2白川郷埋没帰雲城調査会公式HP 帰雲城の語りべ紹介
2008年に書いた『こどもに伝えのこす 語りべ 帰雲城と内嶋 その1』
2008 H20 05 28記から一部中略し帰雲城の歴史について、なるべく分かりや
すいよう「語りべ」として紹介します。
『こどもに伝えのこす 語りべ 帰雲城と内嶋 その1』
2008 H20 05 28
中世は岐阜県、飛騨地方の白川郷で実際にあったお話しです。
岐阜県は大野郡白川村の保木脇(ほきわき)地区に、今から500年以上前に、帰雲城(かえりくもじょ
う)があったといわれています。帰雲城の城主は内嶋(うちがしま)という武将でした。鎌倉時代 →
南北朝時代 → 室町時代 → 江戸時代という時代の、室町時代の1460年寛正年間ごろ、信濃国
(長野県)の松代からやってきたとされる内嶋為氏(ためうじ)が、家臣らを連れて白川ノ庄(白川郷、
岐阜県大野郡白川村)の地へ入国しました。この当時白川郷の一部は武家に支配されていないようで、
寺領であったようです。内嶋氏(うちがしまし)は白川郷の南に、牧戸城(現在の荘川町牧戸)を築き
ました。
1464年 寛正5年ごろ、保木脇地区に「帰雲城」を築きました。内嶋氏、帰雲城の初代城主が
内嶋為氏です。
1475年 文明7年白川郷飯島村の正蓮寺(門徒武装勢力)と内嶋氏が不慮の喧嘩に発し戦い、内嶋
氏は飯島村の正蓮寺を追放しました。正蓮寺の明教の幼男子は、乳母が抱きて越中から越前へ逃げま
した。1485年文明17年三島将監一派が内嶋氏に、復讐戦を行ったが失敗に終わり、三島将監教信は
討死しました。永平寺で成長した(明教の幼男子の)嘉念坊の兼入は1488年長享2年山科本願寺の
蓮如上人らの仲介により、内嶋雅氏の子女大岡姫を兼入に配嫁して、内嶋氏と嘉念坊兼入(名を明心を
変草する)が和睦をして、白川ノ庄中野村に(正連寺の正の字を照に改め)照蓮寺を復興しました。
1543年 天文12年8月、種子島に鉄砲が伝来されました。
1559年 永禄2年、遠藤盛数が東(とう)氏を滅ぼしました。東常堯(つねたか)は追われ、妻の
父である帰雲城城主内嶋氏理のもとへ逃げよせたそうです。
1561年 永禄4年、東常堯と内嶋勢500余騎が遠藤氏を攻めるが、迎撃されて内嶋勢は白川郷へ
敗走しました。
1575年 天正3年、長篠の戦いで、織田信長軍が鉄砲戦で武田騎馬軍を破りました。
1582年 天正10年には本能寺の変がおこり、織田信長が明智光秀に討たれました。
1584年 天正12年8月、内嶋氏理(うじまさ)が佐々成政の応援のために越中へ出兵しました。
1585年 天正13年8月、羽柴秀吉の命令により、越前(福井県)大野城城主の金森長近(なが
ちか)率いる軍勢が飛騨に進攻してきました。金森軍は牧戸城を攻略しました。 この時、照蓮寺と
帰雲城は、降伏したようです。「帰雲城」城主の内嶋氏理は越中に出陣中でしたので、金森軍が飛騨に
進攻したとの急報を聞き、白川郷にもどった時には、飛騨で有力であった三木軍が壊滅した後でした。
内嶋氏理(うじまさ)は家臣らを伴い、鍋山城(高山市)に陣取っていた金森氏へ参上して降伏を
しました。「帰雲城」城主の内嶋氏理は、帰城を許されました。
天正13年11月29日(西暦では1586年 1月18日になります)亥子ノ刻PM11:00ごろ、
天正地震がおこり、庄川の東にあります帰雲山(現在1622m)から崩れ落ちたものすごく膨大な土砂
