1-2帰雲城調査会公式HP現地調査を振り返る
帰雲城の現地調査で、過去にどんな調査をしていたのか、聞いた話や情報からも含めて現在までを紹介
します。
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考える会・調査会の現地調査を振り返る
2026 08 14 UP(後々疑問や感想を随時追記更新)
さて、まずは①ひだ白川・帰雲城を考える会や、②帰雲城調査会の現地調査はどの場所(保木脇、木谷、
大牧、平瀬、ほか地区)の現地調査や、見学をしていたのか会報や会報誌、新聞記事から辿ってみます。また、
会報や会報誌の内容についてキーワードや、取り上げもしない何気ない記載は読んでも断片的な内容なことから
把握しづらいかもしれませんがそれでも少し触れてみたいと思います。(会報・会報誌に記載された予定は
部分的に開催されなかったケースもあります。なお、当時の会計報告は昭和の終わりから、平成の初めを知る
貴重な団体の資料ゆえあえて情報を紹介することにします)
白川村による重機を使った第1回目の試掘調査
1985年昭和60年5月、白川村の要請で金沢大学地質学部絈野義夫教授らが学術調査をおこなう。庄川
西2カ所<トレンチ1保木脇字後平、トレンチ2保木脇字帰雲川原>でユンボ(重機)によるトレンチ調査を
実施した。
昭和60(1985)年10月27日(日)「帰雲400年・白川フォーラム」」開催された。主催白川村・
白川村教育委員会。講演1金沢大学絈野先生『400年前の帰雲大崩壊について』他、講演あり。このフォー
ラムをきっかけに帰雲城に興味ある人達による趣味の団体を立ち上げようという話が持ち上がった。
1986年昭和61年11月1日、「ひだ白川・帰雲城を考える会」は発足した。(黒沢代表)この時の模様
は、1986年昭和61年12月20日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№1の文面から一部分を下記。
当日、会場に金沢大学地学教室絈野義夫教授、大阪府立大学地学教室八木伸二郎教授、城山館女将さんなど
全国から約30人が集まった。
来賓、岐阜県梶原副知事の激励挨拶「帰雲城については亡くなられた佐々克明さんの本で、くわしく知る
ようになったが夢とロマンのある話なので、皆さんの今後の研究・調査活動に期待します」
白川村和田村長挨拶「帰雲城について、このような会が結成され、大変ありがたく思っている。村としても
引き続き調査に取り組むが、今後とも皆さんのご指導を頂きたい」
白川村高島教育長より村としての調査活動について報告が行われた。「2度目の<重機を使った>試掘を、
今秋に予定していたが業者との折り合いがつかず、又、村の予算面の都合もあって、結局、実施できなかっ
た。しかし、村としては、今後とも、皆さんの助言を頂きながら調査を続け、帰雲城が決して幻の城だったの
ではなく、本当にあったということをつきとめたい」TV局3社祝電あり。白川村代表田口勇一氏。
金沢大学助手安達正雄氏『帰雲城の崩壊について』→「岩石流が時速約280キロの猛スピードで流れ落ち
たことを、地滑りの方程式をもとに説明」の新説を発表した。
研壁幸氏テーマ『内ケ嶋氏の実像』→「内ケ嶋氏はこれまで3代とされてきたが天文日記の記述から4代に
わたっていることが明らかになった。内ケ嶋氏は武蔵出身で<帰雲城主>4代」と研究発表した。
会は、このあと時間の制約もあり、最後に黒沢氏が「会の発足を契機に、今後とも、会員それぞれの研究や
情報交換を進め、帰雲城についての議論を深めると共に白川村の調査に協力して行こう」と閉会のあいさつを
して、発足記念総会の幕を閉じた。なお、同会の司会は、会員でもある岐阜放送の神田アナウンサーが当たっ
