5白川郷埋没帰雲城調査会公式HP 会報誌紹介
帰雲城調査会事務局より白川郷埋没帰雲城調査会の今までの会報誌等の一部を紹介します。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第60号.発行日:令和8年(2026年)3月13日
1.挨拶
時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。保木脇高圧送電線鉄塔(55,54,53鉄塔)の工事終了後機材等
撤去は2025年8月頃に完了したと聞いております。工事期間中の山道一部コンクリートカーブ道、鉄塔
一帯鉄板敷設は、現在どのようになっているのか、また鉄塔一帯の地面(地形)はどのように変化したのか
心配のところであります。5月4日の現地調査下山時山道を下る際に確認したいと思います。
2.今年は地面の岩を確認する調査を
昨年2025年5月の保木脇上段①東寄り(国道156線側)調査に続き、今年2026年5月4日(月・
祝)の現地調査は、(上段②中央鉄塔附近)田口プラントから北方へ歩行し(55,54,53)鉄塔一帯の道なき起伏
地形を登り下りし北へ縦断して53鉄塔まで地表面(地面)の①岩(角礫、流紋岩)の散乱状況と②岩大小を
確認する田口プラントから北方調査を実施します。その際、凹凸の起伏地形を登り下りして③一部平らな地面
(削平地)は残っているのか、崩壊堆積物地表は④平らでないことも体験確認し、道なき道を進み草木をかき
分けて進むので長靴と軍手を持参下さい。
3.昨年令和7年(2025年)度行事報告
昨年、令和7年(2025年)5月4日(日、みどりの日)の現地調査は「保木脇上段①東寄り田口プラ
ント北方縦断地表面確認調査」を実施したのを活動記録も含め紹介します。
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保木脇上段①東寄り田口プラント北方縦断地表面確認調査報告書
白川郷埋没帰雲城調査会 事務局
2026年令和8年2月14日
1.帰雲城調査会公式現地調査(岩の大きさ確認調査)
2025年令和7年5月4日(日、みどりの日)、岐阜県大野郡白川村保木脇(地区)の上段と呼んでいる
東側寄り(国道156号線側)で公式帰雲城現地調査を実施したのを活動記録も含め紹介し述べる。
この調査は、上段に散乱していると思われる岩石(角礫)の大きさを確認する調査で、上段の①東寄り、
上段の②中央辺り、上段の③西寄り山際の調査3ヶ所のうち、今回「上段①東寄りの調査」をすることに
した。この日の天気予報では晴れ雨最低5℃最高17℃の予報だ。GWとあって交通量は普段に比べ少し多め
だ。(中略)
3.調査装備品
装備は、長靴、長靴カバー、軍手、方位磁石、ホイッスル、鈴、カウベル、毒吸出し吸引器、消毒液、紙地
図で、キツキツだがスポーツドリンクはポシェットに入ったので軽装で身軽である。上段東寄り国道沿いの方
の道を北に進み右手携帯中継タワー1本目(標高約601m)を過ぎ右下の低くなった削平地、(新聞記事:
桜の苗木20本を植えた場所か?(公園跡か?標高約599m)昭和44年1969年8月20日(水)「朝
日新聞夕刊4版(7)よみがえる白川郷の帰雲城非史」記事)がある。熊突然出没が怖く臆病なので早速鈴を
揺らし鳴らしホイッスルを吹きながら進む(ピー)道を進み右手2本目の携帯中継タワー(標高約604m)
を北へ進み、左下目視約5mの低地(目視東西約20m、目視南北約15mの低地、高度約603m、以前
地元聞取り調査で「萱(かや)場」と呼んでいる場所で記録に残すとても重要な場所である)あり。道はここ
から歩ける程度の狭い道幅となる。目の前の露出した岩をメジャーで測り①約1、7m、②約0、5m、③約
0、6mの角礫、流紋岩(類)を(標高約609m)確認した。鈴を揺らし鳴らし、ホイッスルを吹きながら
進む(ピー)
4.帰雲川原城跡(遺跡登録地)
進み目の前に高くなった所を登り左が「帰雲川原城跡」遺跡登録地(標高約622m)である。暑くないが
運動量で頭部汗ばむ。遺構を西に横切り雑草は生い茂っていないので地形(地面)を確認しやすいのである。
東に戻り北へ進み下り。低い場所に立ち(標高約609m)幅は目視約10mだ。北に上り進みすぐ「61
8地点」(標高約618m、ここもとても重要な場所)に立ち高所部目視約1、8mの高さ地形を確認した。
西に移動して一帯の状況を見てから東に戻り北へ進む。目の前の岩④約1、2mの大きさで角礫、流紋岩
(標高約622m)である。北へ進み54鉄塔の東辺りになり流紋岩角礫約⑤0、3m~⑥約0、7mを60
コ以上(標高約621m)確認した。マムシは現れないようにと恐れながら調査をする。(中略)
5.帰雲城を襲った岩石(流紋岩類)
天正地震(天正13年11月29日、1586年1月18日)で庄川(という川)右岸の帰雲山一帯から
崩れた土砂岩石(岩質;濃飛流紋岩類)が庄川を越えて左岸保木脇(地区)にあった帰雲城と城下町を襲い
丸ごと埋めてしまったのである。保木脇の岩質は凡そ花崗岩(白山花崗岩類)とされている。今目の前にして
いる地面に露出している岩はどれも角礫(岩の角が鋭く角ばっている)で流紋岩(類)なのである。北に進み
谷間(無名谷、仮称谷間2)を越え、⑦約0、5m、⑧約0、6m角礫流紋岩(標高約620m)あり。鈴を
揺らし鳴らし、ホイッスルを吹きながら進む(ピー)進み⑨約0、5m、⑩約0、6m、⑪1、2m角礫流紋
岩(標高約622m)あり。気温は雑木林の陰になり暑さは感じないが、頭部は汗ばむ、風なし。北に進み
植物のブッシュがあり、前に進めず、左前にも進めず、右前を進む。マムシは現れないようにと恐れながら
調査をする。全く疲れていないがさすがに早めのスポーツドリンクを補給しておく。
6.谷間越え
谷間(無名谷、仮称谷間1)を越え進み⑫約1、0m、⑬約1、0m、⑭約1、3m角礫流紋岩(標高約6
23m)あり。<次が大岩ゴロゴロの場所>北に進み角礫流紋岩⑮約2、0m、⑯約2、0m、⑰約1、3
m、⑱約1、5m、⑲約2、1m、⑳約2、2m、?約1、7mが散乱していた。この7コの岩は歩いた頂部
から西にほんの少し下がった斜面場所(標高約624m)に散乱しているのである。北に進み登ると53鉄塔
(標高約646m)で一帯に大岩はなかった、11:22。崩落した岩石のスピードは流動で斜面を駆け上が
ろうとして53鉄塔(標高約646m)には「大きな岩」(大岩)はここまでは到達(乗り上げることは)で
きなかったようだ。53鉄塔西の頂部(標高約651m)から西の雑木林の中の無音の静けさは気持ち悪い
(中略)
7.下山(帰雲城の館は水場のとなりに)
楽な方のカーブ部分はコンクリートになった山道を下山(南下)。しかし、山道の静けさは妙に気持ち悪い
のでホイッスルを吹きながら進む(ピー)山道を下りていく途中、右手下に「水場1(跡)」<の隣に帰雲城
があったのだろう>の池(標高約620m)はあるが水の流入する音は聞こえない。進み次に右手には「水場
2」(標高約595m)<の隣に帰雲城と城下町があったのだろう>があり珍しく雪解け水なのか30㎝程度
の幅で水量はザーっという音がしていた。(今までの調査で水量はとても少量だったが今日このような多い水
量は初めて見た)進み右手に1ヶ所残雪あり。ここで、右手斜面上部から何やら音が、恐怖してホイッスルを
吹く。(走ったらダメ)まー動物の気配だということは分かるのである。(本当怖い)田口プラント北車の
所(標高591m)まで来てようやく安心したのである。さて、53鉄塔、54鉄塔、55鉄塔は建て替え
工事は終わり新しい鉄塔になっていたのであった。(中略)
10.帰雲城の館に関する記述のヒント
ここでは、現代の人が記した記述から帰雲城の館(居城、城主の住まい)を探るヒントは何だったのか紹介
します。重要な手がかりを得た研究者は論文や報告書等の形にして帰雲城の館位置を推測、又は推定して発表
する術を当時はなかったようでした。昭和40年代という時代は書籍がまだまだ一般的で「ズバリ週刊誌、
月刊誌に投稿した一文に館位置に関する重要なヒントを記し残していました」この掲載物は当時の帰雲城調査
に関する事情をせきらら(赤裸々)、ありの間々に書いています。帰雲城の館で使っていたと思われる生活
用水(山水、水場)を松古孝三氏は2点の掲載物で記していました。(この松古氏の記述から、2016年
より公式調査を実施して水場の位置を調べ始めてから10年がかりでようやく2025年に水場は何ヶ所ある
のか判明して証拠、根拠の1つとして述べ「水場のとなりに帰雲城の館があったという仮説」です)<ところ
で、1950年頃昭和25年頃から帰雲城の史料を調べ始めた白川村荻町の旅館城山館の主人で郷土史家の
松古孝三氏は帰雲城調査の地元第一人者で、伝説のベールにつつまれていた帰雲城の全容を明らかにした人物
で松古氏は掲載物に重要なヒント(水場について)を残しており、我々(調査会)は感謝感謝です>
11.現地調査結果
保木脇上段東寄り(国道156号線側)、田口プラントから北方縦断調査を実施して地表面のあちらこちら
に散乱している岩のうち目についた岩石を21個程度確認して記録した。(数えた岩も含むと21個+48個
=計69個程度)この21個の散乱した位置を何処何処にあったという位置説明をするのは難しいことから、
5000分1地図に約100mのメッシュ(線間約100m)を引いて区画を(具体例13のH)番号で示す
ことにする。21個の岩の場所大きさは図2に示した通りである。岩石の大きさはメージャーで簡易計測した
もので誤差はあることから岩石の大きさは全て「約」(何m)とする。各地点標高は国土地理院地図標高数値
を使用した。(中略)
上記、21個の岩(角礫)の位置を地図上に起こしたところ、大きな岩の位置に注目すると2点の興味
深いことが浮上した。(中略)
13.「2m以上の岩石場所」(図2参照)
まず約2m以上の大きな岩石(角礫)は「6F」区画に集中していることである。ここで、資料2点をみて
みよう。
資料①、『事例からみた地震による大規模崩落とその予測手法に関する研究』安間荘著.p24~28.2-3
「日本の事例(1)帰雲山の大崩壊」(井嶋伸納ほか、昭和59年1984年)「p27.上段堆積面を作った
崩土は天正白川地震より前に、帰雲山西斜面直下の古い解析の進んだ崩落崖地形を呈する部分が大崩壊を起こ
し、ほぼ東西に延びる谷を直進し、庄川の下流に向かって突入して堆積したものと想定することができる」
つぎに資料②をみてみよう。昭和60年(1985年)10月27日(日)に「帰雲400年・白川フォー
ラム」が開催され講演で『400年前の帰雲大崩壊について』絈野義夫教授の資料の1ページ(下から4行目)
に「トレンチ1は、上段西寄りほぼ中央の凹地で実施され、上面の高度は約600m、約20m×20mの
方形でロート状に掘られ、中央最深部の深さは地表面下約10mである。厚さ約10mの堆積物は、トレンチ
面でみられる限り、すべて大小の角礫及び岩魂(がんかい岩塊)を含む乱雑なもので、岩魂の配列や成層構造
などはまったく見られず短時間に一挙に累積した崩壊堆積物であることを示している。」と2点の資料は述べ
ていることからすると、「6F」区画の大きな角礫は、天正13年の天正地震以前に庄川右岸の山崩れ(山体
崩壊)により短時間に堆積したのが上段「6F」区画に散乱した大きな岩石(角礫)になる。
14.「1,5m~2m未満岩石場所」(図2参照)
つぎは1,5m~2m未満の岩石は「6F」と間の区画を空けてなぜか「10G」の2ヶ所に大きな岩が
ある規則性に注目できるのである。特に「10G」区画に約1、7mの大きな岩石(角礫)が1個のみポツン
とあることに何故か疑問を感じた。 この大きな角礫は①天正地震以前の山体崩壊堆積物か、それとも②天正
地震による(現帰雲山一帯崩れか、屋ケ平山の崩れによるものか?)山体崩壊堆積物なのかという「10G」
区画の大きな岩1個のみについて疑問になったのである。
15.地中の岩石
ところで、大きな岩について地中から出土したのに関しては、2021年令和3年11月13日(土)、
保木脇の上段田口プラント敷地内をテレビ愛知が重機を使って高度約591mから地面を掘削していると深さ
約8m(高度約583m)の地中から大きさ1,86mの岩(角礫)が1個出土して岩質に関しては未確認
である。(他には1.68m1個や、約1mの岩が4点出土したが岩質未確認)
16.おわりに
現在、保木脇の上段と呼んでいる場所の土砂について①天正地震以前の崩壊堆積物と、②天正地震と(安政
地震を含め)2~3の山体崩壊堆積物があるかもしれない。上段と呼んでいる地形は一時期による(天正地震
以前)地形かと思っていたが、2つの異なった時代による地形なのか改めて考えてみる必要があるようだ。さ
て、保木脇上段の岩の散乱状態をこの目で見て確認したく今回本会(帰雲城調査会)は調査を実施したのだ
が、これだけでは推論に至らないことから次に上段②中央辺り、つぎは上段③西山際の調査を実施して岩の
散乱状況から何かしらの違和感に気づきたいと思っている。
(資料記録の一文に重要なヒントが眠っているのでそれを見出せるか否か)
「 記録を取り続けること 記録を後世に残し伝えること 」
参考文献
①、『事例からみた地震による大規模崩落とその予測手法に関する研究』安間荘著.p24~28.2-3「日本
の事例(1)帰雲山の大崩壊」(井嶋伸納ほか、昭和59年1984年)「p27.「上段堆積面を作った崩土は
天正白川地震より前に」、帰雲山西斜面直下の古い解析の進んだ崩落崖地形を呈する部分が大崩壊を起こし、
ほぼ東西に延びる谷を直進し、庄川の下流に向かって突入して堆積したものと想定することができる」
②、『400年前の帰雲大崩壊について』絈野義夫.昭和60年(1985年)10月27日(日)帰雲4
00年・白川フォーラム主催白川村・白川村教育委員会.資料の1ページ(下から4行目)「トレンチ1は、
上段西寄りほぼ中央の凹地で実施され、上面の高度は約600m、約20m×20mの方形でロート状に掘ら
れ、中央最深部の深さは地表面下約10mである。厚さ約10mの堆積物は、トレンチ面でみられる限り、す
べて大小の角礫及び岩魂(がんかい岩塊)を含む乱雑なもので、岩魂の配列や成層構造などはまったく見られ
ず「短時間に一挙に累積した崩壊堆積物である」ことを示している。」
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4-5.田口プラントの本当の地面高度(中略)
180度逆転の発想から帰雲城の位置を
さて、保木脇の深山豆富店前の高度は約575mで、約500年前の内嶋氏当時の地面も高度約575mだっ
たと仮定した場合、現上段も約500年前の内嶋氏当時の地面は高度約575mだったと仮定して仮説を進めて
みよう。「天正地震以前の山崩れによる土砂は保木脇現上段のどの辺りまで来たのか」現上段に土砂が押し
寄せた範囲(先端)を、(現田口プラント南方仮称カエル池南辺りまで土砂が到達したようだが)ここでは
鉄塔番号、田口プラントと分かりやすい場所で示し、帰雲城はズバリ何処にあったのかを推察するのではなく、
「この仮説の場合だと帰雲城はここになるという風に180度逆転の発想」で仮説3点を記すことにする。
保木脇「下段」とは保木脇現国道156号線の場所を指す。
「天正地震以前の山崩れによる土砂は現上段のどの辺りまで来たのか(仮説)」
1、「土砂は54鉄塔から現帰雲川原城跡まで押し寄せた仮説」のちに内嶋氏は保木脇に来て①下段と
現帰雲川原城跡の②南から③現田口プラントの計3ヶ所の主な範囲の何れかに住んでいたこととなる。そ
の後天正地震で住んでいた3ヶ所は埋まったということになる。
2、「土砂は54鉄塔から55鉄塔まで押し寄せた仮説」のちに内嶋氏は保木脇に来て①下段と②田口プラ
ント一帯の計2ヶ所の範囲の何れかに住んでいたことになる。その後、天正地震で住んでいた2ヶ所は埋まっ
たということになる。
3、「土砂は54鉄塔から田口プラント敷地内まで押し寄せた仮説」のちに内嶋氏は保木脇に来て(上段
54鉄塔一帯、55鉄塔一帯、田口プラント一帯(仮称カエル池一帯まで)天正地震以前の土砂災害地である上段
起伏地形はその間々にして上段には一切住まず)下段の一部のかなり狭い場所に住んでいだことになる。その
後、天正地震で住んでいた下段の一部は埋まったということになる。と、上記3点の仮説である。
ここで更に新たなる疑問を、
①田口プラントまで山から崩れた土砂は到達可能なのか?
