを書いているが、難を逃れた竹千代と、横笛と笙が現存していることを伝えた民話のようです。白菊という女性が持っていた横笛は、白川村御母衣字上洞地区の「大戸家」蔵で、白菊の笙は、高山市まちの博物館にあるそうです。

 名刀
 「芦倉部落に永住した下方医者は、見立てが良いとの評判を聞いてくる患者を、親切に診察し薬を調合しては、忙しい毎日を送っていました。ある時、小白川の若者2人が真夜中にやってきて、下方医者を起こしました。急病人がでたので往診してほしいというのです。下方医者は、小白川までの道もけわしくまた深夜なので、翌朝にしてもらえないかと申しましがた、なかなか聞きいれてくれません。再三頼まれますので、「では行って進ぜよう」と、城主からもらった刀を腰にさし、2人と一緒に出かけました。道のりは2里ほどですが、深夜ですから1人の若者は、前を提燈(ちょうちん)で照らし、もう1人は下方医者のあとから提燈を持ってついて行きます。
 丁度加須良川が本流に流れこむ橋のところまできました。途端に前を行く若者がギクッと立ちどまりました。木の上に、大きな怪物が目をギラギラさせてにらんでいるのです。3人は恐ろしさにぶるぶる震えながら、それでも前の若者は大きな石をもち、下方医者は刀に手をかけ、うしろの若者は棒切れを握り、身がまえました。やがて、グヮーとうなり声をあげ、怪物が飛びおりてきました。すると不思議なことに、下方医者が手をかけていた刀がひとりでに抜け、怪物目がけて飛んでいくではありませんか。怪物は、そのまま逃げていく様子ですが、暗闇ですからはっきりとはわかりません。下方医者は、城主からもらった刀を惜しくは思いながらも、命拾いしたことに感謝し、やがて小白川に着きました。病人を診察し応急手当をすませて、その家に泊まることになりました。刀のさやだけを柱にかけておきました。
 翌朝、柱にかけたさやをみますと、刀はちゃんと元にもどっているではありませんか。刀には、血がたくさんついていました。このことを村人たちに話しますと、名刀だとほめたたえました。昨夜の若者が怪物のでた場所まで行ってみますと、大きな栗の木があり、あたりの草がたおれています。それを頼りに進んで行きますと、岩壁がありその下が河原になっています。そこに大きな猿が死んでいました。若者は、その大きな猿を木の枝にのせ、小白川まで持って帰り、村の人たちに見せました。そく調べてみますと、ノドのあたりに刀の突きささった跡があり、ほんとうに名刀だと村人一同が感心したと伝えられています」『白川郷の伝説と民話』14頁
 ↑の「名刀」は、下方医者の脇差が名刀であることを伝えるための民話です。

 まとめ
 以上、帰雲城に関した民話伝説昔話の4話では、天正大地震の災害を書きながらもその悲惨さはあまり重要視されておらず、悪行、天罰、予感、名医、名刀などを重きに伝えています。それと、民話のなかには当時の時代背景上直接書けない比喩もあり、言わんとしている示唆から本当に伝えたいことを読み解く必要性があります。

 おわりに、脇差に関する記録を紹介します。
 保木脇白山神社に奉納されてあった脇差「二王」の運命
 地震のおり崩壊した土砂の隙間に露出していた刀を回収し、保木脇の白山神社にこの脇差を奉納したのであった。だが、雪崩により白山神社が倒壊したので、とある家が保管していたが、ある人が太平洋戦争で脇差をお守りとして持ち出兵したのであった。終戦後兵士は無事に戻り、脇差を今後どうするか相談して、あるべき場所に返すべきとのことから、刀剣登録を経て、白川村に戻ってきたのである。『白川郷の神々と社祠略史』68頁同等文

 脇差「二王」に関する聞取り調査から紹介します。
 「白川村保木脇のこと」白川村O氏談2004(平成16)年10月31日、S氏記録
 O氏談:「下方兄弟医者が薬草を採っていた。天正大地震の2日前に一人は芦倉に逃げて、もう一人は一色村まで逃げた。御母衣字上洞(あげほら)の大戸(おおど)家に薬師如来像をあずけた岩の割れ目に刀があった→内嶋氏の刀やということで持ってきて家に置いてあった→刀を研ぎに出した→刀(脇差)を白山神社に奉納した→雪崩で白山神社が壊れたので、とある家の仏壇上に刀を置いてあった→刀を貸す→ある人が太平洋戦争で刀をお守りとして持ち出兵した→終戦後丹生川村に帰ってきた→戦後刀剣所持が厳しく御堂の縁の下に2振り置いていた→刀をどうしたらよいのか高山市のある人に相談した→刀は山口県の2代目の作だった刀をあるべき場所に返したいと言った→受け入れ用意あり→白川村に帰ってきた」というO氏のお話しでした。「二王」の脇差は数奇な運命をたどり、白川村に帰ってきたのであった。

 脇差「二王」について
 「二王」は、一説には帰雲城主内嶋氏理愛用の脇差を、下方卦庵医者に下賜されたと伝えられる脇差で、長さ46.8センチで「二王」と刻銘があるが刀匠銘ではなく、刀匠家系の列銘のみである
 参考:周防国(山口県)の名刀工「二王」、仁王清綱(卓永年間1230)、仁王清光(正安年間1300)


 参考文献、聞取り
 『白川郷の伝説と民話』1972(昭和47)年、西野機繁著 発行
 『白川郷の神々と社祠略史』2004(平成16)年3月25日発行
 「白川村保木脇のこと」白川村O氏談2004(平成16)年10月31日、S氏記録