た。新しく定められた規約に従って、会では年間会費3,000円を会員から徴収することになった。
11月1日の考える会出席者のアンケート調査結果→「1度、現地<保木脇>を見学し、先生方の説明など、
お話を聞きたいと思います」、「戦前、台湾にいましたが、昭和21年引き上げの際、古い書籍を持って帰る
ことが出来ませんでした。1冊は『飛州志』で、もう1冊は書籍名を忘れました。この書籍には飛騨の城跡が
詳しく書かれており、帰雲城の城跡も有りました。今記憶に残っているのは、庄川をはさんで、帰雲山の対岸
に保木脇と帰雲城の図が載っていたことです。この書籍を探すことによって、帰雲城の位置が正確にわかるこ
とと思います」<←『飛騨國中案内』のことか?>、「研究会等の会場は、公共施設を利用し、会費をなるべく
安く願います。会の存続のためにも必要なことだと思います」、「会の成果や、発掘された書類(?)等が
残り、保管されるようお考え頂きたい」
↑皆様がこれほど、熱心とは思いませんでした。会員の増加、そして決定的な遺物や遺構の発見を期待しま
す。質疑の時間がなくなったのは残念でした。
「ひだ白川・帰雲城を考える会発足記念総会・式次第」昭和61年1986年11月1日(土)正午~4時
岐阜市長良川畔:岐阜グランドホテル
12:00 開会あいさつ
12:05 来賓の祝辞 岐阜県副知事 梶原拓、白川村村長 和田正美
12:15 祝電疲労
12:18 出席者自己紹介
12:40 白川村の現状報告 白川村高島教育長
12:50 乾杯
12:52 昼食
13:30 会の運営について(名称、規約、役員等)
13:50 TV「埋もれた城<帰雲城>」モニター<再生、岐阜放送テレビ>
14:50 記念研究発表会 元金沢大学助手安達先生、県文化財保護協会員研壁幸
15:30 質疑
16:00 閉会のあいさつ
「ひだ白川・帰雲城を考える会」規約 61.11.1
第1条 本会は「ひだ白川・帰雲城を考える会」と称す。
第2条 本会の事務局を<事務局所在地>に置く。
第3条 本会は天正13年(1586年1月18日)地震に依り埋没、崩壊した戦国武将、内嶋氏理とその
一族の居城、帰雲城の遺構の確認と、歴史解明の為、白川村との連携、協力により、調査研究を進めてゆくもの
とする。
第4条 総会は通常年1回とし、必要に依り、臨時の総会を開くものとする。
第5条 世話人幹事を5名選出し、合議に依り、会の運営に当たるものとし、幹事の互選にて代表を決める
ものとする。
第7条 幹事は情報の収集、通信等、会員への報告、連絡にあたり、会の健全な運営に努力するものとする。
第9条 会員G、「帰雲城」の遺構或いは重要な発見を得たる際は、直ちに白川村教育委員会又は「考える
会」事務局に連絡することが望ましい。
第11条 会費は年3,000円とし、運営上の経費にあてることとする。又会計事務は事務局にて行ひ、
総会に於いて収支報告を為すものとする。
第13条 本規約は総会に於いて会員の総意に依り、変更する事ができるものとする。
尚、世話人幹事は昭和61年11月1日の総会に於いて次の通り選出されました。
田口氏、研壁氏、生駒氏、神田氏、黒沢氏(代表)
1987年昭和62年5月7日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№2より一部分を下記。
「帰雲城下で懇親会を開催→試掘状況の見学。会員による記念植樹。城郭埋没地帯の見学。飛騨料理と懇親
会。(幹事会で決定)」、「本調査ではないので、マスコミの報道はさし控えてもらいたい」、「<1985年
昭和60年5月、白川村の要請で金沢大学地質学部絈野教授らが重機による試掘調査を>左岸<保木脇>河岸
段丘の上段、下段各1ヶ所において試掘された。その結果、深さ十数メートルに堆積している岩屑類は対岸