②田口プラント(仮称カエル池南)まで到達したのはどの山からの土砂なのか?である。
4-6.はしり書き
帰雲城の位置を調査研究するにあたり、最初にまず何よりも「①「天正地震以前」の山崩れで土砂は保木脇
上段どの辺りまで押し寄せた範囲なのか」を、これはとても解けそうもない「最大の謎」の1つの根本的な
重要な課題に突き当たり、これをチャレンジしようとしているのである。そしてつぎに「②約500年前の内嶋
氏当時の地面はどのようだったのか」という、これもかなり難しい「一番の謎」を解かない限り帰雲城の位置
について辿り着かないである。さて、保木脇に押し寄せた土砂に関して、国土地理院地形図、CS立体図を
何回も何回もにらんで土砂の到達した範囲をシュミレーションし何日も考え推測し、時には堂々巡りして頭が
さえて眠れない日も多々あり、何ヶ月も経ったある日パッっと推察に達すると、ここでまた新たな疑問の
飛躍が生ずるのである。帰雲城の位置を推定するための「約500年前の内嶋氏当時に関して」を含め基本的な
どれも重要な相当難しい課題を忘れないよう走り書きしておく。
1,「天正地震以前の崩壊土砂は保木脇現上段のどこまで到達したのか?」
2,「内嶋氏当時地面は1面だったのか?」河岸段丘下位上位の2段地面あったのか。
3,「天正地震で現上段は埋まったのか」上段0人で下段約500人余り埋没はおかしい。
4,「安政地震でどの山が崩れ土砂が保木脇のどこに押し寄せたのか?」
5,「帰雲川原城跡遺構痕跡が残っている理由は?」土砂が頂部まで到達していない?
6,「上段に平らな地面(人工削平地)は少しでも残っているのか?」調査実施中。
7,「保木脇にある水源地は何ヶ所か?」→本会現地調査済(結果水場計12ヶ所あり)
8,「白山神社跡(荘白川デンカ生コン跡)の小山下がじつは居城だったのでは」
5.令和8年現地調査の開催について(案内)
白川郷埋没帰雲城調査会から見出しの件につきまして下記のように開催しますので、参加下さいますよう
ご案内申し上げます。尚、総会と研究発表会の会場は「白川村南部地区文化会館(NBK.旧平瀬小学校)」
2階研修室(白川村平瀬126-11、TEL*****-*-****)で行います。
1.現地調査 「田口プラント北方上段②中央付近縦断地表調査」
日時 令和8年5月4日(月)AM9:00~12:00
集合場所 白川村保木脇「帰雲城趾碑」前、AM9:00集合出発.
調査場所 田口プラント北方上段②中央鉄塔附近縦断地表面確認調査.
行動予定
集合出発 AM9:00 黙祷、帰雲城趾碑前、出発.
調査開始 9:10~12:00 歩行、岩散乱状態、岩大小確認調査.
解散 12:00(12:00解散、昼食おにぎり等や、飲料は各自で用意下さい)
長靴で参加ください。雨天時、中止とします。(中略)
9.帰雲城参考情報
1、2025年令和7年2月26日(水)、NHK「歴史探偵白川郷と五箇山」歴史を動かした合掌造り、
PM10:00~10:45、放送。
(放送内容;合掌造り、屋根裏養蚕、白川郷戦国時代帰雲城黄金伝説に触れる埋没金伝説絵図、飛騨の砂金
芝金跡(六厩金山跡)、家康家臣名古屋城進言(内嶋氏家臣荻町城主山下大和守氏勝天正地震後家康に仕え
る)、名古屋城金のしゃちほこ、床下煙硝などの放送内容)
2、2025年3月29日(土)、メ~テレ「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん戦国ヤバすぎ
新説SP」PM6:30~10:00、放送。
(放送内容;戦国ヤバい新説9位徳川埋蔵金越え埋蔵金が眠る城!?帰雲城[映像提供テレビ愛知])
3、2025年12月19日(金)、NHK「結の屋根葺き~世界遺産・白川郷つむぎなおす絆~」PM7
:57~(45分)放送。
(放送内容;屋根ふき様子新たな結を模索する1年)
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第59号.発行日:令和7年(2025年)3月12日
1.挨拶
時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。保木脇高圧送電線鉄塔(55,54,53鉄塔)の建て替え工事を
行っており、鉄塔一帯の地面(地形)は工事車両が入れるよう造成してある所もあり約400年以上前の地形に
あらず残念であり懸念をしております。
2.今年は地面の岩を確認する調査を
今年2025年5月*日(*)の現地調査は、田口プラントから北方へ道なき起伏地形を歩き縦断して53
鉄塔南まで地表面(地面)の①岩(角礫、流紋岩)の散乱状況と②岩大小を確認する調査を実施します。その
際、凹凸の起伏地形を登り下りして崩壊堆積物地表は③平らでないことも体験確認したいと思いますので、
長靴と軍手を持参下さい。
3.昨年令和6年(2024年)度行事報告
昨年、令和6年(2024年)5月4日(土、みどりの日)、保木脇において田口プラントから南の4区画
目の水場等有無確認調査を実施しました。現地調査用の装備は、薄手の長袖・長靴(マムシに噛まれないため
の)と長靴カバー・軍手・鈴・ホイッスル・方位磁石・毒吸出し吸引機・消毒液を用意した。現地調査は山
登りではない麓の調査なので比較的軽装でOKである。GW濃い青空晴天だ。
帰雲城趾碑にて
10:50、白川村保木脇地区の帰雲城趾碑前に到着、20℃、濃い青空晴天。M会員が到着して計2名なり。い
つもだとこの時期晴れだと陽が射し肌はジリジリ暑いのだが今日の陽射しは強くなくそんなに暑くはない。い
つもだと風は冷たいのに今日はさほど風は冷たくないのである。山は新緑(若葉色)と濃い緑の2色だ。11:
00になったので、まず昨年2023年帰り雲神社の祠の遷座祭が催され朱塗りの祠にお参りしました。つぎに
観音像に手を合わせました。(天正地震で亡くなった多くの霊の冥福をお祈りします)
公式現地調査スタート
車で移動し上段田口プラント北に停め、これから調査するコースを自動記録するためスマホのヤマップを
起動開始した。ここで、これから4区画目を調査する田口砂利プラント脇から南下、仮称カエル池を過ぎ
弓ヶ洞谷下流域旧3番目の谷筋跡まで進み、今度は山裾を北上して水場等を確認するコース説明をした。
現地調査開始、11:10。帰雲城の館(城主の住まい、居城)で使っていた生活用水、飲み水、水源地はどこ
なのか水場等の調査をここ数年間調査範囲を区画に分け今日の現地調査で全区画の水場等学術調査を終える
のである。調査する範囲の立入申請をしてあるので砂利プラント敷地外東からまず登る。いつものことだが
山に入る際の最初の1歩は雑草が生い茂りかき分けて入るのに苦労するのである。だが、雑木林に入ると
じつは木々の日陰部分なので雑草の背は低いので歩きやすいのである。早速、いつものことながら落ちた
枝を拾い杖にして歩く。現地調査の際は、いつも必ず杖をするのである。南へ歩く。調査する範囲は山麓と
いっても平地ではなく、斜面崩れ(山体崩壊)により土砂が押し寄せ堆積した(埋まった)高くなったり低く
なった凹凸のある起伏の地形である。これから向かう保木脇字堂ノ上にある仮称カエル池と呼んでいる場所
には何回も入っているが歩くたび進むコースは同じではないので、未知の場所を歩くのは何か冒険心をくす
ぐりワクワク興奮してうれしいのである。(卓上推測より、やはり自然の中の未知の領域現地調査は清々しく
楽しい)仮称カエル池両側の地形は何か人工的にも見えるが村上会員と地形斜面を確認してみる。普段、
カエル池に水はないが水場等として記録する。今度は仮称カエル池から南に歩き水場の音はしないか聞く。
CS立体図現在地起動
地面に水の流れた水路のような溝跡は2ヶ所あり。ここでスマホにある起伏地形のよりはっきりと分かる
CS立体図を立ち上げ現在地を確認する。ほー、現在の位置はここか、弓ヶ洞谷(という谷)下流域旧3番目
の谷筋跡まではまだ南に進まなくてはいけないので更に南へ歩く。最近の現地調査では紙地図を用いず携帯
電波の届く範囲であれば「ヤマップ」と「CS立体図」の2点により「現在位置を正確に表示し」、「起伏
地形が分かる」ことから便利なので使用しているのである。ヤマップは歩いたコースを履歴表示するし、C
S立体図はデコボコの起伏地形や谷間や尾根の起伏を示し現在地を表示するので、我々の現地調査に大いに
役立っているのである。さて、麓の調査であってもやはり熊やイノシシが怖い。今日の現地調査でも獣に出
会うのが怖くビビリなので小まめにホイッスルを吹く。そういえば、山の中の調査において地面は踏み固めて
おらず固くないので、ものすごく柔らかいフカフカのじゅうたんのような地面なのでとても歩きやすいので
ある。雑木林の中は陽が直接当たらず汗ばむこともなく涼しいのである。おっ、動物の頭蓋骨が。水の流れた
谷のような溝を過ぎてから、またCS立体図を表示し現在地を確認すると弓ヶ洞谷下流域旧3番目の谷筋跡南
の位置に立っているのを確認した。(現在の調査は紙地図を使用せず、GPS機能付地図等で正確に現在地を
知ることができるので現地調査の仕方は格段にしやすくなった)今、立っている場所は弓ヶ洞谷下流域の
三角州、扇状地になった地形で、弓ヶ洞谷下流域谷筋の流れは今までに6本あることが地質図で確認されて
おり現在6番目の流れである。さて、帰雲城当時(1464~1586年)弓ヶ洞谷下流域の谷筋は3番目辺りの
流れだったようで、11:47今3番目の谷筋跡南に立っているのである。今の所、水の出ているヶ所はない。
現地調査結果
今日は、水の漏れていると思われる場所と、カエル池、湿地帯の計3ヶ所の水場等を確認したと調査結果を
伝え本会公式現地調査終了しますと述べた、12:20、解散、濃い青空晴天。晴れなのにそんなに暑くないし、
風は冷たくないのである。ここで、少しお腹を満たしパワーを付けるため「僕はおにぎり1とほうじ茶を
飲む」ここで今日調査したコースを記録したヤマップを終了した。現地調査は以上でした。(中略)
全区画の水場等有無確認調査完了
上記、4区画目の調査をもって帰雲城のあった保木脇のシッタカ谷から弓ヶ洞谷(下流域旧3番目の谷筋跡)
までの1区画目~4区画目までの全区画の水場等有無確認調査は完了したので会員の皆さんへ報告いたします。
4.水場等有無確認調査結果報告書
本会(帰雲城調査会)においてここ数年水場等調査を実施した報告書を紹介します。
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白川郷埋没帰雲城調査会 (公式調査報告書)
『保木脇水場等調査報告書』白川郷埋没帰雲城調査会事務局.令和7年(2025)2月21日
1.はじめに
岐阜県大野郡白川村保木脇にあった帰雲城について、帰雲城と城下町で使用していた生活用水となる水場等
有無の調査を実施した内容と結果を述べる。
1-1.水場等を調査するに至ったきっかけ
そもそも保木脇地区の水場等に関する収集した記録は下記2点のみである。
①.『週刊文春』文芸春秋[続] 「出るか5000億の金塊大資本も乗り出した飛騨幻の帰雲城の財宝」
1972年(昭和47年)8月21日p56~p59掲載.国立国会図書館所蔵.57ページの4段目の3行目に
「近くに泉が湧き」という一文があった。
②.『平凡パンチ』「日本の地底にまだ83兆円の金が眠っている!!岐阜県の帰雲城跡、群馬県の赤城山、
注目の2拠点」1972年(昭和47年)9月18日p36~p41掲載.国立国会図書館所蔵.37ページの図
(帰雲城跡断面図)に「最近発見された沼地水源地とみられる水がわきでている」と記してあった。①、②を
国立国会図書館から取り寄せたのは2013年平成25年1月であった。この保木脇の水場等に関する2点の
記録から、水場等近くに帰雲城と城下町が立地していたと推察し調査を実施することにした。
1-2.山水等の水場を調査
生活用水は、①山水を利用した水場等、②井戸水を利用した水場を考えられるがここでは①山水を利用した
水場等を考え現地調査を実施することにした。
1-3.調査範囲
調査場所は保木脇地区内の中央、シッタカ谷(という谷)南から、保木脇地区の南部弓ヶ洞谷(という谷)
北までの山裾から麓、川原までの南北約2000m、東西約800mの範囲を調査場所に選定した。(図1の長方形に
囲んだ範囲は、帰雲城の山城と館、城下町のあったと推定される場所なので、この長方形の範囲を水場等有無
確認調査場所とした)
1-4.調査区画
調査範囲を区画に分け、1区画目は上段田口プラントの北周辺、2区画目は国道156号線周辺から川原
まで、3区画目はシッタカ谷南(標高651m)周辺、4区画目は上段田口プラント南周辺の4区画に分けた。
1-5.調査期間
本会は年1回程度の公式調査を実施し、平成28年(2016)5月21日から令和6年(2024)年5月4日まで
4区画の調査を実施した。
2.保木脇水場等有無確認調査
保木脇の水場等有無確認調査とそれに至る経緯を紹介する。
「保木脇水場等に関する記録2点」2013年平成25年1月、国立国会図書館から帰雲城に関する資料
8タイトル(コピー)を入手して、この中の2点に保木脇の水場等に関する記録があった。(1-1.①、②)
「保木脇起伏地形調査」2013年平成25年4月26日AM8:25~10:30、保木脇シッタカ谷南の高圧送電線
第53鉄塔辺りから田口プラント北まで崩壊堆積物起伏地形目視調査を実施して図を作成。この時、池(図1
の水場1)を確認。そもそも田口プラントから北の起伏地形はどうなっているのか知りたくて地図を持ち縦断
調査した。アップダウンの起伏の荒々しい場所を目視で深さ、高さを記録した。(53鉄塔南深さ目視約30mの
低地あり、622m地点[現帰雲川原城跡]南深さ目視約20m低地あり)
「保木脇高度計測実施」2014年平成26年4月16日AM7:45~PM1:15、保木脇シッタカ谷南から弓ヶ洞
谷北までの広範囲の任意地点をデジタル高度計で標高計測実施。今度は、上段の各場所高度を知りたくデジ
タル(気圧による)高度計で40地点以上を標高計測した。しかし、気圧による高度計は誤差が激しいので標高
参考数値にならなかった。
「保木脇水場等聞取り調査実施」保木脇地区のO家当主に2014年平成26年5月5日AM9:40~10:00
聞取り調査実施。「O氏談:シッタカ谷北のU、N、Oの家があり、U家が火事でシッタカ谷南へU家が移転
した。そして移転したU家の下に道があった。池のあった場所は(地図に池の位置を記してもらった)ここ
だ。(図1の水場1)池に流れる谷水の水量は少量でなく、ザーっと流れていた。昭和31~32年(19
56~1957年)頃の御母衣ダム建設導水管(発電後排水管)工事後辺りから谷水は枯れた。以前上段林道
の道幅は狭かった。池の水は林道東に谷水の流れた跡がある。帰雲城のあった場所は池(図1の水場1)の
東辺りじゃないかと思う。返り雲山の山名は分からない(無名山)」
「保木脇のこと聞取り調査」保木脇地区のN家当主に2014年平成26年5月18日AM9:00~10:20
聞取り調査実施。「N氏談:池(図1の水場1)東辺りが城だったと思う。53鉄塔西辺りは田んぼで<棚田
のような>段々が数段あったが今はもう田んぼをしてない。一軒屋はI宅のことで最初にI家が今の場所に
住んだので一軒屋と呼んだ。田口プラント営業は昭和40年代(1965~)頃だ。現在のシッタカ橋上流に
昔の丸太3本の橋があった。シッタカ谷北のU家火事で、昭和20年代(1945)頃53鉄塔西へ引越し
て、そしてO、N間裏に住んだがU家は高山へ移転した。保木脇分校北にS家があったが各務原市へ移転し
た。シッタカ橋南にK家、M家があった。雪崩により3軒はシッタカ谷北に移転した、そして大牧ダム、
御母衣ダム補償の時お願いして現在の場所に移り住んだ」
「2016年1区画目水場等調査」2016年平成28年5月21日(土)AM10:00~10:50、U会員
(神奈川県)、KD会員(白川村)、野田会員(岐阜県)の計3名、田口砂利プラントから北周辺の1区画目
の水場等有無確認調査を行う。田口砂利プラント北の山道を進み左手山際の水場(図1の水場2)の位置を
確認した。斜面から流れ出る水量は多くなく弱々しい音だ。つぎに山道を更に北へ進み左手山際の池(図1の
水場1)の位置を確認した。山道の左下目視約4m下に池はあり池に流れ込む水音はかすかに聞こえた。進み
1区画目の範囲を調査したが水場の音らしきはせず、濡れた地形も確認できなかった。1区画目の調査を実施
し計2ヶ所の水場等を確認した。(図1の水場2と水場1)
「2017年2区画目水場等調査」2017年平成29年5月20日(土)AM10:00~PM2:30、K会員(
東京)、H氏、野田会員の計3名、国道156号線西から川原までの南北の長い範囲の2区画目の調査を行っ
た。まず帰雲城趾碑前から川原への道を北に進み下りて川原に出た左手(西斜面の)崖に水の流れている音を
確認した。(図1の水場4)そしてほんの少し北に進み左手(西斜面の)崖に水の流れている音を確認した。
(図1の水場3)川原をこれ以上北に進めないので戻り川原を南に歩いた所で川原地面からしみ出ている
(自噴)水を確認した。(図1の水場5)川原を南へ歩き(深山豆富店から東北東の位置になる)白山神社
南東にある水田東側に水の出ている排水口を確認(図1の水場6)した。(水田の排水口であろうか?)川原
を更に南方へ進み弓ヶ洞谷までゆき西に歩き今度は国道156号線を北上し、国道東下の(弓ヶ洞谷下流域
旧3番目の谷筋跡の位置になる)水の出ている場所を確認した。(図1の水場7)国道を北に歩き道路脇斜面
の濡れた場所はないか見るがない。国道を更に北に歩き調べ帰雲城趾碑まで来たが他の水場等は確認できな
かった。2区画目の調査を実施して計5ヶ所の水場等を確認した。(図1の水場3~水場7)
「保木脇水場等聞取り調査」保木脇地区のN家当主に2018年平成30年5月4日PM12:15~聞取り調査
実施。「N氏談:田口プラントから北の山道は、昔けもの道程度の道幅で、今の車用山道とはほぼ同じ山道だ
が、一部分昔のけもの道と違う道もある。(図1の53鉄塔西の破線が旧山道)昔、山水は2~3カ所あった
よ。53鉄塔西のU家跡上の田んぼ(もとN家所有耕地)の水は、シッタカ谷から水路を掘って谷水を田んぼ
に引いた。田口プラントから南の弓ヶ洞谷までの山際には水場はなかった」
「2018年3区画目(1)水場等調査」2018年平成30年5月19日(土)AM10:00~PM2:30、シッ
タカ谷南(標高651m)高圧送電線第53鉄塔周辺の3区画目の水場等有無確認調査を行う。まず帰雲城趾碑
前国道156号線を北に歩きシッタカ谷までの国道脇や斜面に水は流れていないか確認したが水場等の形跡
なし。場所を変え田口プラント北の山道を北に進み目印となる53鉄塔西へ歩きU家跡からシッタカ谷までの
平坦な(水田跡)場所を調査したが水場等確認出来ず。今度は、U家跡の上の山道に出てからまたシッタカ谷
までの平坦な(水田跡)場所を歩くが水場等はなかった。山道を下ると右手(山側)になにやら石積みの場所
が6~7段あり上りこの場所はどうやら段々上の耕地(水田)跡と思われ、水源はどこから水を引いているの
かを確認する時間はなかった。53鉄塔西のU家跡一帯からシッタカ谷までを調査したが、水場等は1つも
確認できなかった。(この日、3区画の西を調査するに至らなかった)
「遺構らしき発見」2018年平成30年10月23日(火)、本会I会員らが保木脇上段田口プラント
北方標高622m地点(のちの帰雲川原城跡)にて山城遺構らしきを発見した。
「2019年3区画目(2)水場等調査」2019年平成31年4月29日(月、昭和の日)AM10:00~
PM2:15、3区画目の西水場等の調査を行う。53鉄塔西の山道を歩いて上の方までまず行き水場等確認調査
を実施した。山道右の段々上の水田跡からシッタカ谷まで水場等はないか調査を行う。少し下に降りて山道
まで調査を実施。途中、斜面岩に湿って黒くなった場所があったのを確認したので一応水場として記録に
残す。(図1の水場8)幾つかある水田跡の排水路の行く先を確認するがどうも住居には引き込んでないよう
であった。ところで、53鉄塔西にある幾つもの水田跡の水源(シッタカ谷から引いた水路)跡のシッタカ
谷からの取り入れ口を確認するに至らなかったが、水場として記録に残す。(図1の水場9推測地)この日、
3区画目にある水場等を計2ヶ所として記録した。(図1の水場8と水場9)午後から(略)標高622m
地点(のちの帰雲川原城跡)を調査。
「2020年水場等調査」2020年令和2年5月4日(月、みどりの日)4区画目の田口プラントから
南の山すその水場等確認調査はコロナの影響で中止した。
「2021年水場等調査」2021年令和3年5月2日(日)4区画目の田口プラントから南の山すその
水場等確認調査はコロナ禍で中止。
「保木脇水場等聞取り調査」保木脇地区の深山豆富店のO店主に2020年(令和2
年)頃と思うが聞取り調査にて。「O店主談:この豆富店を建てる時、店北に①池があっ
たので埋めた」(後日、本会佐々木副会長に聞くと豆富店の建つ前北辺りに②池があったのを記憶し
ていると言った。国土地理院の空中写真昭和42年(1967)にこの場所に③池のよう
な丸い地形を確認できる。これら3点の内容(根拠)から深山豆富店北にあった池跡を水
場等として記録しておく。(図1の水場10)
「帰雲川原城跡遺跡登録さる」2021年令和3年8月27日(金)付、保木脇字帰雲川原の標高622m
地点と呼んでいる場所を、岐阜県は「帰雲川原城跡」として遺跡登録した。
622m地点の城跡遺構情報
場所 ;岐阜県大野郡白川村(大字)保木脇字(小字)帰雲川原.
