2-4帰雲城調査会公式HP事務局だより

 帰雲城調査会事務局より、本会の今までの活動経緯を古い方から順になりますが少しずつ時間はかかり
ますが追記して、時には会員としての見方や事務局としての感想を裏話も含めて「事務局だより」として
紹介したいと思います。  

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事務局だより

2026年08月11日 13:01
2026年6月下旬に「仮称3つの丸円(保木脇字返り雲山、田口プラント西の山)」の場所は急斜面ではなく、以前現地調査した時にも緩やかな斜面だったのを記憶しており、この場所をCS立体図で見ていると、「んっ?」山崩れの斜面崩壊を起こした場所ではないかと思った。つぎに、シッタカ谷下流北(保木脇字若林、以前の現地調査で緩やかな斜面だったのをよく記憶している)を見ると、「えっ」仮称3つの丸円と同じ緩やかな斜面であることに気づいたのであった。この2つの場所地形は山側の崩壊地形だと思った。 しかし、この地形には何やら妙な違和感(長年調査してきた勘)があったのでCS立体図をよ~く見ると、「あれっ」2つの場所地形は谷の扇状地(三角州)かもしれないと思ったのでした。仮称3つの丸円の場所地形は、①、山側の斜面崩壊による地形?②、扇状地地形?③、扇状地と山側の斜面崩壊による複合地形?④、その他、と思ったのでした。 仮称3つの丸円の場所は庄川と弓ケ洞谷が合流する場所にあり山城や監視に最適な立地であり、やはり少し「帰雲城のロマン」の部分を求めたのでした。以前、現地調査の際、仮称3つの丸円下部(谷側)に何らかの手がかり、遺構は残っていないか調べたが時間はなくほんの少しの場所を調査しただけだったので痕跡は何もなかった。仮称3つの丸円の場所は居城か山城(詰めの城)として考えてみると、A、小字返り雲山である。B、弓ケ洞谷から水を引くことは可能と思われる。C、庄川と弓ケ洞谷の合流する場所にあり敵の監視に最適。D、すぐ下は急斜面で現在からして(当時?)比高約20~30mあり守りに適している。E、小さな平地(削平地)跡を2~3ヶ所確認した。①、上部山側は急斜面で冬雪崩の危険性がある。(住むには適さない)②、スペースが広過ぎて守り切れない。
2026年07月29日 02:23
2026年7月28日(火)、活動の中で人物の繋がりや関わりを把握できるよう「登場人物の紹介」を資料等や、考える会会報を読んでPCに打ち込んでいると、「えっ」本当の帰雲山の位置?平成4年(1992年)9月13日発行、白川郷・帰雲城を考える会会報№14の6ページに「幻の城、帰雲城を求めて"」SK会員記があり内容は、「白川村のM寺和尚曰く「みんなが帰雲山<1622m>といっている保木脇<正しくは木谷地区>の崩れた山<中腹崩落面>は帰雲山ではない」<←こういう証言はとても重要であるのを見逃していた>と話の中に聞くことが出来2人は顔を見合わせた。他にも帰雲山と呼ぶ山があるんだ。(中略)以上、私の蔵書するコピーと図面から帰雲山の位置を調べた。大正時代は帰雲山は庄川左岸<保木脇>に<あり>、それ以後の地図(現在も)には<庄川>右岸に帰雲山<1622m木谷地区>があるように記入されている」と、いう内容でした。考える会の1992年にSK会員<幹事>は庄川の右岸や左岸を問わず、もう帰雲山の古地図や地図を沢山集め本当の帰雲山の疑問を研究していたとは。
2026年07月15日 20:47
 「かえりくも」という地名や山名は計5つあります。出典や他はなかり割愛して記します。 ①、「皈雲(かえりくも)山」1897、3m、白川村保木脇字弓ケ洞。田口プラント西の山(1402m)から更に西にあるのが皈雲山。三方崩山(2058m)の北の尾根上に皈雲山はある。江戸時代が終わり高山県時代の役所がドタバタしていた頃に作成した明治4年頃から、明治13年(1880年)1/20万地図、明治18年(1885年)地図、大正14年(1925年)1/32万地図、他の地図等計5~6枚にこの「皈雲」は登場しているが、「皈雲」の字が使われたのはこの頃だけである。 ②、「返り雲(かえりくも)山」白川村保木脇字返り雲山。田口プラント西の山で本会が仮称「帰雲台地1402m」と呼んでいる山。古地図6枚程度には、「歸雲山」、「帰雲山」、「帰り雲山」と記してある。地元の方にこの山の名を聞くと「知らない」ということだった。<帰り雲山内古地図1枚あり総集編№440> ③、「帰雲(かえりくも)川原」白川村保木脇字帰雲川原。上段と呼んでいる田口プラントから北にある。古地図4枚程度に「帰雲川原」と記してある。<現在、帰雲城趾のある場所。岐阜県が帰雲川原城跡遺跡登録した場所> ④、「帰雲(かえりくも)」白川村木谷字帰雲。帰雲山1622mの西中腹崩落面の場所の小字名は、字帰雲である。 ⑤、「帰雲(かえりくも)山1622m」白川村木谷。昭和28年(1953年)1/5万地図「白川村」に帰雲山1622mの山名はまだ登場してない。帰雲山1622mの山名が登場するのは、昭和43年(1968年)1/5万地図「白川村」に帰雲山が登場し、昭和46年(1971年)10月発行1/5万地図「白川村」に帰雲山が登場するわけで、昭和43年(1968年)より以前は山名はなく、あえて言えば無名山であった。と、「かえりくも」という地名や山名は計5つあります。
2026年07月02日 14:13
 本会公式HPを2016年平成28年5月4日に開設してから、あっという間に10年が経過しました。2026年5月にようやく1つの機会が訪れたので更新作業を始めました。まず1番目に「岩瀬橋の戦い」を紹介したかったのですが、事情により2番目を「1-4公式HP近年の記録紹介」にUPしたのでご覧ください。 昨日7月1日(水)、朝一白川郷に向かい御母衣ダム湖の尾神橋辺りで工事をしておりどうも58年が経った尾神橋の付け替え工事のようでした。天気は白曇り外気温約17度で長袖で涼しく、帰雲城のあった白川村で2件の事務局として用事を。開催計画の施設を下見して間取り、机、イス数を数え把握。行き帰りともに眠たかったのでした。