<庄川右岸>の帰雲山<1622m一帯>から来た濃飛流紋岩であり、その下に川原石がある。この川原石の
層が昔の<帰雲城主内嶋氏当時の>地面であったことがわかった。(略)したがって、左岸<保木脇>の河岸
段丘(上段または下段)に城と城下町があったと推定される」、「埋没金の発掘調査に協力をの申し入れ→
帰雲城の埋没金発掘調査を行いたいので「考える会」の協力をお願いしたいとの申し入れがありました。去る
3月2日東京のOなる人が事務局の黒沢氏を訪ね、「金属探知機にて保木脇の現地を調査したところ、有望な
異常反応を示したので発掘のチャンスを伺っていた」とのこと。4月18日幹事会を招集し、この件を協議
したが、その有無はともかく、埋没金を目的とした発掘は「考える会」の設立趣旨に全く相反するものである
ことを確認、何れ村当局とも相談の上、申し入れに対し返答することとした。4月21日O氏にその旨を
伝えたところ「考える会」、村当局の了承を得られない限りは、勝手に発掘はしないとの約束を得た」、
「白川村、村長に和田氏当選→和田村長は昨年11月1日の「ひだ白川・帰雲城を考える会」での発会式にも
出席され、帰雲城解明の為、村としても「考える会」と連携協力してゆきたい、と挨拶されて居りますので
この方向で、更に協力されてゆかれるものと思います」、「新会員6名、<東京の小林さんの名あり>」、
「会費3,000円未納の方はよろしくお願いします」
(次の要領で行います)
月日 6月6日(土)~7日(日)1泊
集合場所 9:50分名鉄貸切バス(バス内にて昼食)「現地へ直行の方は、保木脇の「民宿大野」へ
2時頃に集合して下さい」℡***
2時頃 「民宿大野」着(保木脇)小休止。試掘現場見学(4時迄)
4:30分 城山館着(合掌部落、荻町)℡***
5:30分 懇談会~夕食~宿泊
6月7日 午前8:30分出発(貸切バス)帰雲神社周辺にて記念植樹(一家族一本)。試掘現場見学
(民宿大野)~自由行動。昼食(民宿大野)~自由行動。帰路出発2:30分。名古屋到着6:30分頃。<←
白川村から名古屋まで当時何と4時間もかかるとは驚き>
参加費用(1人) 14,000円(1泊2食、昼食2回、バス代込)
現地へ直行する場合 6,200円(1泊2食、昼食1回)
申込み〆切日 5月20日(同封のハガキを返送して下さい)
<1987年って民宿に1泊6,000円程度で泊まれたとは>
1987年昭和62年6月6日(土)14:00頃~6月7日(日)10:00頃試掘現場見学。(予定)
この<保木脇上段重機による>特別試掘(主催者未確認)は正式な本調査ではなことから発掘状況を考える会
会員に特別に見学してもらう配慮でした。(試掘は行われたのかは情報なく不明)<どうもこの年は試掘行わ
れなかったようだ>
1987年昭和62年12月10日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№3より下記。
「去る5月にご案内しました通り、初の懇親会が晴天に恵まれた6月6日~7日帰雲城下で行われました。懇談
会には、和田村長、高島教育長も出席され、話題の中心は勿論帰雲城。熱心な発言が活発にだされ、盛んな内に
会員相互の親睦をはかることができました」、「記念植樹は、各人が苗木(ひば、つつじ、もくれん、白樺、
他)を1本づつ観音像を囲む様に植え、<←今でも見られるのか今度行ったら見てみよう。帰雲城趾や帰雲
神社、観音像周辺はいつもきれいで、保木脇住人や田口さんが毎年草刈りの手入れをしていると聞いたが、
先人の思いをようやく知ったのでした>記念に各人の名札をつけました。苗木は、田口勇一幹事の寄贈による
ものです。田口氏には、雪囲い等いろいろご苦労をおかけしております。来年の春が楽しみですね」、「寄付
金及び寄贈品をお受けしましたのでご報告致します。→寄付金1万円。寄付金7,000円水谷殿より。寄贈