遺跡名称 ;帰雲川原城跡.
遺跡地権者;保木脇特売地.(中略)
2-1.全区画の調査を終える
この日、2024年令和6年5月4日の調査を終え、1区画目から4区画目まで全区画の水場等有無確認
調査を全て完了した。
3.保木脇水場等有無確認調査結果
本会は保木脇地区内の中央、シッタカ谷(という谷)南から、保木脇地区の南部弓ヶ洞谷北(という谷、
下流域旧3番目の谷筋跡)までの山裾から麓、川原(河原)までの南北約2000m、東西約800mの(図1の
長方形に囲んだ)範囲に内嶋氏の帰雲城(山城、館、居城)はあったと推定して、帰雲城と城下町の生活用水
となる水場等(山水、谷水、谷水跡、池、池跡、清水、湧き水、水路、水路跡、自噴水、排水、地下水、
伏流水、湿地)有無確認公式学術調査を平成28(2016)5月21日から令和6年(2024)年5月4日までの8年間
に及び実施した結果「保木脇の帰雲城と城下町があったと推定した範囲、南北約2000m、東西約800mの範囲に
計12ヶ所の水場等を確認したので会員の皆さんにご報告いたします」(尚、図1の水場Pは引水管破損水と
推測されることから水場等に加えていない)(中略)
4.帰雲城と城下町に繋がる水場3ヶ所
さて、保木脇にある計12ヶ所の水場等から、つぎは帰雲城の館と城下町に繋がる有力な水場等3ヶ所を
取り上げ根拠と考察を述べる。(図1の各水場参照)
①.「水場2」山道左手山際の斜面から流れ出る水は少量で、御母衣ダム工事後に水量が減少したそう
だ。現在、晴天が続くと枯れる。この水場2から東の場所は約500年前の帰雲城内嶋氏当時の(現在より
低かった)地面を推察すると、①山水は東に流れ生活用水に用いるのに適しており、②そしてこの水場2の
東一帯の北に「帰雲川原城跡」遺跡はありこの2点の根拠により(約500年前の帰雲城主内嶋氏当時の地面
(地質、河岸段丘、標高)や、「天正地震以前の災害とする論文(安間荘著)」自然災害堆積物があり、
これらをようやくこれから研究推察する段階であるが)この水場2の東一帯に帰雲城の館と城下町があったと
する考察は至って妥当である。
②.「水場10」深山豆富店を建てる時、「①店北に池があった」という証言と、テレビ愛知消えた戦国の
城(3作品)保木脇掘削において地下から水が湧いた「②水たまり」のシーンがあり、この豊富な水たまりは
標高からするに水場10の西の山の谷に由来する山水等(谷水、伏流水、地下水)と思われ、この2点の
根拠により(内嶋氏当時の地面(地質、河岸段丘、標高)や、自然災害堆積物をようやくこれから研究推察
する段階であるが)この水場10の西一帯には帰雲城の館と城下町があったとする考察は妥当である。
③.「水場1」は池で、池に流れる谷水の水量は以前少量でなくザーっと流れていたが、昭和31~32年
(1956~1957年)頃の御母衣ダム建設の導水管(発電後排水管)工事後辺りから谷水は枯れたそう
だ。現在も池の水を確認できるが、斜面から流れ込む水音はほとんど聞き取れない。①以前水量は多かったと
いうことから山水を生活用水に用いるのに大変適しており、②そしてこの水場1の東一帯の南方に「帰雲川原
城跡」遺跡があることからこれら2点の根拠により(内嶋氏当時の地面(地質、河岸段丘、標高)や、自然
災害堆積物をようやくこれから研究推察する段階であるが)この池(水場1)の東一帯に帰雲城の館と城下
町はあったとする考察は妥当であろう。
4-1.帰雲川原城跡の南北に
帰雲城の館位置に繋がる有力な水場等3ヶ所(水場1東に、水場2東に、水場10西を)流れていたと
思われる場所は「帰雲川原城跡の北と南」である。ようするに帰雲川原城跡の南北に生活用水を確保する
山水は通っていたということである。
4-2.有力水場等呼び名
上記、水場2、水場10、水場1の有力な3ヶ所の水場等の近くに目印になる物、呼び名はないため有力
水場の目印となる2ヶ所にした呼び名は次である。
「水場1ヶ所目呼び名」は水場2の東一帯で、水場10の西一帯であえて目印となる場所を示すなら
「55鉄塔付近にある」。
「水場2ヶ所目呼び名」水場1の東一帯で、あえて目印となる場所を示すならば「54鉄塔と53鉄塔の
間付近」で「53鉄塔南付近」になり「54鉄塔北付近」である。
5.おわりに
保木脇地区の帰雲城と城下町があったと推定した範囲(南北約2000m、東西約800m)の山水等を利用した
生活用水となる水場等全区画の調査を終えてから10ヶ所程度の水場等の数だろうと思っていたら、計12
ヶ所の水場等が判明した結果となり、この中の(図1の)水場1、水場2、水場10の3ヶ所は帰雲城と
城下町で使用していた最適な山水であると考え、今後の飛躍(調査研究)を合わせた結果により帰雲城主
内嶋氏の館のあった位置を更に絞り込むことができるのである。
5-1.水場等10の重要性
さて、(図1の)水場10について池の存在を記録として後世に残す程度に思っていたが、じつは案外
重要な水場であるようでかなり貴重な結果になったのである。
5-2.テレビ愛知掘削調査3ヶ所
ところで、2019年から保木脇においてテレビ愛知(特番「消えた戦国の城」3作品)は重機による
掘削調査を行った地点は遺物の出土物からして、水場10の隣(西)で城と城下町のあった場所としてかなり
有力な的を射た調査を行ったと言えよう。
5-3.水源はどこなのか
水場3と4について、水源はどこなのか西の谷の等高線を探ってみたり、水場10の水源はどこなのかと
西の谷の等高線を読み解いてみるのも帰雲城の歴史ロマンが膨らみおもしろく有意義だろう。
5-4.谷間の謎
帰雲城趾碑西(54鉄塔北)の深い谷間の等高線に注目されたい。この谷間は地山と崩壊堆積物の境界すき
間か、山水の流れ出た水路なのかまだ未確認であるが1つの謎を解く重要な谷間場所なので、今後、現地
調査を行いたいと思う。
5-5.つぎへの飛躍
今回、保木脇にある水場等12ヶ所の位置はようやく明らかになったことにより、更に帰雲城の館の位置に
ついて考察しやすくなったのではないかと思う。
5-6.井戸水使用
ところで井戸水について、深山豆富店の地面(標高)が約500年前の内嶋氏当時の地面程度の高度で
あったならば掘って井戸水を利用していたことは当然考えられるのである。
5-7.水場等位置誤差
図1に記した各水場等の位置は正確ではなく多少誤差のあることを断っておく。ところで、全区画を調査
したが、細かく歩いたわけでないのでまだ他の水場等を見つけていない場所もあるかもしれない。赤丸で
囲んだ西斜面等高線を広域に観察することで何か気づくのではないだろうか。
5-8.御礼
水場等調査に参加した本会会員にお礼申し上げます。保木脇在住の方への聞取り調査にて貴重なお話を
して頂いた方々にお礼申し上げます。(中略)
6.あとがき
史実(歴史)の裏付け調査研究は、ジグゾーパズルに例えると1ピースずつ埋めていくというものすごく
時間のかかる地味な作業の繰り返しである。とある現地調査における地表のなんとも言えない違和感、あの
時の聞取り証言の何気ない一言、見逃していた資料の一文や多々情報を総合して考えていると、帰雲城の館の
一部分(1ピース)を埋める輪郭はある日突然ふと思い浮かぶのである。今回、水場等調査結果により12ヶ
所の位置が判明して貴重な1ピースが埋まったことにより、次に繋がっている疑問だった散乱している
「大きな岩」が証拠になることから以前の調査で気になっていた余りにも異様な「大岩ゴロゴロ」の場所
3ヶ所を以前の活動調査記録に残していたので紹介する。
6-1.3ヶ所の大岩ゴロゴロ場所
①.「耕地東の大岩」白山神社東に耕地(田んぼ)がありその東に大岩ゴロゴがあったのを記憶しており
(岩の大きさから山体崩壊物のようで)耕地造成の際に脇(庄川寄り)に移動した大岩なのであろうか。
②.「池(水場1)の東北大岩」2013年平成25年4月26日(金)、保木脇シッタカ谷南の高圧送電
線第53鉄塔辺りから田口プラント北まで崩壊堆積物起伏地形目視調査をして紙地図にアップダウンの起伏の
荒々しい場所を目視で深さ、高さを記録した。(53鉄塔南深さ目視約30mの低地あり、622m地点[現帰雲川原
城跡]南深さ目視約20m低地あり)この時、53鉄塔から南東の何故か尾根上みたいな所(凡そ高度約631m)
を南に歩いた(左下は国道なり)際、この尾根上の大岩ゴロゴロの存在している位置は余りにも「異様な光景
だった」ので紙地図に(岩)「〇〇〇と10コの丸」を記しておいた。この大岩ゴロゴロの場所は、近くに
目印になる物はなく調査でもまず誰も入らない場所で、田口プラントから北の山道を進み池(水場1)から
東北の位置にあり、53鉄塔から南東に位置する。
③.「帰雲城趾碑東南大岩」これも、②の2013年平成25年4月26日(金)調査時、紙地図に記して
いたもので、帰雲城趾碑東南(荘白川デンカ生コン跡東)にて大岩ゴロゴロを見ている。
6-2.「つぎの研究テーマ」
今回、保木脇の水場等は12ヶ所あったことの判明により①結果により、②次に繋がる疑問が生じ、③次へ
の飛躍(調査研究)に繋がるのである。
さて、つぎの研究テーマは(略)、そして今まで全く気にしていなかった地面(地質と河岸段丘と山体崩壊
堆積物)『仮題2.約500年前の帰雲城主内嶋氏当時の地質(河岸段丘下位上位仮説)について』と、
『仮題3.保木脇の自然災害山体崩壊堆積物(1.天正地震以前、2.天正地震、3.安政地震)について』
をこれから(飛躍)研究する段階に入るわけである。この仮題2、仮題3の研究に関して相当難易度は高く
根拠を示しつつもアバウトな推察になりそうだが、1つの仮説を挙げることにより(①結果→②次に繋がる
疑問→③更なる飛躍調査研究で)帰雲城主内嶋氏の館のあった位置をぐっとかなり絞り込むことができること
からチャレンジをしよう。(ほか、研究テーマ『山間部における水事情(山水、井戸水)について』)
6-3.「今後の現地調査」
今後の現地調査について、主たる調査をする場所はないと思っていたが、じつはようやく保木脇の各水場等
の位置情報が判明したので次は①上段・下段地表の岩(角礫、流紋岩の大小、岩の大きい方を特に注目する)
散乱状況を現地観察調査したり、②崩壊堆積地の起伏現地観察調査をしたり、③帰雲城趾碑西(54鉄塔北)
の深い谷間を現地調査したり、④田口プラント西斜面(字返り雲山、字後平、字乙上の平)崩落土砂現地確認
調査したり、⑤右岸崩壊土砂が保木脇に押し寄せた先端山際部の現地確認調査をしたり、⑥他調査も含め学術
調査を実施するのであり、現地調査場所はまだまだ沢山あるのであった。
6-4.未知の領域チャレンジ
さて、これから今まで行ったことのない保木脇地面(地質、河岸段丘、山体崩壊堆積物)という未知の領域
への調査、研究をすると思うと本当おもしろく(興味深く)ものすごく心ワクワクし新たな一歩を踏み出す
チャレンジ精神は帰雲城の夢とロマンを掻き立てるのである。ところで、本会の公式現地調査は年1回の
スローペースですが、会員の皆さんと地道に一歩ずつコツコツと現地を歩いて学術知見を得てゆきたいと思う。
6-5.この場をお借りして、帰雲城を調べる次世代の有志にこの文言を表す
「 記録を取り続けること 記録を後世に残し伝えること 」
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5.「事務局よもやま話」
①遺構らしき場所へ
2024年5月4日公式現地調査を終了して解散。ここからは別行動になり12:30から2名は別の調査に同行参加
した。(計5名)向かうは53鉄塔辺りだそうだ。保木脇地区ではこの数年高圧送電線鉄塔の付け替え工事を
しており、田口砂利プラントから北に続く山道を歩いて進むとまず右手に55鉄塔西崩壊堆積物地形(地面)の
凹凸起伏地形は平らに整地され地形は変化していたので誠に残念だ。(デコボコ地形を見るには良い場所だ
った)山道を進み未舗装の道幅は広くなりどうも大型トラック等の通行できるようカーブではコンクリート道
になっていました。54鉄塔西崩壊堆積物地形(地面)に鉄板が敷き詰められ起伏地形は変化していた。54鉄塔
横には固定式クレーンがあり一帯の地形は造成してあり約400年以上前の地形にあらず残念さを感じた。(ま
た、最初の昭和30年代か?鉄塔工事で一帯はどうも造成したようだと気づき鉄塔一帯は堆積物地形は数百年の
間々あらずと知った)(略)
③保木脇に本城を築いた本当の理由
上記、この現地説明で現場に立ち新たに感じたことは、内嶋氏が本城を比較的平地の広い平瀬村か、海上
村、中野村に何故築かなかったのだろうかという点で、内嶋氏は保木脇に帰雲城を築いた本当の理由は、
保木脇地区の中央から南部にあるどうもシッタカ谷(という谷)から弓ヶ洞谷(という谷)までの間の狭い
範囲を水堀に見立て、(東西は山に囲まれて守りやすいが、逆に連絡通信手段に有利な場所ではない)保木脇
南方の一部であるこの「平地の少ない場所を少ない兵数で守りを優先にしていた」ことが今になって気が
ついたのであった。<白川村福島地区の「福島城郭」の地勢的位置も福島歩危の北の福島谷北の狭い平地に
福島城郭を設けている『白川奇談』に記述あり。白川村福島「字トノバタ」に福島城郭はあったのか未確認>
④砂金採りで遊ぶ歴史ロマンの勉強
さて、2025年5月6日(火、GW最終日)荘川町岩瀬地区の岩瀬金山跡の谷で砂金採りをする予定で、文献に
あった金(1595年)「文禄(ぶんろく)4年 5月 時に文禄(ぶんろく)三暦甲午四月より白川(しらかわ)
の谷中黄金出生して六十余州の万民集まり 金子五両十両ずつ出し申す 乙末の年は岩瀬に町千間余出来する
なり前代未聞の次第なりと云々 飛騨の国の守護人金森(かなもり)兵部卿法印 則(すなわ)ち奉行ありて
御公料の金子太閤様御進納なり」『長滝寺文書荘厳講記録』はまだ採れるのか確かめるため歴史の勉強がてら
50%、いまだに黄金をこの手で採りたいというロマンある子供の遊び心50%はまだ健在なので楽しんで
こようと思っています。(略)
6.令和7年現地調査の開催について(案内)
白川郷埋没帰雲城調査会から見出しの件につきまして下記のように開催しますので、参加下さいますよう
ご案内申し上げます。尚、総会と研究発表会の会場は「白川村南部地区文化会館(NBK.旧平瀬小学校)」
2階研修室(白川村平瀬126-11、TEL*****-*-****)で行います。
1.現地調査 「田口プラント北方縦断地表調査」
日時 令和7年5月4日(日)AM10:00~12:00
集合場所 白川村保木脇「帰雲城趾碑」前、AM10:00集合出発.