岩石により、内嶋氏の本城である「帰雲城」と城下町300戸余と500人余りが一瞬にして、土砂岩石
の下に埋まり圧死しました。
この時、三方崩山側からも土砂岩石の崩落があり、当時の弓ケ洞谷下流域の谷筋の流れを南方面へ変えた
ようです。庄川の東(右岸)からと庄川の西(左岸)からの土砂岩石により、埋まってしまった保木脇の
地表面は、草木も生えぬ「土山」になったそうです。
120年余り続いた内嶋氏4代は、天正の大地震により滅亡しました。
内嶋氏帰雲城の城主は、初代が為氏(ためうじ)で、2代目が雅氏(まさうじ)、3代目が氏利(うじ
とし)で、4代目が氏理(うじまさ)でした。
帰雲城の城主だった内嶋氏の時代は「室町時代」で、元号は寛正元年1460年からはじまり、
文正1466年~・応仁1467年~・文明1469年~・長享1487年~・延徳1489年~・
明応1492年~・文亀1501年~・永正1504年~・大永1521年~・享禄1528年~・
天文1532年~・弘治1555年~・永禄1558年~・元亀1570年~・天正1573年~・
天正13年 1586年まででした。
内嶋為氏の祖先は、1武蔵猪俣党内島氏を祖とする、2西園寺氏を祖とする、3橘、楠を祖とする説が
あります。
内嶋氏の家臣には、牧戸城の城主川尻備中守氏信や、荻町城の城主山下大和守氏勝や、尾神村の尾神
備前守氏綱や、新渕城の荒川右馬丞や、中野村の市村縫殿介などがいました。
天正地震の規模は、マグニチュード8.0~8.1で、烈震地域は保木脇で、震度6だったようです。
また1855年 安政2年に大地震がおこり、保木脇の地形に、さらに土砂岩石がおおいかぶさった
ようです。
<帰雲城について記された書物>
『斐太後風土記 歸雲山古城』
御花園天皇御代、信濃國松住人、楠氏の末葉なる内島将監橘為氏、足利義政將軍の命を奉じて白川に
来り、其威勢を振ひ、村々を兼領し、寛正の初、牧戸に城を築き住居、漸々村の随従に依て、後亦、
保木脇村歸雲山に城を築て勢強く、小鳥郷はさら也、越中國砺波郡川上郷をも押領せり、家臣には、
山下・尾神・川尻等の勇士有て破竹の勢ひに成り、後土御門天皇御代、文明七乙末年八月、子息内島
上野介雅氏と諸共に討て出て、飯島村正蓮寺九代明教をうち亡し、其の兄三島将監教信は遂電せしが、
是亦後に討取ぬとぞ。其後息上野介雅氏家を續たりしが、同郷代長享ニ戌申年、本願寺蓮如の扱にて、
内島と照蓮寺明心と和熟し、雅氏の女を配偶、明心を婿としけり.その後雅氏の嫡男、兵庫頭氏理家を
継ぐ。
『五箇山総合調査報告書』
内島為氏は奥白川郷牧戸城を次第に掃討して庄川を下って保木脇に至り、寛正五年曽つての南朝
遺臣の旧帰雲城を修復してこれに移り、更に北上して五ケ山に至り、
『飛騨鑑』
越前より猿楽共呼寄領分之者共も内ヶ嶋へ揃、明日能興行之前夜九ツ過内ヶ嶋之前大川有之候、
其向に高山御座候 而亦其後に帰り雲と申高山御座候、右之帰り雲之峰二ツに割、前之高山竝大川
打越内ヶ嶋打埋申候、人一人も不残内ヶ嶋之家断絶、
『貝塚御座所日記』
天正13年11月29日、夜四ツ半時大地震夫より十余日不止、飛州の歸雲と申在所は内島と云
奉公衆ある所也、地震にて山崩山河多せかれて内島の在所に大洪水かせ入て内島一類地下の人に
いたるまで不残死たるなり、他國へ行たる者四人のこりて泣々在所へ歸りたる由申訖、彼在所は
悉淵になりたるなり、
『越中國名跡志』
天正13年11月29日、飛州白川と云所は民家三百余の在所也、天正十三の地震に高き山一つ