品苗木50本田口勇一殿より。寄贈品本1冊(天正大地震誌)服部殿より。寄贈品本30冊(帰雲城大崩壊)
佐々*子殿より。寄贈品手拭50本市村成*殿より。寄贈品ビデオテープ2巻高橋政*殿より。寄贈品清酒
2本<←今では見かけることは少なくなりましたが、この昭和の当時はお祝い駆け付け品はお酒2本が通常の
時代でした>」、「新会員3名、12月10現在会員数55名」、「第2回年次総会は延期→通常総会を開催
すべく幹事間で話し合いましたが、特に議題、案件もなく、又会員皆さんの出席(名古屋の予定でした)も
ほとんど期待出来得ない感触でしたので(懇親会での出費のあとでもあり、失礼乍ら個人的諸経費の負担等も
考慮しました)今回は、甚だ勝手乍ら見送ることと致しました。ご意義もあろうかと思いますが、何卒ご了承
の程お願い致します」
1988年昭和63年6月20日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№4より下記。
「去る5月3日世話人幹事会を開き(於名古屋、生駒、田口、黒沢、3氏出席)」
(総会と<白川村による>地質調査は次の要領で行います)
(総会)
月日 7月9日(土)
時間 午后5時(時間厳守)
場所 白川村平瀬温泉くろゆり荘℡***(バス停、平瀬学校前下車)
宿泊費 7,000円(1泊2食)他に温泉入場150円(宿泊されない方は、実費となります)
(<白川村による>地質調査<の見学>)
月日 7月 9日(土)午前11時頃~午后3時頃迄
7月10日(日)午前10時頃~午后4時頃迄
両日共、昼食は各自負担でお願いします。(保木脇の民宿大野さん宅で調達をお願いできます)℡***
民宿大野(会員)で、休憩もできます。
(会計報告)昭和61年11月~昭和63年6月
収入 支出
発足記念総会会費 114,000- 発足記念総会経費 281、390-
会費<48名> 144,000- 会経費 78,110-
寄付金 27,000- 会通信費 25、620-
懇親会会費 156、500- 懇親会経費 156、500-
雑費 1,230-
計551,500- 計542、850-
差引残高¥8,650-
「総会議題、一般報告、会計報告、自己紹介、今後の活動方針と運営についての会員間での討議、新世話人
幹事の選出、事務局の移転」、「会員の声→空から訪ねた白川郷、会員の朝日新聞中島記者に一言随想を寄せて
もらいました。初めて帰雲城趾を訪れたのは、昭和61年<1986年>5月16日雨の正午過ぎだった。当時
まだ元気だった佐々克明さんの「圧力」で記事にすることになっての取材行である。どうせ行くなら徹底的に
見てやれ、と、社のヘリを調達、土砂崩れの跡<帰雲山1622m中腹崩落面>を空から撮影した。写真の腕
はともかく、上から見ることで、ずいぶんと状況を掌握できた気がする。まだ、最近のことに思っていたが、
そういえば佐々さんが亡くなってもう、ずいぶんになる」、「新会員1名、会員数合計56名(63/6/20現在)」、
「会報№3にて報告致しました「木片の発見」は結局、手掛かりとなるものではなかった様です」、「懇親会
での記念植樹は、田口さんのご面倒のおかげで順調に育っております」、「帰雲城の遺構の確認と、その歴史的
解明はなかなか容易ではありませんが、このままでは「幻の帰雲城」として、単なる歴史ロマンに終わってしま
います。皆さんの建設的な活発なご意見をお待ちしております」
白川村による重機を使った第2回目の試掘調査
1988年昭和63年7月9日(土)11:00~15:00~7月10日(日)10:00~16:00、
3年ぶりの<重機による>地質調査実施(白川村教育委員会)考える会会員は見学した。<保木脇上段、
トレンチ1跡の北50m(約80mとも記載あり)地点(保木脇字後平)>深さ約10m掘削した。深さ約5