調査場所 田口プラントから北方への縦断地表面確認調査.
行動予定
集合出発 AM10:00 黙祷、帰雲城趾碑前、出発.
調査開始 10:10~12:00 歩行、岩散乱状態、岩大小確認調査.
解散 12:00(12:00解散、昼食おにぎり等や、飲料は各自で用意下さい)
長靴で参加ください。雨天時、中止とします。(中略)
11.帰雲城参考情報
①.2024年10月21日、ユーチューブにテレビ愛知「消えた戦国の城(帰雲城)」3作品がUPされてい
ます。<皆さん、ぜひ動画でも3作品をご覧ください>
②.『こんな話知っとんさる?おもしろ岐阜学入門』著者神田卓朗.風媒社.1,600円(税別)2024年11月
30日発行.
<本会神田元会員著書で、140ページ目から26ページに及び帰雲城調査を時系列に紹介しておりテレビ
愛知の掘削調査をのちに取材、なんと2024年遺構らしき現地調査最新情報まで取り上げている帰雲城調査年表
必須バイブルですので購入し読んで家にぜひ1冊置いてください>
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第58号.発行日:令和6年(2024年)3月12日
1.挨拶
2023年令和5年5月8日、コロナ行動制限なしになってから皆さんいかがお過ごしでしょうか。昨年2023年
より、保木脇高圧送電線鉄塔(55,54,53鉄塔)の建て替え工事を行っていると聞いており、地形変化の懸念を
しております。
2.帰雲神社再建
保木脇にある帰雲神社は、田口建設初代社長田口勇一氏と保木脇住人方の御尽力により岐阜市鷺山地区の
山の上から空祠を譲り受け、昭和54年(1979)年7月保木脇に帰雲城と地震に関する最初の建立物(現保木脇
帰雲城趾碑前)帰雲神社の祠は竣工しました。帰雲神社は築90年を越えて復旧困難となり新しい祠を移築
する運びとなり昨年2023年令和5年12月5日遷座祭が催されました。ところで、保木脇の白山神社は、木谷地区
の白山神社と合祀することになり、保木脇白山神社の祠は空となったため、その祠を帰雲神社の祠として再
利用する運びとなりました。皆さん、ぜひ帰雲神社の朱塗りの祠をご覧ください。
3.2024年は4区画目の水場等調査を
今年2024年5月4日(土)の現地調査は、田口プラント南一帯(仮称カエル池南西)の4区画目の水場
等確認調査を実施します。この水場等調査は、シッタカ谷南から弓ヶ洞谷北までにあったと推定する帰雲城や
城下町で使っていた水源地を2016年から調べ始め、今回4区画目の水場等調査で全区域完了するので皆さん
参加ください。(中略)
6.令和6年現地調査の開催について(案内)
白川郷埋没帰雲城調査会から見出しの件につきまして下記のように開催しますので、参加下さいますよう
ご案内申し上げます。
1.現地調査 「4区画目水場等調査」
日時 令和6年5月4日(土)AM11:00~PM1:00
集合場所 白川村保木脇「帰雲城趾碑」前、AM11:00集合出発.
調査場所 田口プラント南仮称カエル池南西「4区画目水場等」調査.
行動予定
集合出発 AM11:00 黙祷、帰雲城趾碑前、出発.
調査開始 11:10~1:00 歩行、4区画目水の出ている水源地確認調査.
解散 1:00(1:00解散、昼食おにぎり等や、飲物は各自で用意下さい)
長靴で参加ください。雨天時、中止とします。
「総会、研究発表会、懇親会、宿泊」は感染症防止により中止とします。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第57号.発行日:令和5年(2023年)3月14日
1.テレビ愛知3回目の掘削で金属出土
令和3年(2021年)11月、テレビ愛知は保木脇田口砂利プラント敷地内において3回目の掘削調査を
行いました。この調査でとうとう金属遺物が出土し、この様子を2022年令和4年5月28日(土)PM2:
30~3:30(1時間)、テレビ愛知で「消えた戦国の城 地下14メートルの指紋」(第3弾)で歴史
紹介も含めて放送されました。
2.2023年現地調査は帰雲川原城跡調査を
帰雲川原城跡は1つの山であることが確認されましたので、令和5年(2023年)5月4日(木)本会
屋外行事の現地調査は「帰雲川原城跡」調査を実施します。(中略)
5.昨年令和4年(2022年)度行事報告
昨年、令和4年(2022年)4月16日(土)、草木の茂る前の現地調査は、帰雲川原城跡見学会を行い
ました。AM11:00帰雲城趾碑前を車で出発、小雨曇り風あり冷たく7℃でした。11:07田口砂利
プラント脇から山道を歩く、途中山陰に残雪があった。山道を右へ、4月とあり雑草はほとんどなく地形
(地面)を確認しやすい。11:25、帰雲川原城跡に到着しました。一帯の地形をつぶさに観察してから、
下りて今度は下から半周して帰雲川原城跡を観察しました。下から観察したことにより、ここで初めて「帰雲
川原城跡は1つの山(地形)であることが判明」しました。帰雲川原城跡に登り、もう一度地形を観察しま
した。西斜面に2段あるが平地(削平地)ではない。(中略)地点一帯も観察。11:59見学会終了し
下山へ。12:12田口プラント脇到着、昼食。2:00解散しました。総会、研究発表会、懇親会、宿泊は
コロナの影響で中止しましたのでご報告いたします。(中略)
7.令和5年現地調査の開催について(案内)
白川郷埋没帰雲城調査会から見出しの件につきまして下記のように開催しますので、参加下さいますよう
ご案内申し上げます。
1.現地調査 「帰雲川原城跡調査」
日時 令和5年5月4日(木)AM11:00~PM1:00
集合場所 白川村保木脇「帰雲城趾碑」前、AM11:00集合出発.
調査場所 保木脇字帰雲川原「帰雲川原城跡」調査.
行動予定
集合出発 AM11:00 黙祷、帰雲城趾碑前、出発
調査開始 11:10~1:00 歩行、帰雲川原城跡遺構一帯地形調査
解散 1:00(1:00解散、昼食おにぎり等や、飲物は各自で用意下さい)
長靴で参加ください。雨天時、中止とします。
帰雲川原城跡一帯は埋蔵文化財遺跡包蔵地ですので、岩を移動する掘るの一切はしないで下さい。
「総会、研究発表会、懇親会、宿泊」の室内行事は3密を避けるため中止とします。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第56号.発行日:令和4年(2022年)3月11日
1.「帰雲川原城跡」遺跡登録されました
本会は天正13年天正大地震により埋没した内嶋(うちがしま)氏理とその居城、帰雲(かえりくも)城の
歴史解明と、遺構確認の現地調査を長年行ってきました。白川村保木脇地区にあった帰雲城調査において
令和3(2021)年急進展がありました。保木脇西上段田口砂利プラント北方仮称「622m地点」と
呼んでいる場所をI会員らの現地調査、テレビ愛知の活動調査、白川村の調査を経て城跡判定され「帰雲川原
城跡(かえりくもかわらしろあと)」山城遺構として「遺跡登録」されたので会員の皆さんにご報告いたし
ます。I会員らの現地調査活動に感謝申し上げ、テレビ愛知の活動調査、白川村の調査、今まで帰雲城に
ご協力下さった皆様、帰雲城を夢見た方々へ御報告し感謝申し上げます。長年我々は現地調査を行い遺構
発見の念願「帰雲川原城跡」の一報は目出たいことでまずは、何よりも皆さんと帰雲川原城跡遺跡登録を
お祝いしたいと思います。
2.2022年現地調査は帰雲川原城跡見学会を
令和4年(2022年)本会屋外行事の現地調査は、4区画目の田口プラントから南の山すその水場等有無
確認調査を先延ばしにして、「帰雲川原城跡」遺跡登録を記念して、城跡遺構とはどのような地形なのか。ま
た、草木の茂る前の地形(地面)を確認しやすい季節の4月に白川村保木脇の「帰雲川原城跡(622m
地点)」と仮称「618m」地点の見学を行います。ところで、屋内行事(総会、研究発表会、懇親会、
宿泊)はコロナ禍3年目中止とします。
3.テレビ愛知2020年2回目の発掘調査を行う
令和2年(2020年)テレビ愛知は、保木脇と周辺の現地調査を幾多も行い、9月2日(水)保木脇
田口砂利プラント敷地内において2回目の発掘調査を実施しました。その後、令和3年2021年5月29日
(土)PM2:30テレビ愛知でこの発掘の模様を歴史番組「消えた戦国の城 弐ノ巻 ~黄金伝説 白川郷の
秘めごと~」として放送されました。テレビ愛知の帰雲場を扱った発掘調査、歴史番組制作放送に感謝申し上
げ御礼申し上げます。(中略)
6.昨年令和3年(2021年)度行事報告
昨年、令和3年(2021年)5月2日(日)の現地調査は雨のため中止しました。研究発表会はCS立体
図を使い保木脇に遺構があると思われる場所を説明しました。懇親会、宿泊はコロナの影響で中止しました
のでご報告いたします。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第55号.発行日:令和3年(2021年)3月22日
1.ご挨拶
時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。令和2(2020)年はコロナの影響で本会行事は中止に
なりました。今年も予断を許さない状況ですので皆さん密の場には入らぬようご注意下さい。
令和2(2020)年は、保木脇でテレビ愛知が再び掘削等を実施して地質面からのアプローチと内嶋氏
当時の出土物採取の学術成果を収めているので、テレビ愛知の放送を心待ちにしたいと思います。テレビ愛知
の掘削等調査から学術検証をするようで、テレビ愛知の活動に御礼申し上げます。
2. テレビ愛知2年連続掘り とうとう天正地震当時の遺物現る
会員の皆さん、今年もコロナの影響でくれぐれも密の場にはなるべく入らぬよう気をつけてください。
2019年(令和元年)保木脇でテレビ愛知が重機による掘削を行って、昨年2020年令和2年も、
保木脇と周辺においてテレビ愛知が調査を実施したり、ボーリング調査や重機による掘削調査を行いました。
2-1 テレビ愛知 帰雲城主内嶋氏当時の遺物採取す
この掘削調査で、テレビ愛知は天正地震(1586年)により帰雲城と城下町の埋まった地層上から約43
4年前の帰雲城主内嶋氏当時と考えられる出土物を数多く採取して遺物を保存するという学術成果を得まし
た。この成果は本会の今後の学術調査の分析に大いに役立つものであり参考にさせて頂きたいと思います。
3-1 ボーリング調査実施
2020年(令和2年)8月、保木脇上段田口砂利プラント敷地内においてテレビ愛知が「ボーリング
調査」実施して、深さ14m以上ボーリングを行い天正地震崩壊堆積物を確認しました。
3-2 重機による掘削調査実施
2020年(令和2年)9月2日から保木脇上段田口砂利プラント敷地内にてテレビ愛知が「重機による
掘削調査」を実施して深さ14m以上掘り数多くの遺物を採取しました。
3-3 白川村の動向に注目
今回、保木脇上段622m地点の遺構と考えられる場所や、掘削地地中から採取した出土物(遺物)に
ついて、白川村教育委員会の今後行う遺構等確認調査、遺構(遺跡)登録地保存への動向に注目したいと
思います。
4.今年は4区画目の水場等の調査を実施します
今年2021年令和3年の本会行事等はコロナの影響で席の間隔を広げて「現地調査、総会、研究発表会」
のみとし5月2日(日)に開催します。尚、この会報誌発送後にコロナ波及の場合、現地調査、総会、研究
発表会の行事等を中止する場合がありますので、参加者は事務局に問い合わせください。(行事中止の場合は
本会公式ホームページにて告知します)
総会と研究発表会の会場は「白川村南部地区文化会館」2階研修室で開催します。懇親会、宿泊は残念なが
らコロナの影響で密になることを避けるため中止とします。現地調査は昨年2020年中止になった4区画目
の田口プラントから南の山すその水場等有無確認調査を実施してから、2003年平成15年6月15日
(日)、本会で調査した仮称カエル池一帯を調査します。
5.今年の研究発表会は放送後分析を
2019年令和元年12月28日(土)テレビ愛知放送「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」や、
2020年9月の掘削調査の内容は学術的検証がなされているので、得られた情報から本会研究発表会で
地図を示して学術的に分析し「席の間隔を広げて」皆さんと考察したいと思います。(中略)
7-1.2020年掘削現場を見た感想
9月2日(水)、保木脇上段の田口砂利プラント敷地内においてテレビ愛知が「重機2台による掘削調査」
を実施した。掘削場所は、田口プラント事務所から西南70mである。掘削幅は東西約45m×南北約30
mだ。今回、安全第一に掘削傾斜面を緩やかにしてとてつもなく広く掘るようだ。重機(ユンボ)2台といえ
どもこの広さを掘るのは1日で部分的に深さ約2.4mしか掘れなかった、先は長い。とてつもなく広い地を
掘っていると何かとんでもない物が出てくる予感がしたのである。数日後には、約1mの岩が4個出てきて
この岩は天正地震(1586年)で右岸から来た岩ということになるのである。恐るべし破壊力と到達力。
帰雲城(館)と城下町は一瞬で木っ端微塵になったことだろう。深さ約10m辺りから人工加工木片等が
何点も出土し出し採取保存していた。この時の感激というよりも、残念ながらただ茫然と見学していたという
無感情であったのは残念でならない。9月17日(木)、「掘削13日目」決定的な人工加工木片が出たので
ある。堅(かた)い木である。10月4日(日)、「掘削20日目」掘削最終日、深さ14m以上掘ってトータ
ル数多くの内嶋氏当時の遺物(物証)を採取記録保存していた。掘削穴の幅の広いこと、深いこと。目の前の
光景の現実を受け入れられない。夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か。テレビ愛知は、とうとう帰雲城主内嶋氏
当時の遺物を手にしたわけであった。帰雲城の遺物を発見する学術成果を収め遺物(物証)を得たのであった。
8.昨年令和2年(2020年)度行事報告
昨年、令和2年(2020年)5月4日(月)の現地調査、総会、研究発表会、懇親会、宿泊の行事等は
コロナの影響で全中止したのでご報告いたします。
9.令和3年現地調査・総会・研究発表会等の開催について(案内)
白川郷埋没帰雲城調査会から見出しの件につきまして下記のように開催しますので、参加下さいますよう
ご案内申し上げます。尚、総会と研究発表会の会場は「白川村南部地区文化会館(旧平瀬小学校)」2階
研修室(白川村平瀬126-11、TEL*****-*-****)で行います。今回も、コロナの影響で懇親会と
宿泊は中止とします。
1.現地調査
日時 令和3年5月2日(日)AM10:00~PM2:30
集合場所 白川村保木脇「帰雲城趾碑」前、AM10:00集合出発.
調査場所 4区画目の田口プラントから南の山すその水場等確認調査
行動予定
集合出発 AM10:00 帰雲城趾碑前、出発(メモやペンを用意下さい)
調査開始 10:00~12:00 4区画目水場等確認調査実施
昼食 12:00~ 1:00 昼食おにぎり等や、飲物は各自で用意下さい
調査 1:00~ 2:00 2003(H15)年調査したカエル池一帯調査、終了.