ぬけ出て白川三百余の家の上へ落懸て家は三丈計の地の下へ沈みければ数百の男女も地下へ沈で
白川の村は枯葉もなき荒山と成、霜月下旬の事なれば白川のもの六人富山へ買物に行命助り白川へ
歸りて見ればあとの形はかはり何れは古里のあとならんと泣々又富山へ戻りけり、
『長滝経聞坊文書二 年代記録(抄)』
天正十三年十一月廿九日亥子剋ヨリ大地震初而十二月廿五日マテ昼夜動申候、其時飛州白河
帰雲ノ在所両山打崩、則屋形内嶋兵庫頭氏理其外五百人余、牛馬等マテ一時ニ亡申候、彼所ニテモ
小白河丸山ミゾウレ、帰雲其外江州左保山、長浜、尾州河内、越州北ノ庄鶴賀、日本国中在々所々
及滅亡処多、
『遠藤家奮記』
天正13年11月29日、亥子の刻大地震にて白川歸雲山川崩屋形上下五百人余一時に滅亡、
此節常堯も御逝去、
<帰雲城年表>
1460年頃、寛正年間頃、内嶋為氏、足利将軍の命により白川へ入国、牧戸に城を築く.
1464年頃、寛正5年頃、内嶋為氏、保木脇の帰雲の山麓の帰雲城へ入城する.
1475年文明7年、内嶋と飯島村正蓮寺との戦いがあり、内嶋が正蓮寺を追放する.
1488年長享2年、内嶋と嘉念坊兼入が和睦をする.中野村に照蓮寺を復興する.
1531年享禄4年3月28日、山科本願寺家宰下間實英、書を飛州内島氏へ送り、居城
炎上事を慰問す.『飛騨編年史要』
1561年永禄4年、東常堯と内嶋勢500余騎が遠藤氏を攻めるが、内嶋勢は敗走する.
1585年天正13年8月、羽柴秀吉の命により、越前大野城主の金森長近軍が飛騨に進攻.
1586年天正13年11月29日、天正地震がおこり帰雲城と城下町が埋まり滅亡する.
白川郷の民話の中には帰雲城や内嶋氏がでてくる、白山の権現様のたた
り、名医下方卦庵、名笛白菊笙などがあります。<省略>
白川郷の民謡に古大尽がありますが、内嶋氏のことを唄ったといわれています。
「古大尽」
殿さまヨー行きゃるならためらいなされ、おらのお背戸のしょろしょろ川に、昔蛇が住む
今亀が住む、亀も亀じゃが人とる亀よ、昨日は4人とった、教は5人とりゃった、合せ申せば
9人の家内そやにとってくれんな、人の種が絶えるサハヨー、
<帰雲城に関する足どり>
帰雲城を調査した人では、1950年昭和25年ごろ、白川村荻町の旅館城山館主人の松古
Kさんが、本格的に帰雲城の研究をし始めたそうです。
昭和30年以降の新聞記事を見ますと、1961年昭和36年4月4日の朝日新聞に続ふる
さとの史話で、「帰雲城と照蓮寺」の記事が掲載されました。
1967年昭和42年2月、朝日新聞社記者の佐々Kさんが白川郷の切妻合掌造りの取材で
白川村を訪れ、松古Kさんから初めて帰雲城の話を聞いたそうです。
1969年昭和44年8月20日の朝日新聞に、「帰雲城悲史城跡に供養碑」の記事が掲載
されました。12月15日の中日新聞に、「帰雲城地震一夜で埋没」の記事が掲載されました。
1970年昭和45年1月9日の朝日新聞に、「白川郷に眠る幻の宝帰雲城黄金物語周辺」の
記事が掲載されました。月刊誌宝石2月号に松古Kさんの「黄金の眠る幻の城ここにあり」が、
掲載されました(談・構成 佐々K)。飛騨春秋6月号に森本Kさんの「帰雲城址埋宝伝説に
ついて」が記載されました。
帰雲城の本を出した人では、1972年昭和47年6月佐々克明さんが『まぼろしの帰雲城』
の本を、発行しました。帰雲城を扱ったテレビ放送では7月28日、名古屋テレビの奥さん!