mから木の根っこのようなものが見られた。1985年5月のトレンチ調査の地質状況とほぼ変わりない感じ
だった。<白川村は重機による2回目の試掘調査を実施していたとはわたしは気がつかなかった。会報に記録
が残っていたとは>
ところで、「<重機による最初第1回目の試掘調査は→>1985年昭和60年5月、白川村の要請で金沢
大学地質学部絈野義夫教授らが学術調査をおこなう。庄川西2カ所<トレンチ1、トレンチ2>でユンボ
(重機)によるトレンチ調査を実施した」
1988年昭和63年11月28日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№5より下記。
「第2回総会、白川村(平瀬)で開催される。<白川村による>地質調査(遺構確認)で手掛かり得られ
ず」、「去る7月9日(土)第2回総会が開催されました。(平瀬、くろゆり荘)和田村長、高島教育長も出席
されましたが、会員の出席が少なく(15名)、残念乍らやや盛り上がりを欠いたものとなりました。それでも
出席者にはかえって親近感のある会合となって帰雲城をテーマに活発な議論がかわされ、少人数の為、議決事項
はあへてさけましたが、それなりに有意義な総会ではありました」、「白川村は限られた予算でいろいろ努力
されていますが「考える会」でも、何か発見へとつながる、やるべきことはないものか!」、「会員の声、飯田
汲事(名古屋大学名誉教授)飯田先生には、お身体が不調でいらっしゃいましたが、特に一言随想を寄せてい
ただきました。「帰雲山と帰雲城の位置について」(略)当時、帰雲城は庄川の左岸の帰雲山<本当複雑なの
で字だけでは本当に分からないが、返り雲山(保木脇字返り雲山、田口プラント西の山)のことか>の麓、
庄川との間に位置していたと考えられる」
考える会の初第1回目の現地調査と言える
1989年平成元年4月2日、高島教育長、上手社会教育係長、高橋幹事(のちの本会事務局)、岩下氏らは
帰雲山1622m中腹崩落面(白川村木谷字帰雲)調査で標高約1000mまで登る。
1989年平成元年7月8日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№7より下記。
「盛り上がった第3回総会、さて前号の会報でお知らせした「ひだ白川・帰雲城を考える会」の第3回総会
は、さる5月5日(金)午前11時30分から岐阜市湊町の十八楼で開かれ、各種報告や研究発表をもとに、
活発な意見の交換が行われ、楽しく盛況のうちに閉幕しました。会員の皆さんに、当日のもようをとりまとめて
お伝えします」、「当初の参加予定20人を上まわる25人が出席。(略)会が発足して足かけ4年になる。
これまで懇親会や現地視察、それに山登りなどをやってきたものの、<帰雲城を発見しなくてはいけないと
いう会長さんの相当の重圧は大変だったようです>必ずしも皆さんの期待に沿えなかったのではないかと
思う」、「このあと会員でもある高島教育長が(略)城の調査については村議会を含め、内部的に「現地は
昔のままにして、これ以上調査しない方が良い」という意見もあり、平成元年度は予算もつかず、調査は行わ
ないことになった。また去年<白川村は重機を使った試掘>調査したものの、何も出てこなかった国道上段の
試掘現場は埋め戻しを行う」、「昼食をはさんで、午後は、今年の4月2日、帰雲山頂付近<庄川右岸、白川
村木谷>の崩壊現場(スリバチ状になっている、えぐられた凹地)に登山した高島教育長から登山報告が行わ
れ、(略)途中で休憩したので2時間ぐらいかかった。凹地には残雪が50~80㎝あり、ゆるやかな傾斜に
なっていた。(略)スリバチ状の場所で、その後も、何回かの崩落があり、軟弱な地盤などで、昼食をとって