移動 2:30~ 3:00 (2:30帰宅者解散)南部地区文化会館に移動
(注) 今回は足をねん挫しやすい岩場の危険な場所があり、長靴と軍手で参加下さい。
(昼食)昼食おにぎり弁当等や、飲み物は各自持参して下さい。
(雨天場合;PM2:30まで各自自由行動)
ゴールデンウィーク中の荻町渋滞について
ゴ ールデンウィーク(GW)中、東海北陸自動車道白川郷IC下車の場合、白川郷IC~荻町せせらぎ公園
駐車場まで毎年3~4時間の大渋滞が起きますので、白川郷IC下車の場合はかなり時間に余裕をもって
走行か、荘川IC下車で走行してください。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第54号.発行日:令和2年(2020年)3月16日
1.ご挨拶
時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。2018年平成30年10月、I会員らが保木脇上段調査
(622m地点)で、遺構らしき場所を発見したので、会員の皆さんに報告します。昨年2019年(平成
31年、令和元年)は、テレビ愛知から本会へ帰雲城取材がありその後テレビ放送が1時間ありました。この
テレビ愛知の独自取材調査で、保木脇上段622m地点は中世の城跡遺構と考えられると確認されました。ま
た、テレビ愛知が重機による掘削調査を実施して地中から中世の木片(遺物)が確認されるという発見があっ
たので、会員の皆さんに報告します。このテレビ愛知の放送内容は科学的検証がなされており、帰雲城を1
時間に渡り扱って頂きテレビ愛知へ御礼申し上げます。この放送内容は、本会の今後の学術調査の分析に
大いに役立つものであり参考にさせて頂きたいと思います。
2. 会員が帰雲城のあった保木脇で遺構らしき発見す 2018年平成30年10月23日(火)午前、I会員ら(S会員、K会員、計3名)が保木脇上段の調査
をしました。各々思う場所を調査し、I会員がとある場所に立ち、地形を観察すると遺構に思えたので下山
して2名に報告して昼食後の午後、そのとある場所(622m地点)に向かい3名が調査して、遺構に思える
地形を確認しました。後日、I会員からこの調査報告を受け、昨年2019年(平成31年)4月29日、
本会現地調査午後からとある場所(622m地点)を視察することを組み込みました。I会員方の現地調査
活躍に感謝いたします。
3. テレビ愛知 遺構らしき場所を取材して
昨年2019年(平成31年)4月29日、本会現地調査にテレビ愛知から取材がありました。昼から
とある場所(622m地点)を、(2018年平成30年10月23日(火)調査の第一発見者である)I会員がテレビ
愛知に遺構らしき地形の説明をしました。(中略)
3-2 帰雲城のあった保木脇地中深くで中世の木片出土す
さて、テレビ愛知から引き続き取材依頼があったので、本会は資料や現地調査資料と最新情報を提供して
協力しました。10月、テレビ愛知が掘削候補地数ヶ所をGPS高度計測を行いました。それから、打ち合せ
や取材を経て、11月20日(水)テレビ愛知が保木脇上段田口プラント北において重機による掘削を数日間実施
しました。地中12m(深さ11m~12m)から木片が出土して炭素性年代測定の結果、帰雲城のあった保木脇
で中世の木片(遺物)と確認されテレビ愛知の独自取材調査により相次ぐ発見となったのです。
3-5 テレビ愛知で帰雲城1時間放送されました
昨年2019年令和元年12月28日(土)PM3:20~4:20(1時間)、テレビ愛知で「消えた
戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」が放送されました。放送内容は下記で中略あり。<放送以外に、< >
内は詳細説明等を加えてある>
令和元年11月(重機が登場するシーン、ナレーター松重豊)歴史に残る発掘調査が今
まさに始まろうとしていた。(掘削地点掘り始めシーン)
この下に眠っているかもしれない物、それは戦国時代に消えた城と黄金である。「岐阜県飛騨地方」険しい
山々が連なる岐阜県飛騨地方、(帰雲山中腹崩壊面のシーン)このなかにポッカリ穴が空いた山がある。山肌
をえぐり取ったような大きな穴。戦国時代にこの地で起きた巨大地震の爪痕である。(天正13年11月)
このとき悲劇が起きた。地震によって山崩れが発生、(帰雲山中腹崩落CGシーン)大量の土砂が津波のよう
に押し寄せ、(土砂が帰雲城と城下町を埋めるCGシーン)城と城下町をのみ込んだのである。
「消えた城の名は帰雲城(かえりくも城)」400年以上経った今も痕跡すら見つかっていない。更に伝
説によれば帰雲城には大量の黄金が貯えてあったという。(後省略)
3-6 テレビ愛知の取材にお礼
昨年2019年(平成31年)4月29日、テレビ愛知から本会に取材があり、12月まで幾度となく取材
があり、12月28日(土)テレビ愛知で「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」が1時間放送されま
した。テレビ愛知より取材を頂きましたことを誠にありがとうございました。御礼申し上げます。
4.今年は4区画目の水場等の調査を実施します
今年2020年令和2年の本会行事等(現地調査、総会、研究発表会、懇親会、宿泊)は5月4日(月、
みどりの日)に開催します。現地調査は4区画目の田口プラントから南の山すその水場等有無確認調査を
実施して午後から、2003年平成15年6月15日(日)、本会で調査した仮称カエル池一帯を調査
します。
5.今年の研究発表会は放送後分析を
昨年2019年令和元年12月28日(土)テレビ愛知放送「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」
の内容は科学的検証がなされているので、得られた情報から本会研究発表会で学術的に地図を示して分析し
皆さんと考察したいと思います。
7.事務局よもやま話 テレビ局の長期取材を受けて
今回は、昨年2019年テレビ愛知で放送された「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」の取材を
受け同行、放送を観た感想を紹介します。
11月29日(日)、放送告知あり(文章)
12月21日(土)、放送告知動画(ユーチューブ)×2あり
12月25日(水)、テレビ愛知、ゆうがたサテライト5:21~5:24放送。「アナウンサー:戦国時代に
黄金と共に埋没したと言われる岐阜県白川村の帰雲城。幻の城と呼ばれてきましたがテレビ愛知の独自調査で
物見櫓と見られる跡が見つかりました」(ニュース.放送、告知)
12月28日(土)、テレビ愛知「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」放送。
7-1.掘削現場を見た感想
さて、テレビ愛知の掘削現場を見て今この目の前の光景は現実なのかと信じられず、ただただ茫然として
いたのでした。出土品の劇的な発見になると思っていたが興奮とか、感動している余裕はなくやはり茫然と
していたのです。物証は木片の人工的な加工の痕跡が残る約500年前の帰雲城と城下町に繋がる初の木片
(遺物)をテレビ愛知が歴史的発見したのではなかろうか。加工してある木片(遺物)の歴史に触れたのは
確かである。「遺構破壊は」、約500年前の内嶋氏当時の地表(地面)の黒い地層、或いは茶色い地層
(土)は露出しなかったので遺構(遺跡)破壊はありませんでした。2019年は白川村に最多12回向かった年で
あった。
7-2.放送を何十回も見る
テレビ愛知の「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」放送を観てから3日間で11回見て、2月まで
に計30回以上見て、まだ見るたびにドキドキ興奮しています。この番組は科学的検証がなされており、
1時間も放送頂いた感謝とお礼から次は、本会で学術的に分析したいと思います。特に掘削した最深部の青い
地層は会員より有意義な見解があり、幾つかの仮説を述べ研究したいと思っています。会員の皆さん、帰雲城
を真面目な科学的検証をして1時間も放送されましたよ。(中略)
8.昨年平成31年(2019年)度行事報告
8-①「現地調査」保木脇3区画目北西水場等調査、4月29日(月)10:00、(TV愛知2名カメラ取材
あり)帰雲城趾碑前から上段山道を北に走行し53鉄塔南に停車、K会員野田会員は山道を歩いて上の方まで
まず行き3区画目の北西の水場等確認調査を実施しました。山道右の段々上の水田跡からシツタカ谷まで水場
等がないか調査を行う。少し下に降りて山道まで調査を実施。幾つかある水田の排水路を確認するがどうも住居には引き込んでないようであった。水場等は1つも確認できなかった、という結果を得た。田口プラント北で
昼食12:00~1:00。昼から山道を北に走行し、とある地点へ向かう。I会員、S会員と合流。遺構らしきと
思われる622m地点の第一発見者であるI会員がTV愛知の取材を受ける。地形は雑草が茂る前とあって地形
を確認しやすかった。2:15、調査終了しました。
8-⑤「懇親会(夕食会)」6:00、まずは乾杯をしました。今日の現地調査場所を地図上で示し水場
等は1つも確認できなかったと報告しました。この懇親会で楽しみなのが、地元のお話を聞かせていただける
ことで、「今日調査した場所は以前田んぼだった。段々上の耕地で牛を飼うために整地したが上の方は昔の
間々である」というお話を聞くことができました。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第53号. 発行日:平成31年(2019年)2月25日
(略)
2.白川郷埋没帰雲城調査会の公式見解を発表しました
昨年2018年(平成30年)5月19日(土)、会合に集まった皆さんに本会公式見解『史料の記述から
判明した帰雲城のあった所の字名と研究結果』報告書(発行:平成30年(2018年)会報誌第51号2項)
を発表しました。この模様は後日、本会の最新研究結果である「帰雲川原」発表がテレビ愛知で放送されま
した。
3.新聞社からの取材とお礼
昨年2018年は、中日新聞社と東京の日本経済新聞社から取材がありました。両新聞社は本会の最新研究
結果である「帰雲川原」記事が載りました。詳細な取材を頂いた両記者さんに御礼を申し上げます。ところで、
両新聞社の取材は神田元会員から紹介を頂いたもので、本会5月行事のタイミングもあり神田さんに御礼申し
上げます。本当にありがとうございました。(中略)
6.有志会員がとある場所の調査を実施
昨年2018年平成30年10月23日(火)、かねてから気になっていた「保木脇のとある場所」を現地調査の達人
である有志会員3人が調査をしました。後日、多くの帰雲城資料の中から報告書を照らし合わせ仮図面を
作成し根拠となる説明があり、納得のいく説として興味深いものがありました。またこの考察を聞いた際、
そういえば帰雲城資料約1500枚の中から過去の証言にも符合するので記録を調べると、1972年昭和47年
8月記事(会発足30周年記念誌76頁2行目、118頁1行目参照)の故松古氏、故中森氏らの証言に「ワシら子供
のころあそこで古銭を二、三枚ひろうたことがある。むかしから城があったといういい伝えがあって、堀の
あともチャンと残っている。(中略)台地の方向に入ってみた。(中略)幅20メートルほどの溝が続いて
いる。(中略)近くに泉が湧き」と、証言を残している記事もあることから、有志会員3人が調査した
「とある場所」は符合する場所かどうか今後の調査が必要ですが、4月29日に本会現地調査午後からこの
「とある場所」を見学します。
7.今年の行事はゴールデンウイークに開催します
本会の行事は毎年5月に開催していますが、今年はゴールデンウィーク(GW)の4月29日(月、昭和の
日)に、平成(31年)最後となる行事(現地調査、総会、会合、懇親会、宿泊)開催します。今年1月5日に
本会公式ホームページでいち早くGW行事開催日を告知しました。
8.今年は3区画目の北西水場の調査を実施します
昨年2018年は(通称)3区画目の西辺り(山道含む)を調査しましたが、3区画内全域を調べるには
至りませんでしたので、今年2019年平成31年4月29日(月、昭和の日)の現地調査午前中は3区画目
の北西水場等を確認する調査を実施します。午後は、保木脇の「とある(興味深い)場所」(当日場所説明)
を案内見学します。
9.今年の会合は保木脇のとある場所の説明をします
現地調査を長年行ってこられた有志会員らによる保木脇の「とある(興味深い)場所」(当日場所説明)に
ついて地図や根拠を説明して、皆さんと考察したいと思います。
10.事務局よもやま話 聞取り調査の有意義性(中略)
10-4.これだから聞取り調査はやめられない
昨年2018年9月25日(火)、この日白川村に向かう前に荘川町で聞取り調査を実施しました。上滝(かみ
たき)金山の更に詳細なことを聞き、金山の正確な位置をようやく知ったのでした。ここで、以前から
気になっていた事柄を聞くと、なんと全く違う位置情報や云われを聞くことができました。私たちの知らない
ことでも地元では普通に言い伝えで語り継がれて残っており、史料からは見えてこない情報を得ることができ
「やはりこれだから聞取り調査はやめられない」と、これからも聞取り調査を続けて何かしらの情報を得た
いと思ったのでした。(中略)
10-6.自分の目で見て何かを感じる現地調査の楽しさ
今年2019年平成31年1月2日、会員の3人が多治見市のコーヒー店(コメダ)に集った。昨年2018年平成30年
10月23日(火)に、S会員、I会員、K会員の3人は保木脇の「とある場所」を午前午後の2回調査したそう
だ。このメンバーの発起人K会員は頻繁に現地調査を行う達人である。S会員はフィルムカメラで現場を撮影
した。S会員はご高齢にも関わらずとある場所に登り切り立ったのである。後日、I会員は調査した場所を
地図に記入して、帰雲城資料(論文)から根拠となる一つの手がかりを得たそうだ。I会員から根拠となる
説明を聞き、納得のいく説として興味深い考察があり現地調査で「自分の目で見て何かを感じる」ということ
を現地調査の達人3人に気付かせてもらい「やはり現地調査は楽しくやめられないな」と久しぶりに思った
のでした。最近、KD会員、S会員、I会員、K会員方による研究や調査が行われており、ご活躍にただ
ただ感謝するばかりです。果たして、天正13年の大地震で右岸の土石が保木脇まで到達した時庄川を堰き止め
た水位は何mか?。
土石が保木脇まで到達した先端はどこか?(中略)
10-9.記録の中の重要なメッセージ
約1500枚の帰雲城に関する記録等(史料、資料、書物、報告書論文、会報、会報誌、会発足30周年記念誌、
聞取り証言)の中には、何気なく重要な一文(メッセージ)が書いてある(語っている)のを最近特に感ずる
ようになりました。節目ということで「会発足30周年記念誌」にかなり重要なメッセージをあえて幾つも
記載して(忍ばせて)あります。今年2月、会員から記念誌に載っている一文(メッセージ)について質問が
あり、会合の席で皆さんと考察することにしました。ところで、記録を読むとまだまだ参考になる情報もあっ
たことを知り、これは記録の中のメッセージを全て文字化するのは本会には膨大な情報量(書物)があり、
もはや無理ですので気になった点を今後会報誌で一つずつ紹介して解説していきたいと思います。
11.佐々木会員の報告書紹介
本会佐々木英夫会員の投稿文報告書2作品から一作品を紹介します。
①、1994年平成6年4月11日『保木脇の何処まで水がついたか』調査報告書.佐々木会員.(記念誌84
頁下から5行目)この報告書は、1994年当時の少ない資料から聞取り調査と地図標高から堪水高度を導き出した
考察で、我々が天然ダムの高度を考え調べるきっかけとなりました。ところで、インターネット上では「庄川
を堰き止めた天然ダムの高さは約100m(標高約660m)にもなったらしい」と記しています。天然ダム
の高さについては、2010年平成22年4月6日、白川郷埋没帰雲城調査会会報№42同封、2007年
平成19年5月7日坂部和夫論文選集『岐阜県における天正地震山地災害』2007発行、7項「天正地震
(1586年)時の飛騨白川郷における大規模山体崩壊による庄川の堰き止めとその浸水域」坂部和夫.で
天然ダムの標高について論じているので参照(記念誌91頁5行目)してください。
②、2015年平成27年12月30日『保木脇地区について聞く』聞き手記録.佐々木会員.(記念誌98頁
2行目)この報告書は、白川村御母衣の(故)O氏から保木脇について聞取り調査して録音したのを一部文章
に起こしたもので、今では誰も知らない保木脇の事柄や、場所に関する重要な証言を残している記録です。
聞取りで字名など訛りがあり一部手直しをしている最中で次回紹介したいと思います。佐々木会員より投稿
文報告書をお寄せいただきありがとうございました。
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『保木脇の何処まで水がついたか』(調査報告書)
平成6年(1994)4月11日
白川郷埋没帰雲城調査会 会員 佐々木(伏字)
1.はじめに
天正13年の大地震で山から崩れ落ちた土砂が岐阜県大野郡白川村保木脇にあったといわれる帰雲城を埋没
した際の、土砂により庄川という川を堰き止めた水が何処までついたと文献が記しているのか、又文献から
すると堰き止めた水の高さは保木脇で(標高)何mになるのか聞取りの話や地図から調べてみた。(中略)
3.私の思考は
「のまみ」の位置は福島歩岐(歩危)近くとして、標高640m、この位置まで逆流し堪水(たんすい)
したものと考へた。
一方、保木脇地区、森下文治宅前国道から田口建設骨材置場入口角が標高574,657m二等水準点
(現在不明)である。その位置から観音基礎石の地際まで測ると、標高593,40mである。593m+
47mで「のまみ」と水平になる。よって、観音像基礎石から47m上まで崩壊土砂で堰堤ができ、満々と