2時です「黄金5千億飛騨山中を掘る」が放送されました。
帰雲城の発掘調査をした人では、1973年昭和48年5月、6月黒沢昭二さん(のちの
帰雲城調査会会長)が、中央大学城郭研究会の学生5人と保木脇で発掘調査を行いました。
1977年 昭和52年、松古Kさんが他界しました。
1979年 昭和54年、白川村平瀬の田口Yさんが保木脇に内嶋氏一族の供養のために、
帰雲神社を建立しました。
1985年 昭和60年6月に、白川村の要請で金沢大学地質学部の絈野Y教授らが、
学術調査を行い、庄川西2ケ所でユンボによるトレンチ調査(重機を使って地面を掘る試掘
調査)を実施しました。10月27日、白川村平瀬の田口Yさんが保木脇に内嶋一族の供養の
ための観音像を建立しました。10月27日、白川村平瀬において白川村主催で帰雲400年・
白川フォーラムが開催されました。11月に佐々克明さんが「帰雲城大崩壊」の本を発行し
ました。
1986年 昭和61年8月9日に岐阜テレビ放送で「埋もれた城」が放送されました。
10月20日、佐々克明さんが死去しました。帰雲城を調査する団体では、11月1日、
「白川・帰雲城を考える会」が発足しした。
1989年 平成元年5月7日の岐阜新聞に、「第4の城があった?」という記事が掲載され
ました。
1993年 平成5年4月1日に、白川・帰雲城を考える会を、「白川郷埋没帰雲城調査会」
(黒沢会長)と名称を新たにしました。
ラジオ放送では、1995年 平成7年9月16日、東海ラジオのみのひだどらまん街道で
「幻の帰雲城」が、ラジオ放送されました。
1998年 平成10年1月7日、東海ラジオで「黄金伝説帰雲城」が、ラジオ放送され
ました。
1999年平成11年6月に長良川病院の森省三院長が、保木脇に帰雲城趾碑を建立して、
除幕式が行われました。11月20日、白川村鳩谷の鳩谷コミュニティー会館で白川郷文化
フォーラム'99「内ヶ島氏と中世白川郷」が開催されました。11月、黒沢昭二さんが
「幻の戦国武将」の本を発行しました。
2005年 平成17年5月13日、白川村鳩谷の鳩谷コミュニティー会館で、白川郷
埋没帰雲城調査会の講演(講師 坂部先生)が開かれました。11月28日、白川郷埋没帰
雲城調査会の黒沢昭二会長が他界しました。
2008年 平成20年5月17日、白川村飯島の「白川村総合文化交流施設」で、
白川郷埋没帰雲城調査会の講演(講師 安達会長、若宮先生)が開かれました。
帰雲城や内嶋氏の歴史や資料を見るには、白川村の図書室に本や資料が
あり読むことができます。
さて、岐阜県大野郡白川村の保木脇地区にあったとされる、帰雲城と内嶋氏について現在、
「白川郷埋没帰雲城調査会」という団体が、資料などから内嶋氏の歴史を調べたり、1年に
1回5月ごろに現地調査を行っています。ところで、現在に至るまで帰雲城跡とされる場所は、
見つかっていません。帰雲城跡は保木脇地区にあったのか、それとも庄川の東の木谷地区か、
大牧地区にあったのでしょうか?
地中深くに眠っている帰雲城は、帰雲山側と、三方崩山側から崩れ落ちた岩石が押しよせた
範囲を記せば、帰雲城と城下町のあった場所を推測できるのではないでしょうか?
天正大地震で亡くなった多くの霊の冥福を祈ります
(2011 H23 07 06 追記)