いる時も、石がゴロゴロ落ちるような状態だった」、「内ケ嶋氏に第4の城・日崎城があった!研壁氏古文書と
現地調査から研究発表、続いて東海古城研究会会員、岐阜県文化財保護協会会員の研壁幹事が「内ケ嶋氏に
第4の城」と題して研究発表を行いました。(略)日崎城<荘川町海上字ヒサキ、標高約715m、荘川桜の
北方ダム湖底>の存在を初めて明らかにし、出席者の関心を呼びました」、「会の運営は今後8人の幹事態勢、
新たに高橋氏<のちの調査会高橋事務局>佐々木氏<のちの調査会佐々木副会長>他を幹事に選び、幹事を
8人態勢に、することが了承されました。これまで、東京の黒沢会長の事務局を岐阜県内の高橋幹事に移す
ことを決め」、「こうして、午後3時10分、黒沢会長の挨拶で第3回総会は幕を閉じましたが、活発な
意見の交換を含め、盛り上がりを見せた集まりとなりました。なお、当日マスコミ関係としては地元の岐阜
新聞と中日新聞のほか共同通信が取材に当たり総会の模様が翌日の地元各紙の紙面を飾ったことをお伝え
して、当日の紙上レポートを終わります」
第3回総会・会計報告
収入の部 支出の部
会費 87、500- 3500×25名 昼食代 56、982-
祝儀 10,000- 部屋代 2,000-
祝儀 5,000- 奉仕料 8,847-
祝儀 10,000-<現調査会U会員> 消費税 2,035-
計 112、500- 計 69、864-
残額4万2636円は年会費会計に繰り入れます。
1990年平成2年4月1日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№8から下記。
「特集白川村の帰雲城調査の歩み(中略)以上、1990年(平成2年)3月現在までのダイジェスト。な
お、今特集にあたっては、白川村教育委員会の高島教育長より、資料の提供を含め、全面的なご協力を頂きま
した」
1990年平成2年4月22日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№9から下記。
「会報8号でご案内した通り、「考える会」では5月19・20日の両日、白川村で第4回総会<この頃は、
総会、会合、会議、研究発表会、親睦会、宿泊を含めて総会と呼んでいたようだ>を開きますが、くわしい
スケジュールが決まりましたのでお知らせ致します。新緑の美しい季節、帰雲城の眠る飛騨白川郷での現地
視察交流総会に、ぜひご参加下さい。なお、宿泊先の人数予約の関係上、参加、不参加をハガキにご記入の上、
至急、ご返送下さるようお願いたします」
日程 1990年5月19日(土)・20日(日)=1泊2日
宿泊先 城山館℡***
参加費 1.宿泊費(1泊2食)6000円、帰雲城調査のパイオニア、故・松古幸三さんのご家族、M・
R<女将>のご厚意で、7000円を6000円にして頂きました。<当時はこんなに安く泊まれたんだー>
2.JR岐阜駅発着往復マイクロバス料金3000円
交通 今回は、白川村の特別のご協力で、村のマイクロバス(25人乗り)を提供して頂きます。19日
はJR岐阜駅前までご利用頂けます。バス料金、通常の私鉄バス(この期間、直行便がなく、乗り
つぎで不便です)が往復約7500円のところを、往復3000円にして頂きました。なお、ご自
分の車で現地へ直行される場合、あるいは、別ルートで現地合流の場合バス料金は不要です。
両日のスケジュール
(5月19日・土)
午前10時50分 JR岐阜駅西口側マイクロバス前集合
午前11時00分 JR岐阜駅前をマイクロバスで出発
午後12時頃 途中で昼食(国道沿いのレストラン=実費)
午後12時30分頃 昼食場所出発
午後 3時頃 白川村保木脇の民宿「大野屋」到着。マイカー及び別ルートで直行の方もここで合流、