水が溜まったのであろう。(平成5年(1993)10月、滋賀県長浜市、中川測量実施)
4.おわりに
建設省中部地方建設局の調査(1987)によると、次のように記してある。
「庄川右岸上部の急斜面から2500万?の土砂が地すべり性崩壊を起こして、庄川をせき止め高さ90m、
湛水量1億5000万?の大規模な天然ダムを形成して20日後に決壊したものと検討されています。また、
この崩壊地のさらに南東側にも大規模な崩壊跡地が確認されている。対岸の堆積土砂量を考慮すると、天正
地震の時に発生した崩壊はこちらからのものであった可能性も否定できません」
地元で聞取りを行い、のまみの位置についてお話し下さった方々にお礼申し上げます。(中略)
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12-④「対談会」
4:25、各自の抱負で、各々の帰雲城推測地を述べ、佐々木会員:「弓ヶ洞谷中流域説」、故松古
孝三氏:「上段帰雲公園で供養2回あり」、絈野教授:「54鉄塔」という過去の帰雲城推測地説があったこと
が明らかになりました。5:45会合終了。
12-⑤「懇親会(夕食会)」
6:00、まずは乾杯をしました。今日の現地調査結果報告、53鉄塔西の宇田家跡一帯からシッタカ谷まで
の調査を地図上で示し、水場等は1つも確認できなかったと報告しました。今回、名古屋市のW会員の参加が
ありました。W会員は、生駒忠一郎(帰雲燃ゆ筆者)さんの紹介で、1985年昭和60年10月27日
(日)帰雲(かえりくも)400年・白川フォーラムに数人で参加したそうで、それ以来32年ぶりの参加だそう
です。(中略)
18.お知らせ
①、2017年平成29年5月20日の本会会合にて会員から「帰雲城に関する展示物があると聞いたが展示して
ほしい」と声がありました。まずは、帰雲城資料約1500枚のなかに帰雲城に関する展示物の情報はないか
調べると次の記事がありました。1997年平成9年12月17日岐阜新聞記事。
「<見出し>帰雲城の伝説今に、よろいや絵図など展示」「<記事内容>長良川病院の森省三院長がこの
ほど出版した「帰雲城世界遺産白川郷物語」を記念して、帰雲城関連の資料などを展示した「帰雲城展」
(大野郡白川村教育委員会主催)が岐阜市日ノ出町のロイヤルプラザで開かれている。会場には、初代城主
内ケ嶋兵庫頭為氏のよろいや出陣の絵、帰雲城の絵図や名の由来となった杜甫の誌など、約六十点あまりの
資料を展示。森さんが五年ほどかけて作成したもので、帰雲城が当時、かえりぐもじょうと呼ばれていたこと
などを裏付ける資料も展示されている。来場者は「埋没金伝説など、中世へのロマンをかきたてられる」と
話していた。同展の終了後、資料は白川村に寄付される。」(会発足30周年記念誌86頁4行目)という記事
内容から白川村教育委員会に帰雲城に関する物品について問い合わせたところ、「帰雲城に関する物品に
ついて約数十点保管しております。今後、公開を考えています。」とありましたので会員へ報告とともに
お知らせします。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第52号. 発行日:平成30年(2018年)8月6日(省略)
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第51号. 発行日:平成30年(2018年)4月2日
1.会員の皆さん長年の目的に一つの結論がでました
会員の皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶びいたします。日頃は、本会の活動に格別のご理解と
協力をいただき御礼申し上げます。我々は、帰雲(かえりくも)城の夢とロマンを求めて帰雲城を発見しよう
と、帰雲城を専門に調査するこの団体に入りました。30年、或いは30年以上の長きに渡り調査研究を続けて
きた会員もいると思います。
「①現地調査」は、2年前の2016年から帰雲城の真相部分に迫る水場の調査を区分けして実施しています。
「②資料」は、会発足22年目の2009年に『帰雲城と内ヶ嶋氏に関する資料総集編』(872ページ)を 1冊に
綴じて形にして本会から白川村に寄贈して残しました。(記念誌92頁最下行参照)そして、会発足30年目の
2016年11月に会発足30年間の帰雲城資料の集大成、「会発足30周年記念誌」(208ページ、非売品)が完成して
本会より会員の皆さんにお届けし、白川村に寄贈しました。さて、本会の「③史料研究」はというと、30年間
全くと言っていいほど結果を公式報告書等の形にしていなかったようですが、とうとう我々の長年の目的で
あった「帰雲城はどこにあったのか?」に、会発足31年目にしてようやく一つの結論を本会(白川郷埋没
帰雲城調査会)より公式発表できましたので次項で研究報告書を紹介します。
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2.白川郷埋没帰雲城調査会 公式発表(研究報告書)
『史料の記述から判明した帰雲城のあった所の字名と研究結果』
白川郷埋没帰雲城調査会事務局
平成29年(2017)12月17日
1.はじめに
岐阜県大野郡白川村保木脇にあったとされる帰雲城。この度、(帰雲)城は帰雲川原にあったという史料の
記述から判明した字名(小字名、地名)と、この史料以前に帰雲川原という記録はあったのか、研究結果を
要約して述べる。
2.帰雲城埋没
天正13年11月29日(1586年1月18日)、天正地震(大地震)により保木脇にあったとされる帰雲城と城下町
が埋没した。
3.帰雲城のあった所を研究発表した新聞記事があった
さて、今まで帰雲城のあった所は史料に記されていないと思われたが、まずは1993年に次の新聞記事が掲載
されていたので紹介する。平成5(1993)年9月1日岐阜新聞記事「幻の帰雲城 上 安達正雄」掲載。この記事
発表は、「<見出し>眠り覚めるか幻の帰雲城。位置、古文書でほぼ確定。白川村の帰雲川原に。山崩れで
居城ごと埋没」、「<本文の一部>往昔は帰雲、其後は帰山なり。今に至て其所を帰雲川原と言ならし候。
(城のあった所は)昔、帰雲といわれ、そのうしろ(城のうしろ)の山は帰雲山といわれていた。大地震で
埋没後、川原のようになったので、現在に至ってその所(城のあった所)を帰雲川原というようになった」や、
ほか記事内容で要約すると「帰雲城のあった所を帰雲川原というようになった」になる。この新聞記事で
帰雲川原と記した史料を次に取り上げる。(中略)
5.帰雲川原と記した史料2『飛騨国中案内』から
1746年延享(えんきょう)3年『飛騨国中案内』上村木曽右衛門満義著、「去程に城内より川東の大山
崩飛て、氏理の居城は不及言ニ其近辺不残打つぶし、大山崩落て白川の大河水切(ミナギリ)水ささへて城下
より上(カミ)は海のごとく、川下の村々不残押破、村方の者共取物取合ず皆散々ニ山へ迯上り、前代未聞の
事共也。神罰天罰即時に当事難遁。往昔は帰雲、其後は帰山なり。に今至て其所を帰雲川原と言ならし候」
(『飛騨国中案内 第三巻』111頁)
『飛騨国中案内』は、上村(かみむら)木曽右衛門満義著(生年不詳~明和2(1765)2・25没)で飛騨高山の
地役人で元禄14年(1701)出仕以来40余年の間、飛州400余カ村を公用巡視で村々を回った節、名所、旧跡、
神社、寺院等、山、川、舟、橋、難所を見巡り状況を見聞、家伝記を記録し飛騨の各村を記した地誌で、
延享(えんきょう)3年(1746)『飛騨国中案内』にまとめた書物(『飛騨人物事典80頁』)である。この史料
で(天正地震で帰雲城城主内嶋)「氏理の居城のあった所を帰雲川原と言うようになった」と読むことが
できる。さて、これより以前に帰雲川原という地名(字名、小字名)が存在していたのか調べたのが次である。
6.帰雲川原と記した古地図『享保年度山林絵図面』
享保(元年~20年)『享保年度山林絵図面』(1716~1735)保木脇. 大野郡白川村役場蔵. この『享保年度
山林絵図面』保木脇.(古地図)に「帰雲川原」の小字名が記してあり、享保(元年~20年) (1716~1735)
『享保年度山林絵図面』)に「帰雲川原」の地名の記録(成立年)がまず確認できた。そして、それから
少なくとも11年後の1746年延享3年の『飛騨軍乱治国記』と『飛騨国中案内』の2書にある「氏理の居城の
あった所を帰雲川原と言うようになった」と読める地名(字名、小字名)帰雲川原の「成立年」(記録)は
何ら疑う余地はなくなったのである。
7.保木脇の字境界を記してある古地図1『大野郡白川村保木脇組略図』
『大野郡白川村保木脇組略図』(出典不明[白川村役場蔵?]年不明)保木脇の字境界について、この図に
字帰雲川原の範囲が記してある。
8.保木脇の字境界を記してある古地図2『図名不明』
『大野郡白川村保木脇組略図』と同等の図で、図名不明、年不明(高山市郷土館(現在、高山市まちの博物
館)に所蔵)この図は当時、高山市郷土館で閲覧したが、図名、成立年の基本的な記録をし忘れたので
古地図名不明である。(中略)
10.史料の記述から判明した帰雲城のあった所の字名と研究結果
まず、享保(きょうほう)(元年~20年)『享保年度山林絵図面』(1716~1735)保木脇.(大野郡白川村
役場蔵)の古地図に保木脇の帰雲川原という字名の記録(成立年)を確認できた。そして、それから少なく
とも11年後の1746年延享3年『飛騨国中案内 第三巻』111頁.上村木曽右衛門満義著の「帰雲川原」の
記録(成立年)は、何ら疑う余地はなく、この『飛騨国中案内 第三巻』111頁の「去程に城内より川東の
大山崩飛て、氏理の居城は不及言ニ其近辺不残打つぶし、大山崩落て白川の大河水切(ミナギリ)水ささへて
城下より上(カミ)は海のごとく、川下の村々不残押破、村方の者共取物取合ず皆散々ニ山へ迯上り、前代
未聞の事共也。神罰天罰即時に当事難遁。往昔は帰雲、其後は帰山なり。に今至て其所を帰雲川原と言ならし
候」と記述があり、この一文を解釈すると「帰雲城のあった所を帰雲川原というようになった」と判明した
のである。
上記の史料研究より、白川郷埋没帰雲城調査会は、「史料の記述からは帰雲城のあった所は、岐阜県大野郡
白川村保木脇字(小字)帰雲川原と確定した」のである。
11.おわりに
ところで、『飛騨国中案内 第三巻』111頁に「帰雲城のあった所を保木脇字(小字)帰雲川原」であったと
史料に記録を残していたわけだが、この史料の記述を読み解いて、尚且つ裏付け研究しなければ帰雲城の
あった所を確定できなかったのである。ところが、上記3.の平成5(1993)年9月1日岐阜新聞記事を
発表された安達正雄氏の史料研究により、帰雲城のあった所の字名(小字名)が24年も前に解明されていた
のであった。そして、白川郷埋没帰雲城調査会がこの史料の記述に再注目し、裏付け研究を行い帰雲城の
あった所の字名(小字名、地名)が判明し確定したのである。今まで長きの間、帰雲城調査研究で、
白川村や、白川村の皆さん、保木脇の人達、帰雲城に尽力された方々、帰雲城に挑んだ先人研究者や、
諸先輩方、本会会員の活躍に心から御礼申し上げ、そして御霊前に報告させていただきます。さて、何よりも
上記3.の岐阜新聞記事発表がなければ本研究報告書を作成できなかったわけで史料研究により帰雲城の
あった所の字名(小字名、地名)を解明なされていた安達正雄氏に御礼申し上げます。
参考文献;
享保(元年~20年)『享保年度山林絵図面』(1716~1735)保木脇. 大野郡白川村役場蔵.
1746年延享3年『飛騨軍乱治国記』上村満義著
1746年延享3年『飛騨国中案内』上村木曽右衛門満義著
『大野郡白川村保木脇組略図』(出典不明[白川村役場蔵?]年不明)
『大野郡白川村保木脇組略図』と同等の図で、図名不明、年不明(高山市郷土館(現在、高山市まちの博物
館)に所蔵)
1993年平成5年9月1日岐阜新聞記事「幻の帰雲城 上 安達正雄」
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3. 白川郷埋没帰雲城調査会 公式表明 会員の皆さんに報告します
①、 白川郷埋没帰雲城調査会は、帰雲城のあった所の地名について、上記2項の研究報告書『史料の記述
から判明した帰雲城のあった所の字名と研究結果』(平成29年(2017)11月27日)を公式発表の通り、「史料の
記述からは帰雲城のあった所は、岐阜県大野郡白川村保木脇字(小字)帰雲川原と確定した」ので本会の公式
表明を会員の皆さんにご報告いたします。
②、 白川郷埋没帰雲城調査会は、帰雲城は左岸説か右岸説かについて、上記2項の公式発表から、「帰雲
城は左岸説」(庄川という川の西、左岸保木脇地区に帰雲城はあった)の公式表明を会員の皆さんにご報告
いたします。会員の皆さん、我々が長年コツコツと現地調査や、資料収集して蓄積した資料や、白川村で話し
合った結果が(史料)研究報告書という本会の公式表明でようやく日の目を見ることができました。会発足31
年目にして白川郷埋没帰雲城調査会から会員の皆さんへ「帰雲城は何処にあったのか?」一つの結論を本会
から公式表明できましたことを、皆さんの長年のご活躍や活動、ご理解や協力をいただきまして今まで本当に
ありがとうございました。
4.帰雲城のあった所の地名がついに史料研究からは判明しました
会員の皆さん、ようやく会発足31年目にして史料の記述からはとうとう帰雲城のあった所の地名が判り
ました。今まで帰雲城は何処にあったのか?を明らかにするために帰雲城調査会は長年毎年現地調査を実施
して研究をしてきました。そして、会発足31年目を迎えた昨年(2017)に、本会で皆さんが長年収集された
資料を蓄積してきて発表や研究してきた結果、史料の記述からは「帰雲城は帰雲川原にあった」という決定的
な証拠の史料の記述と、裏付け研究の結果、本会の公式表明により一つの結論に達しましたのでそれでは、
帰雲川原確定までの経緯を辿ってみましょう。
4-1.271年間埋もれていた史料から大発見!!
1746年延享3年『飛騨国中案内 第三巻』という書物の111頁に「往昔は帰雲、其後は帰山なり。に今
至て其所を帰雲川原と言ならし候」と記してあり、史料からは帰雲城は帰雲川原にあったと読み取れる一文
ですが、どうも今一ピンとこず、この一文が重大な発見だったことは2002年当時、本会は情報量や知識力も
なく気がつく段階に至っていませんでした。また、当時この一文をどのような研究の仕方をしたらよいの
かも、方法もわかりませんでした。しかし、ようやく研究する時期が来たのです。さて、情報量も多く揃い
研究できる段階になった2017年6月、この271年間埋もれていた史料が再注目の大発見だったことが判ったの
です。
4-2.23年間忘れ去られていた新聞記事発表に再注目
さて、『飛騨国中案内』の帰雲川原の一文をひも解いたのが、平成5(1993)年9月1日岐阜新聞「幻の帰雲
城 上 安達正雄」に掲載された安達正雄氏の記事発表です。この記事内容は「帰雲城のあった所を帰雲川原と
いうようになった」と解明した重大発表でしたが当時あまり注目されなかったようで、この記事発表は
見逃されていたようでした。ところが、2017年6月に、TV局から本会事務局へ取材を明日に控えて帰雲場が
何処にあったのか資料に書いてないかと思い出していると、あれ?そういえば「帰雲川原」の岐阜新聞記事
があったなと思い読み直すと、「帰雲城のあった所を帰雲川原というようになった」=「帰雲城は帰雲川原に
あった」(=帰雲川原に帰雲城はあった)と読み取り、なんだ史料に帰雲城のあった所は帰雲川原と書いて
あったではないかと気付きました。この新聞記事発表はなんと23年間も忘れ去られていましたがこの岐阜新聞
記事発表があったからこそ、史料の記述からは帰雲城のあった所の字名が判明することになった重要な新聞
記事なのでした。
4-3.史料研究するタイミングは2017年だった
2016年11月、会発足30周年を記念して帰雲城に関するほぼ全てといえる資料約1500枚の要点を
1冊にした「会発足30周年記念誌」が出来ました。そうすると2017年は、自ずと資料研究や、資料の裏付け
を取る研究の年になったのでした。もちろん2017年6月のメディアからの取材タイミングもあり、帰雲城の
真相部分であるズバリ「帰雲城は何処にあったのか」を、史料の記述からは帰雲城のあった所の字名を研究
する年になったのでした。2017年H29年11月4日(土)、金沢市本会役員会において、議題の史料の一文の
解釈を検討し「史料の記述からは帰雲城のあった所は、保木脇字(小字)帰雲川原と確定する」で決定しま
した。
4-4.会発足30周年記念誌にも載っています
上記2項で発表した史料で、記念誌に載せてあるページを紹介します。
平成5(1993)年9月1日岐阜新聞記事 ;84頁14行目、174頁12行目、
1746年延享(えんきょう)3年『飛騨軍乱治国記』 ;68頁下から2行目、
1746年延享(えんきょう)3年『飛騨国中案内』 ;56頁1行目、68頁下から3行目、
1717年享保(きょうほう)2年『享保年度山林絵図面』保木脇 ;70頁12行目、
5.ごあいさつ
本会より、会員諸氏の活動にご理解と協力をいただき御礼申し上げます。本会の活動は、平成28年(2016)
11月に「会発足30周年記念誌」を公式発表した。今年は皆さんの長年念願であった帰雲城は何処にあったのか
の結論、『史料の記述から判明した帰雲城のあった所の字名の研究について』研究報告書を本会から公式発表
できた。本会は、帰雲城の遺構の確認とその歴史解明を目的として白川村で現地調査と研究を続けてきて、
決定的な証拠と根拠となる裏付けをして「史料の記述からは帰雲城のあった所は、保木脇字帰雲川原」と確定
して会発足31年目で一つの結論を公式表明できたのは誠に嬉しく思います。会員の皆様の今までの活動に
心から感謝申し上げます。そして、「史料の記述からは帰雲城のあった所は、保木脇字帰雲川原」という
一つの結論をこの場をお借りして、今まで長きに渡る帰雲城調査研究で、白川村の協力や、白川村の皆さん、