休けい。(会員の故大野**さん経営の民宿で、目下休業中のところ特別に休けい場所
として提供して頂きました)<←当時地元の人の協力って親切だったんだなー>
午後 3時30分 マイクロバスで見学に出発
1、水ばしょうの群生する大久保沼<大窪沼、白川村大窪>
2、内ケ島と因縁の嘉念坊道場跡
3、荻町城跡(合掌集落遠望)
午後 6時頃 城山館到着、入浴。
午後 7時00分 夕食
午後 7時30分 交流総会(研壁氏の研究発表「地名考」及び映画上映も予定)
午後10時00分 就寝
(5月20日・日)
午前 7時00分 起床
午前 7時30分 朝食
午前 9時00分 城山館をマイクロバスで出発、現地視察へ。
1、牛首の芋井谷城跡(内ケ島家の砦跡と伝えられる)
2、保木脇の試掘現場視察
3、観音像広場で帰雲山<1622m>遠望・周辺視察
午後12時頃 お弁当で昼食後、自由時間
午後 2時00分 現地解散・JR岐阜駅行マイクロバス出発
午後 6時頃 JR岐阜駅到着
1990年平成2年5月20日(日)考える会は9:00~芋井谷城跡(白川村牛首)見学、他。
1990年平成2年9月1日発行、ひだ白川・帰雲城を考える会会報№10より下記。
「現地総会に全国から24人参加!楽しかったバス視察、交流ふかめる」<←紙面下に集合写真があり見る
と年齢層は60歳以上がほとんどだ>、「去る5月19日と20日の2日間「考える会」の現地総会が、白川
村で行われ、全国各地から会員24名が参加しましたが、(略)「今回は、それに加えて、村のあちこちを
バスで視察できて、とても楽しいツアー(?)でした」というような声が届いています。そこで、今回の会報
では、2日間にわたった現地視察交流総会ツアーのもようを、JR岐阜駅を白川村提供のマイクロバスで出発
した高橋幹事が、名紀行文にまとめて下さいましたので、高橋レポートしてお届け致します。(以上、神田
幹事記)」、「特別寄稿・高橋レポート、帰雲城を求めてロマンの旅は続く、5月19日、午前11時過ぎ、
JR岐阜駅を出発したバスは、時折横なぐりに激しく降りつける雨のなか、一路白川郷へと向かった。しかし、
美濃の連山は厚い雨雲がたれこめ、時々、山々を白く染めて雨が通り過ぎていった。(略)バスには会長の
黒沢さん、研壁さん、市村さんと家族2名、角*さん、熊*さん、武*さん、高橋の9名が乗っていた。(略)
集合場所である大野さん宅へ午後3時に到着した。大野さん宅では高島教育長や、別ルートで来られた会員
の方々も待っておられ、故大野**さんの御仏前にお参りし、3時半に全員バスで大窪沼に向かった。(略)
嘉念坊道場を見学して、荻町城跡へゆく。バスを降りると直ぐ展望台があって、そこへ行くと別ルートで
来られた<会員に郵送したスケジュール表のおかげか>ハインツ・H・アルバさんがカメラを片手に私達を
待っていた。展望台からは夕日に照らされた、荻町の合掌集落や残雪の白山の眺めが素晴らしく(略)
5月20日午前9時、全員バスに乗り内ケ嶋の砦あとと伝えられる、牛首の芋井谷城に向け出発した。<地元
では芋井谷城跡の凡その位置を知っている>(略)「帰雲城」の<白川村が重機による調査した>発掘現場へ
の道は<調査会が保木脇上段山道と呼んでいる道>舗装もされていない凹凸の道である。その道をバスでガタ
ガタしばらく走ると発掘現場に着いた。直径30メートルぐらい、穴が深さ10メートルまで掘り下げられて
いる。<←この穴はわたし野田事務局でも知らなかったので、会報に記載してある貴重な証言データー>(略)
本来こんな所にある筈がない大きな川原石がでてきた。(略)この先に東京の小林会員は、5年程前から
「帰雲城」の<スコップ手掘り>発掘をしている所があるそうで、小林会員に案内をお願いして見学すること
にした。(略)やがて道をそれ、草の中を少し歩くと、小林会員の掘った手掘り発掘現場に着いた。そこには