保木脇の人達、帰雲城に尽力された方々、帰雲城に挑んだ先人研究者や、諸先輩方、本会会員の活躍に心から
御礼申し上げます。ご苦労様でした。そして、御霊前に報告させていただきます。
6.事務局から
先人が帰雲城を調べ始めたのが昭和25(1950)年頃、(記念誌105頁20行目)白川村荻町の旅館
城山館主人松古孝三氏(47歳)が帰雲城の史料研究をし始めてから今年で約68年。昭和47年1972年
6月『まぼろしの帰雲城』佐々克明著を読んでから46年帰雲城を調査されている本会会員もいます。(記念
誌113頁最下行、123頁22行目)そして、会が発足して31年が経過しました。上記2項で公式発表した通り
本会は史料の記述からは「帰雲城は帰雲川原にあった」という一つの結論に達しましたので会員の皆さん、
今まで長きに渡るご活躍に感謝申し上げます。(中略)
12.事務局よもやま話 遺跡視察
12-1.TV局の取材により
昨年2017年6月10日(土)、TV局からの取材前日、帰雲城はどこにあったのか資料から思い出していると、
ふと帰雲川原記述が浮かんで帰雲城のあった所の字名が再注目だったと判明したのでした。6月11日(日)、
TV局から帰雲城調査の現状について取材を受け、帰雲川原記述を伝えました。
12-2.一乗谷朝倉氏遺跡視察
そうすると先のことを考え、重機で試掘したら帰雲城の縄張りではどのような遺跡遺物が露出するのかと
思い、昨年2017年10月7日(土)、福井県福井市城戸ノ内町の「一乗谷朝倉氏遺跡」と一乗谷朝倉氏遺跡資料
館を視察しました。一乗谷で今まで発掘された場所では、住居跡、井戸跡、道路跡、石積み跡、一部住居復原
を視察して念入りに観察しました。一乗谷で発掘された場所では今まで瓦は出ていないとのことでした。では、
帰雲城遺跡の場合をシュミレーションしてみると、屋形(居城、城主の住まい、館)には空堀(水堀)と
土塁と礎石、道路、家臣住居、町屋の遺跡(遺構)がほぼ完全な形で露出するのを一乗谷朝倉氏遺跡に重ね
推測したのでした。本会は、重機による試掘調査計画は2027年実施予定です。(中略)
12-6.上村木曽右衛門満義が見たであろう帰雲川原と現在では地形が違う
我々が帰雲城を調査してシツタカ谷から弓ヶ洞谷までの間を保木脇と呼んでいますが、じつは保木脇地区は、
荒谷という谷の南方辺りから凡そ弓ヶ洞谷までが保木脇なのです。『飛騨国中案内』を編纂した上村木曽右衛門
満義が当時見聞した「保木脇集落」の位置は古地図『大野郡山絵図』(後写、住香草文庫目録平成元年10月、
3.23-107. 高山市郷土館(現在、高山市まちの博物館)所蔵)の朱色記しから、関西電力荒谷発電所辺りに
あったようで、保木脇集落の「枝村」の位置はシツタカ谷の北にありました。飛騨高山の地役人上村木曽右衛門
満義は保木脇を公用巡視して帰雲城があった場所を周辺で聞いたりして、保木脇村の南方辺りに堆積した地形
と、対岸山腹の崩落面の描写を「城内より川東の大山崩飛て、氏理の居城は不及言ニ其近辺不残打つぶし」と
記録しています。帰雲城のあった所の記録方法はというと、どうも地役人の仕事柄、村の地名(字名、小
字名、孫字名)を知っていたようで「帰雲川原」という字名を『飛騨国中案内』111頁に記したのが読み取れる
一文です。ところで、上村木曽右衛門満義が江戸中期に見たであろう「帰雲川原」(現、白山神社一帯。だが
江戸中期にはこの白山神社は関西電力荒谷発電所辺りに鎮座していた)は、現在とは違い地形(高度)は
低かったようです。(記念誌146頁24行目、147頁2行目参照)それから後の江戸後期の安政2年(1855)の
安政地震で対岸から土石が(現、白山神社一帯に)堆積して現在の地形(高度)になったようです。(記念
誌147頁13行目)帰雲川原は2度の地形変化(堆積)に見舞われていたのです。(中略)
13-③「会合1」
3:40、冒頭まず、会発足30周年を迎えることができましたことをお礼申し上げ、感謝申し上げます。
そして、30周年を記念して記念誌を出すことが出来お祝い申し上げますと、あいさつがあった。会発足3
0周年記念誌の使用説明をしました。(下記記念誌仕様説明文)
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会発足30周年記念誌の仕様(説明)
2017 H29 05 20
1.<記念誌の特長>
①、「帰雲城に関する要点のほぼ全てをこの1冊に収めてある」
図書館や施設等で帰雲城資料を探す手間がない。
②、「分かりやすいよう(年号順に)時系列にしてある」
判明している範囲でいつという年月日を記しているのが重要な特長で、時系列で並べたことにより、前後
年の出来事が一目で分かり読みやすい。(このことにより今まで気づかなかった新たな考察ができるように
なった)
③、「この1冊で帰雲城の学術研究できる情報量を収めてある」
帰雲城を探る重要な文言が何ヶ所も載せてある。(帰雲城について考察できる)
④、「記念誌は帰雲城調査会の共有資料なので」
皆さんと記念誌を共有して何ページの何行目の一文について考察できるようになった。
2.<記念誌の仕様と読み方(調べ方、読み解き方)>
1.「ひだ白川・帰雲城を考える会 白川郷埋没帰雲城調査会30年のあゆみ」 ・・・・1頁
仕様→ 全9ページで、いつ何が行われたのか会30年の活動を紹介。
読み方→当初会報発送→現地調査2日間→後日会報調査結果報告であったことが分かる。
2.『帰雲城と内嶋氏に関する年表1A 2012年度版』・・・・・・・・・・ 10頁
仕様 →(歴史年表)全64ページで、帰雲城に関する記述の要点を載せてある。
読み方→内嶋氏の出来事を年号順に知ることができる。帰雲城について研究、考察することができる。難字
は事務局で振り仮名を付けた。
原文の字を知るに重要なものや、原文に仮名が振ってある書物には、「古文書」、「古文書(写)」、
「 」内の振り仮名は原文のままである、「書状の写真あり」、「毛筆書」と表記してある。
<記念誌68P>「帰雲城に関する参考文献」
書物の成立(編纂、発行)年を書いてある。
<記念誌70P>「古地図・地図にある地名・山岳名・城跡」
古地図等にある地名、山岳名、城跡を取り上げている。
[一字の読みで文の意味もがらりと変わる]<記念誌39P5行目>「各以一盞愚盃勸之」の愚の字に[おろか]と
事務局で振り仮名を付けたものである。読みは次のように「各(おのおの)以(もって)一盞(はい)愚(おろか)
盃(さかずき)勸(すすめ)之(これ)」となる。読みを付けることにより、文の意味もがらりと変わってくる。難
字一字の読みを知ることは大切である。
[出典の元となった書物か?]<記念誌22P7行目>1464年 「寛正(かんしょう)5年甲(きのえ)申(さる)
年、内ヶ嶋爲氏、築(きずき)保木脇歸雲城移住、與(あたえ)牧戸城於(おいて)家老川尻備中某(なにがし)居
(いる)之[三郡沿革(えんかく)]」『飛騨国大野郡史 上巻』187頁に「三郡沿革(えんかく)」所収<記念誌59P
4行目>『還来寺歸雲家系譜』(毛筆書)
「正堅(の項)内嶋五郎信刕松代ニ住ス
季氏(の項) 内嶌五郎上野介明徳応永年中信刕松代ニ住シ十五万石ヲ領ス
氏輝(の項) 伯□守
氏豊(の項) 因幡守
為氏(の項) 内島豊庫守又上野介内島五郎季氏ノ長子ナリ(略)斐陀白川郷ニ来(きた)リ牧戸城ヲ築キ
コレニ居(い)ル 寛正五甲(きのえ)申(さる)年歸雲城ヲ築キ又コレニ居(い)ル(略)為氏廿(2)七才ニシテ
氏理(の項) 内島兵庫守天正年中歸雲城震災ノ為メ滅亡ス」
まず読んでみる部分→内嶋氏白川郷入国1460年頃~1586年を読む。1460年より以前の内嶋氏が書いてあるの
かを読み、書物名を知る。
3.『帰雲城に関する書誌 昭和平成年表 1―D 2013年度版』・・・・・・ 74頁
仕様 →(記事年表)全25ページで、記事等が出た年月日やタイトルを載せてある。
読み方→図書館で調べる際に役立つ。昭和平成の出来事や活動が年月日順の流れで分かる。
<記念誌75P15行目>1972年昭和47年6月佐々克明著『まぼろしの帰雲城』発行
<76P12>1973年昭和48年5月と6月の2回、黒沢昭二氏中央大学城郭研究会学生5人と発掘調査を
行う庄川西川原を2m掘る、他。
<78P最下>1979年昭和54年6月18日岐阜新聞記事「住民が神社建てる」
<81P8>1985年昭和60年10月27日(日)帰雲(かえりくも)400年・白川フォーラム開催。
<81P15>1985年昭和60年10月27日田口勇一氏、保木脇に内ヶ嶋一族供養のための観音像を建立。
<82P10>1986年昭和61年11月1日「ひだ白川・帰雲(かえりぐも)城を考える会」発足。
<86P最下>1999年平成11年6月19日岐阜新聞記事「帰雲城趾碑除幕式」
4.『記録などから察する帰雲城現地調査の実像2013』・・・・・・・・・・・ 99頁
仕様→(現地調査年表)92ページで、現地調査の実像と題しながらも、記事年表の記事を一部抜粋して
解説したもの。(読み物として面白い)
5.「年号西暦表」・・・・ 191頁(全5ページ)年号と西暦を表記して西暦で把握。
6.『帰雲城の山城の位置と屋形の位置について』・・・・・・・・・・・・・ 196頁
全12ページで、帰雲城の位置について証拠や根拠を初めて示した学術調査報告書。
(7.「参考資料」計208ページ仕様)<に↓別紙2枚付属で、合計210枚>
7-1.「図1帰雲城主内ヶ嶋家系図」<←内嶋氏を知るための基本となる最も重要な系図である>
内ヶ嶋家系図で、書物に書かれた人名「諱(いみな)、字(あざな)、幼名、諡(おくりな)位、官、
法名」を載せてある。生没年や、人物がどの年号に当るのか分かりやすい。
7-2.「白川郷の地名呼び名図」
白川郷の地名に関する位置情報を知ることができる。<←これも重要な図で、位置情報を把握できる>
-----------------------
(中略)
13-⑥「懇親会(夕食会)」
6:00、とにかく、まずは乾杯をしました。今日の現地調査結果報告、保木脇川原沿いと国道沿いを調査
して5ヶ所の水場を確認したのを地図上で示して報告しました。<懇親会ではなごみいろいろな話が飛び
交う>森茂村の話。(旧)荘川村中野で相撲巡業の話。秋町の山ダイナマイト発破見学の話。御母衣ダム工事
殉職者数の話。なかでも盛り上がったのは、H氏の質問で重機を使った試掘金額は幾らかかるのかでした。
300万円だ、この広範囲だと2000万円、いや30~40万円で試掘だとか、夢とロマンと現実に
皆さん表情が輝いて、とにかく何とか重機による試掘をしたいという思いが伝わってきました。
13-⑦「皆さんと至福の時を」
2017年の5月行事は、9年ぶりに再会の会員もあり帰雲城の夢とロマンを語り、現実を語り、また将来を
語り、そして私たちの知らない数十年前の白川郷のお話を聞かせて頂いて、楽しい至福の時を過ごしました。
5月行事に参加下さりありがとうございました。また、お逢いしましょう。
14.会発足30周年の御祝いを頂きました
昨年2017年、会発足30周年の御祝い品(日本酒)をU会員、MY会員より頂きました。会発足30周年
御祝い金(会計報告に記入)をNK会員、KD会員より頂きましたのでありがとうございます。御礼申し上げ
ます。
21.会員の声
皆さんからあった意見、要望をここで紹介します。
(略)
③「帰雲城に関する展示物があると聞いたが展示してほしい」所有者、保管場所、許可を確認して、白川村
で展示するのが妥当で、展示施設があるのか確認します。
④「帰雲城を白川村民や一般に広めてほしい」帰雲城について、④-1白川村であまり知らない村民や子供
さんが増えてきたようで、白川村南部地区文化会館で「白川郷を語ろう帰雲城」と題して分かりやすく語り
白川村で帰雲城を伝えてゆきたいと考えていたので先々開催したいと思います。(いちばんいいのが白川
村民が目を通す「広報しらかわ」の活用法がわからないので皆さん助言を下さればと思います)
④-2やはり本会公式HPの内容を充実させ一般の方にも広く知ってもらえるよう紹介してゆきます。
⑤「白川村に帰雲城の資料はあるのか」白川村平瀬の白川村南部地区文化会館(NBK)2階に図書室が
移転したので、『帰雲城と内ケ嶋氏に関する資料総集編』(872ページ、赤本)、『会発足30周年記念誌』
(208ページ、黄本)の帰雲城の資料があると思います。所蔵数が充実したようなので皆さん一度図書室を
訪れてみてくださいね。
白川村の施設の移転場所
(略)
④.白川村商工会(鳩谷)→白川村総合文化交流施設(飯島)に移転しました。
⑤.白川村総合文化交流施設地下(飯島)資料室→白川村南部地区文化会館(NBK)2階(旧平瀬小学校
2階資料室(図書室)に移転(平瀬)しました。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第50号. 発行日:平成29年(2017年)4月3日
1.祝 会発足30周年!
新緑の候、会員の皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶びいたします。日頃は、本会の活動に格別
のご理解と協力をいただき御礼申し上げます。昨年2016年、帰雲城が埋没して430年が経過しました。
我々帰雲城を専門に調査、研究する団体、白川郷埋没帰雲城調査会の前身、「ひだ白川・帰雲城を考える会」
は昭和61年(1986)11月1日に発足し、平成5年(1993)「白川郷埋没帰雲城調査会」に改称
して、合わせて会発足30周年を迎えましたことを御祝い申し上げます。会を引率してこられた諸先輩方や
先人研究者のご活躍、協力や参加された皆さんや、白川村の協力に御礼と感謝を申し上げ、一重に30年もの
間、帰雲城を専門に調査してこられた長寿団体の活動、活躍に御祝い申し上げます。
2.会発足30周年記念誌 限定40冊配布さる
昨年11月1日に、会が発足して30周年を迎え記念して『ひだ白川・帰雲城を考える会 白川郷埋没帰雲城
調査会 発足30周年記念誌』を会員の皆さんに限定計40冊(非売品)を配布することができました。諸先輩
方や皆さんが30年の長きに渡り帰雲城の資料収集にお礼、感謝申し上げ、これら書物の要点を1冊に集約
したのがこの記念誌資料です。帰雲(かえりくも)城調査会では、帰雲城の遺構の確認とその歴史解明を目的
として白川村で現地調査や研究を専門に長年続けてまいりましたので今後、記念誌を会員の皆様と共有して
白川村において帰雲城の真相部分に迫る分析や検証、証拠や根拠を示した帰雲城の解明に役立つ会合を行い
たいと思います。
3.この記念誌1冊で帰雲城研究し得る情報量がすごい
記念誌2項では、皆さんから頂いた資料や、図書館や施設等で長年収集してきてこれでほぼ全てであろう
帰雲城書物約1500枚から、帰雲城主内嶋(うちがしま)氏に関して、学術研究に役立つ記述の要点のほぼ
全てを時系列で記念誌に載せました。今まで、多くの帰雲城資料を持ち合っても、話しの意図する資料頁を
探し示すまでに大変だったり、資料を持ってくるのを忘れたりで、帰雲城の真相部分に迫る話しができなかった
こともあったかもしれません。今後は、帰雲城資料の要点のほぼ全てが書いてあるこの貴重な記念誌資料を
1冊持っていれば、帰雲城の真相に迫る考察を論ずることができます。ところで、帰雲城調査会で、研究し
得る帰雲城情報のほぼ全てを載せたこの資料は、本会にとっても白川村にとっても大変貴重な記念誌なので
今後活用してゆきます。
4.顧問と代表と事務局決まる
昨年、5月総会において、顧問に学識者の安達**氏、代表と事務局に有識者の野田**氏に承認されました
ので、選任の報告をします。
5.記念誌完成のお礼
本会より、帰雲城を調査研究されてきた先輩諸氏のご活躍に御礼申し上げます。会発足30周年記念誌が
会員の手元に届いたことと御祝い申し上げます。本会では、以前より「帰雲城資料を作成しては」という声が
あり、会発足30周年を記念して本会から記念誌を発表できた御祝いを申し上げ、帰雲城事典の感で後世まで
記録として残すことができ大変嬉しく思います。ところで、白川村でこの数年盛り上りもなく帰雲城の存在した
史実が忘れ去られようとしている昨今、帰雲城に関する記述の要点を1冊に収めたこのような記念誌を発表
でき、また本会で後世に伝え残すことができ嬉しく思います。さて、本会のこの記念誌が後世まで伝え残す
貴重な帰雲城基本資料として白川村飯島の白川村総合文化交流施設に永年所蔵されることを願います。ところ
で、記念誌を数回程読み込んだところ、帰雲城に関して証拠と根拠を示す学術研究に値する語句や一文を何ヶ
所か読み取れました。書物の同等文列記もあることから、作成した事務局の意図というか、この記念誌内の
一文で何を伝えたいのか事務局の詳細な示唆を感じ取ったのだが真意はいかがであろうか。もしそうならば
この記念誌は帰雲城研究者にとって、比較分析できるとてつもない情報量を備えている有意義な帰雲城資料で
ある。さて、これまで本会は30年に渡り帰雲城に関する約1500枚の資料を集めてきたわけだが、帰雲城
資料1枚1枚の発する重要な語句は点であり、資料全ページを記憶、把握するのは困難で、点だけで帰雲城を
分析検証するのは情報不足により解明には至らないのである。今回、帰雲城資料約1500枚の要点を記念誌
1冊に時系列で載せたことにより、幾つもの語句の点と点が線に繋がり、いとも簡単に一文の意味するところ
が把握できるようになったのは、本会として大きな成果であり、限定40冊の貴重な記念誌をベースとして
次のステップ、「証拠と根拠を示す段階へ進む」ことができるようになったわけである。記念誌作成にあたり、2項では2003年(平成15年)から文章起こしを始め14年の長きに渡り追記をされ、事務局で作成から
構成編集まで14年以上を要しかなり大変な作業であったことと思われご苦労様でした。現在、帰雲城が埋没
して430年が経過し、会発足30周年を御祝いして、また30周年記念誌ができ、岐阜県大野郡白川村の
第二の世界遺産になろう歴史文化遺産である帰雲山(1622m)西南西中腹崩壊面や、帰雲城の位置解明、帰雲城の
歴史解明に記念誌が大いに活用されよう。さて、この貴重な黄色い記念誌は、帰雲城を知るいわば帰雲城事典
の感であり本会会員共有資料で、帰雲城の歴史を研究、分析、検証、解明するための語句や一文のほぼ全てが
載っているので白川村で会員諸氏と記念誌何ページの何行目の一文に関して考察し、「証拠や根拠を」論ずる
のが楽しみです。
6.事務局から記念誌完成のお礼
帰雲城調査会では、皆さんからの資料や帰雲城関係の記録を長年収集して全部とは言いませんが、ほぼ全て
の帰雲城書物約1500枚の資料が集まりましたので、興味深い(面白い)記述や研究に値する要点を1冊に
集約し作成して記念誌という形(非売品)で無料配布できましたのでお礼を申し上げます。昨年11月1日に、
記念誌を配布して全会員に届いたようで安堵しています。記念誌の構成編集は事務局の書き方の癖で表現力が
至らぬ箇所はお許しいただきたく思います。昨年10月、記念誌40冊を発注して、完成した記念誌が届き
1冊手にしたところ、あまりのずっしりした重さに腕が震え、会30年の重みを感じて身震いしました。せっ
かく皆さんと限定40冊の貴重な共有記念誌を手にすることができたので、今後は帰雲城について記念誌に
書いてある文から証拠や根拠を示して意見交換ができたらと思います。
7.記念誌のここが特長
さて、貴重な記念誌(208ページ)の何がすごいのかを紹介します。
7-1「1冊にほぼ全てを収めてある」図書館や施設等で収集した多くの帰雲城に関する書物から記述の
要点のほぼ全てを記念誌1冊に収めてあるので、この記念誌1冊を持っていれば図書館に行かずとも帰雲城
資料を探す労力がなく帰雲城基本考察できるのがすごく、図書館等施設の帰雲城要点情報量を記念誌1冊に
収めたのがとにかくすごいのです。(但し、帰雲城に関する論文報告書等の記述や要点は載せていません。ま
た、書籍(本)の一部で帰雲城を紹介した要点やタイトルは載せていません)
7-2「1冊で学術研究できる情報量」帰雲城に関して学術研究できる情報量をこの1冊に収めてあるのが
すごいです。
7-3「分かりやすく時系列にした」時系列で表記したことにより読みやすく、前後年の出来事が一目で
分かり、新たな考察ができるのがすごい。
7-4「本会の共有資料なので」貴重な記念誌1冊を持ち寄るだけで会員方と何ページの何行目の一文に
ついて共有資料(情報)を通じて考察できるのがすごい。
7-5「重要な語句がある」帰雲城を探る重要な文言が何ヶ所も載せてあるのがすごい。記念誌では、年号
順に配列して年境に罫線を引いて区切りを分かりやすいようしてあり、事項間を一行空間を設けて読みやすく
してあります。(中略)
11.今年の現地調査も証拠や根拠となる水場の調査を実施
帰雲城主、内嶋(うちがしま)氏は生活に必要などの場所の水場を使っていたのでしょうか。会発足30年
を目前にした昨年より、帰雲城の位置に迫る山裾の水場跡(水場、水源地跡、水源地、谷水跡、谷水)の調査
を始めました。今年も引き続き庄川川原の水場の調査を行い、帰雲城の位置に繋がる証拠や根拠となる的を
射た現地調査を実施します。(中略)
13.今年の5月行事宿泊地は平瀬の温泉旅館です
今年の5月行事の宿泊地は、白川村平瀬のふじや旅館ですので温泉でゆったりリフレッシュいただければと
思います。
14.事務局よもやま話 記念誌作成
昨年10月、発注してあった記念誌が届きました。黄色い記念誌1冊を手にしたところ、あまりのずっしり
した重さに腕が震え、会30年の重みを感じ身震いしたのです。この重みをどのように活用したらよいのか、
この時点で分かりませんでした。記念誌郵送後、事務処理も済み一息していました。ところが、数日後に
電話やハガキ、郵送物が11件あり、記念誌に関して、「おめでとう。よくまとめた。幾らですか。大変だっ
たでしょう。ありがとう。作成に何日かかったか。研究に値する資料で。立派な資料で。次回は参加したい」
などの声がありました。この記念誌の反響を受け、役員に連絡し会合でいきなり記念誌の難しい学術解説を
するより、記念誌の各項について説明するのが先決ということになり、30周年を記念して今年の5月会合は
記念誌の「仕様説明を行う」と決まりました。さて、記念誌に載せた内容はというと、1項30年のあゆみ、
2項書物の記述、3項記事タイトル、そして読み物として面白い4項現地調査実像、までにしようと思った
のですが、とにかくこの1冊で帰雲城学術研究できるようにしたかったので、年号は西暦にすると何年か
分かりやすい5項年号西暦表、6項帰雲城の位置について、そして別紙に絶対必用な「内ヶ嶋家系図」と、
位置情報図である「白川郷の地名呼び名図」を付け、この記念誌1冊で帰雲城のほぼ全てを把握、分析研究
できるような記念誌資料内容にしたのです。ところで、記念誌の2項書物の記述作成では、帰雲城資料は数百
枚になり分厚くなるばかりで、重要な一文が把握できなくなったので要点を抜き取り、文書起こし(パソコン
で打ち込む作業)をして、年号順に並べ1冊にして読みやすくするのを目標として取り掛かりました。要点を
打ち込んでいると、明らかに学術研究分析に役立つ記述があるのに気付いたのですがいかんせ、帰雲城の要点
を1冊に完成目標という長年に渡り終わりなき遠いゴールを目指していたので、記述の研究分析(謎解き)は
後回しにしました。記述の研究に役立つ関連記述も載せたり、なお且つ書物の書き方の特長(癖)も載せたり、
書物の同等文列記も載せている項もあります。さて、書物の記述を羅列するだけでは本会の有意義な資料と
いえるのかと思い、やはり時系列で記述に関連するヒントも載せて、楽しく読み調べできるのが帰雲城調査会
の有意義な資料ではないかと思い、構成編集者の意図が読み取れればと思い作成したのでした。ここで特筆して
おきますが、記念誌別紙の「白川郷の地名呼び名図」の場所に関する<位置情報図>では、(記念誌を読み
やすいよう作成したのと同等の思いで)位置情報も把握できるよう作成して、これほどまで多くの正確な位置
情報を有しているのは帰雲城調査会のみであり、貴重な1枚を作成したので強調しておきます。(中略)
17.昨年平成28年(2016年)度行事報告
昨年、平成28年(2016年)5月21日(土)に開催された現地調査、総会、会合等の報告をします。
①「現地調査」は、帰雲城の場所に繋がる水場2跡、水場1跡(水場、水源地跡、水源地、谷水跡、谷水、
泉跡、泉、これら水場等)の調査を実施して2ヶ所の水場跡を目視確認しました。会報誌同封の地図を持って
水場2跡前に立ち、斜面の谷間を確認してこの地図の水場2跡の記しの正確性を確認した。次に山道を車で
進むが、雑草が60~70センチ伸びていて、これほど雑草が生い茂っている年は初めてであった。水場1跡
に到着したはずだが、確か、山道の左下約4m低地に水場1跡があるのにかき分けて進むも雑草が生い茂って
いて確認できない。山道を約20mほど進みようやく水場1跡が確認できた。の場所も地図で正確に合っている
のを確認した。今日は、雑草が生い茂り山道から山中に入るのを諦めた。この水場跡を目にしたことのある
会員方もいると思いますが、過去の記録(記念誌119頁18行目)には水源地という文字はあるものの、
位置情報に繋がる記述はなく、本会で聞取り調査をして位置の裏付を取り、そしてようやく2ヶ所の正確な
水場跡を本会の現地調査で確認して判明しました。聞取り証言では、「御母衣ダム工事で発電した水を流す
ために保木脇地下に配水管(導水管)工事をした昭和31~32年(1956~1957)頃から(この)谷水(水源地、
水場)が枯れた」ということである。(中略)
25.白川郷へのバス利用者へ
今まで白川郷での高速バス乗降は、せせらぎ公園駐車場入口でしたが、2016年10月1日(土)から、「白川
郷バスターミナル」荻町北側(荻町信号交差点、旅館城山館斜め前)に変更されたので、乗降場所の確認を
してください。施設内には、案内所(切符販売所)、待合所、トイレを完備。この白川郷バスターミナルは
路線バス専用で、マイカーの駐車・乗降はできません。(中略)
27.帰雲城参考情報
(略)
2016年 平成28年 6月16日(木)NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」秀吉vs.家康スペシャ
ル、「第二夜 逆襲の秀吉 天災が歴史を変えた」20:00~20:59放送.
(天正地震、帰雲城)<本編放送43分目に、帰雲城調査会事務局帰雲山中腹を指して説明あり。放送音声:
「天正13年11月29日夜10時頃、中部地方を中心に天正地震と呼ばれる大地震が発生したのである。岐
阜県白川村にはこの時の地震の痕跡が今なお残されていた。この地には帰雲(かえりくも)という城があり、
一帯には500人余りが暮らしていたという」>
2016年 平成28年 9月2日 NHK岐阜 ナビゲーションスペシャル「どう備える"活断層"
地震~東海北陸のリスク」19:30~20:43放送(天正地震)
<本編放送8分目に、帰雲山の空撮あり。放送音声:「帰雲(かえりくも)山には当時この辺りを治めてい
た武将の居城、帰雲(かえりくも)城がありました」>
----------------------------
白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第49号.発行日:平成28年(2016)4月2日
<会報はここから「会報誌」に変更された>
1. 天正の大地震で埋った幻の城 帰雲城
1460~1465年(寛正年間)頃、内嶋(うちがしま)為氏が白川ノ庄(白川郷)に入国して、帰雲(かえり
くも)城を1464年(寛正5)頃、保木脇に築いたとされます。その後、2代雅氏、3代氏利、4代氏理(うじまさ、
うじよし)が城主の時、天正13年11月29日(1586年1月18日)大地震のため、庄川(という川)の右岸(東側)
の山から崩れ落ちた土砂岩石によって帰雲城と城下町が埋まりました。帰雲城のあった場所は現在に至るまで、
城の位置さえ分からず「幻の城」といわれてきました。
2. 帰雲城の全容を明らかにした松古孝三氏
さて、本会が発足する36年も前に帰雲城を調べ始めた人物がいました。その人は、白川村荻町の旅館、
城山館の主人「松古孝三」氏で1950年(昭和25)頃から帰雲城の史料研究をし始めたそうで、空想の民話だと
思われていた帰雲城を調べて、伝説のベールに包まれていた帰雲城の全容を明らかにした人物です。じつは、
(のちの分析で分かることですが)松古氏や、安達正雄氏は帰雲城の位置に繋がる重要な証言や記録を残して
いましたが、そのなかで松古氏は1979年(昭和54)に他界され、29年間に渡り帰雲城について調査した記録や
証言は、その後誰も裏付検証がされなかったようで、また他界後7年の空白期間があり松古氏の記録は忘れ
去られてしまったようです。
3. 帰雲城を世に広く知らしめた佐々克明氏
1967年(昭和42)年2月に朝日新聞社記者の佐々克明氏が白川郷の切妻合掌造りの取材で白川村を訪れ、
松古孝三氏から初めて帰雲城の話を聞いたそうです。この縁がきっかけで、のちにこの2人のチームワークに
より、記事等に多く執筆し帰雲城が広く世間に知れ渡ることになります。朝日新聞社記者の佐々克明氏は
帰雲城をいわば広く世に知らしめた人物です。佐々氏は『まぼろしの帰雲城』、『帰雲城大崩壊』の小説を
発行しました。
4. 7年の空白期間を経て帰雲城調査団体が
松古氏が亡くなってから7年後に帰雲城を調査する専門団体が、1986年(昭和61)「ひだ白川帰雲城を考える
会」として発足して、現在の「白川郷埋没帰雲城調査会」になり、合わせて今年で29年が経ちました。会では
現地調査を主体に活動してきて、なかなか城位置を何処だと推測するのは難しく、示していませんでしたが
それでも保木脇や、弓ケ洞谷の南や、シツタカ谷の北や、右岸の調査と保木脇を中心に広範囲に渡り28年間
毎年現地調査を実施してきた結果、証拠根拠に基づく帰雲城のあった範囲推定を示せるようになりました。
5.いよいよ帰雲城の場所に繋がる現地調査実施!
今年の5/21(土)の現地調査は、帰雲城の場所に繋がる松古孝三氏が記録に残した「水源地を見学」したり、
水源地一帯を調査する予定ですので、皆さん楽しみに現地調査にご参加ください。(中略)
7.「会の行事は現地調査と会合を」
7-1 先人の伝統を守りつつ
本会では、毎年現地調査を実施してきました。当時は参加人数が多く、数班に分けて保木脇国道156号線
西(上段)一帯の現地調査を実施した年もありました。また、現地調査では雨の年もあり、皆さんの強い要望で
それでも雨天現地調査を実施したり、雨天時宿で集った年もあるそうです。この会の発足当時から行ってこら
れた先人の現地調査の伝統を、今後も引き続き「現地調査」を皆さんとで行いたいと思います。(中略)
8.「帰雲城調査会公式ホームページ開設!」
8-1 2014年(平成26)9月6日会議において、インターネット上で本会ホームページ(HP)を開設して
はどうかという意見があったので、野田広報が本会HPを開設するで決定しました。昨年は諸事情により開設
が遅れましたが、5月に本会HPを開設する予定で、場所に関する公表できない位置情報もありますが支障の
ない範囲で活動の一部紹介や、本会目的や、活動予定を告知します。
12.平成28年度現地調査・総会・会合等の開催について
1.現地調査のご案内
日時 平成28年5月21日(土)AM10:00~PM2:00
集合場所 白川村保木脇「帰雲城趾碑」前
調査場所 故松古孝三氏が記録に残していた帰雲城の場所に繋がる水源地見学、調査.
(同封別紙、「平成28年(2016)5月21日(土)保木脇水源地現地調査地図」を参照、現地調査参加者は
この別紙地図を持参下さい)
行動予定
集合出発 AM10:00 帰雲城趾碑前、出発
移動 10:00~10:15 車で移動、徒歩で水源地2へ
調査開始 10:15~12:00 水源地2、水源地1見学、調査
昼食 12:00~12:30 昼食おにぎり等や、飲物は各自で用意下さい
調査 12:30~ 2:00 調査、終了、(2:30解散)
移動 2:30~ 3:00 宿へ移動
(注) 笹等のやぶがあります、長靴、軍手等、現地調査に即した服装を用意下さい。
(昼食)昼食おにぎり弁当等や、飲み物は各自持参して下さい。
(雨天場合:10:00帰雲城趾碑前集合出発、白川村総合文化交流施設資料室へ向い史料調べ予定、又は
2:00まで各自自由行動)(中略)
15.聞取りした証言に
「帰雲城に関する多種情報」のなかに地元白川村での「聞取り証言」があります。当時、聞取り調査した
会員から今年1月に記録を見せていただきました。この聞取りで帰雲城の場所に繋がる証言(記録)があった
ので、『記念誌』の中に「保木脇地区について聞く」のタイトルで記録を残してゆきます。
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白川郷埋没帰雲城調査会 会報№48.発行日:平成27年(2015)12月7日
<ここまでが会報で、以後「会報誌」に変更となる>
元事務局 高橋**氏逝く
昨年から胃の病気で治療していた元事務局の高橋**さんが今年7月、他界(享年72歳)されました。
高橋さんは、1989年から14年間、事務局や会報作成発行を担当され、会報は読んでわくわくする内容
でした。昨年、高橋さんに会報作成時の逸話を聞いたところ、「毎年会報を楽しく書いていた」と話されたの
が最後の会話となりました。慎んで高橋さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
副会長と事務局退任
今年2月7日の会議で、I副会長とKM事務局から持病、家族の看病などの諸事情により退任の申し出が
あったので、春の会報発送までをお願いし、3月31日付として受理しました。お疲れ様でございました。
会長職の辞任
安達正雄会長(学識者)より、現在2つの病気があり午前中の体調が安定せず、総会会議打合せ等の職務が
困難な場合があるので会長職を平成28年(2016)3月31日で辞任したいとの旨があり、役員会で受理しま
した。2007年より会長職を9年余り務め頂きましたことに、また講演会の講師を賜りましたことにまだ
任期はありますがここで、心から御礼申し上げます。お役目をありがとうございました。
役員の諸事情高齢化で参加困難に
現在、役員会や幹事会の参加者は、病気や複数の持病者5名、家族の看病者2名、町内行事家内用事多忙者
1名で、68歳以上の高齢者役員の会議参加困難者が多く、役員の諸事情や高齢化問題で会運営面維持低下の
現状に直面しています。
この際会目的の明確化を
(略)
4.「夢とロマンと真相部分」やはり皆さんが楽しみにしている「帰雲城の夢とロマン」を聞いて楽しく
語ってゆきます。一方で、「帰雲城の真相部分」に迫る会合対談で学術調査研究成果を分かりやすいよう
説明を今後して、「夢とロマンと」、「学究的な帰雲城の真相部分」の2本立て会合対談をして5月行事を
行います。
5.「帰雲城の真相部分に迫る現地調査」を実施して、証拠や根拠を現地で説明、見学をしたり、調査を
したいと思います。
もろもろの声
③「帰雲城は何年経っても見つからないではないか」これは、帰雲城や歴史を解析、解明するというのは
数年でわかるものではなく、資料収集や情報収集、現地調査を行い解析、検証、そして推定解明するまでに
30年、40年かかるものです。ところが、会では「帰雲城に関する多種情報」が揃ったのでようやく次の
段階へときました。今後、証拠や根拠を検証して学術的に「帰雲城の真相部分」に迫りたいと思います。
試掘調査(長期計画)スタート
さて、調整があり報告が遅れましたが昨年9月6日付役員会で、測量→機器等による地中探査→試掘までを
視野に入れた「試掘調査(長期計画)案」が協議され決定しました。この学術調査はかなりの年数を要します
が、「試掘調査(長期計画)」始動したことをお知らせします。
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