直径1,5メートル程の穴が、2メートルぐらいまで掘り下げてあった。1年に1回か2回ここを訪れて、
こつこつと掘っているそうだ。たかが2メートル程の穴だが、ここまで掘るのに5年という歳月がかかって
いる。穴の縁にある石には、青いこけが生えていて5年の歳月を物語っていた。(略)「帰雲城」観音広場、
ここが今回の旅の執着である。(略)昼食をとった。5月の空はあくまで青く晴れ渡り、帰雲山<1622m>
をめぐる山々の緑を爽やかな5月の風が吹きぬけていた。総会と2日間にわたる白川郷の旅はここに終わるが、
私達の幻の城「帰雲城」を求めてのロマンはこれからも続く。ロマンはロマンとしてこれからの「帰雲城を
考える会」は。是非とも事実の解明をしてゆきたい。最後に黒沢会長はこう語っていた。「帰雲城の解明、
これにはまだまだ長い時間が掛かると思います。しかし、いつの日にか、幻の城「帰雲城」も解明される日が
来ると思います。それまで解明に向けて力一杯努力して行きましょう」おわり。」、
「会へ祝儀あり、保木脇住人よりお酒2升。城山館よりビール1ダース」<←何か懐かしくもあり良き昭和
を思い出します>、
ひだ白川・帰雲城を考える会総会
1 開会の挨拶 黒沢会長
2 来賓の挨拶 白川村和田村長
3 祝電披露 岐阜県梶原知事「御盛会を祝し貴会の益々のご発展と皆様方のご健勝をお祈りします」
佐々***<佐々氏の奥様?ご家族?>「ご発展をお祈りします」
神田幹事「(天正の地震に埋もれ幻の城を求めて白川郷)どぶろく飲めず残念、御盛会
を祈ります」
4出席者自己紹介 <←自己紹介は会の伝統ですね>
5白川村の現状報告 白川村高島教育長
6会員研究発表
7検討テーマ
(1)会名と会旗について
正式には「白川郷・帰雲城を考える会」として通称は「帰雲城の会」とする。
会旗については作ることに決まりました。会旗のデザインは内ケ嶋の紋章と合わせたようなのでは
といった意見が出ましたが、デザインについてはもっと会員の意見を聞くということになりました。
(2)帰雲城関連整備の要望について
白川村には要望を説明しておきました。前向きに対処して頂けると思います。
(3)帰雲城民話発行プランについて
もう少し検討することにし保留と決まりました。
(4)その他
白川村に「合掌集落保存基金」というものが設けられていますので、会の予算から出してはどうか
と、黒沢会長から提案があり、全員賛成で「合掌集落保存基金」を会の予算から出すことに決まり
ました。
「夢とロマンの番組「埋もれた城」の名ディレクター(考える会会員)和田**さん逝く」
考える会の第2回目の現地調査と言える
1991年平成3年4月27日(土)14:30~この日の調査場所会報に記載なし不明。4月28日(日)
8:00~考える会は庄川右岸城跡石垣跡らしき調査実施、(白川村大牧)「林春樹先生:石垣ではない」
1992年平成4年1月5日発行、白川郷帰雲城を考える会会報№12より下記。
「林先生の現地調査に22名参加、さて、昨年4月27~28日に行われた林先生の「帰雲城の現地調査」
には22名の参加者があり、ありがとうございました。また、林先生にはどうもご苦労様でした。2日目は
以前見つかった庄川右岸(白川村大牧)の城の石垣跡ではないかと言われているところを林先生に見ていただ
きましたが、結果は城跡ではないということでした。(略)また、小林会員の掘っている立て穴も地理的に
見て間違いない場所であるそうです」、「佐々木幹事から帰雲城に関する文献や資料を集めた本を作ってはどう
かと提案がありました。役員で話し合った結果、帰雲城に関する文献などの外に、今までに新聞や雑誌に載った帰雲城の記事なども集めた帰雲城の本を作ろうということになりました。細部は次回の総会に図りたいと考えて
います」、「昨年、日本列島を襲った台風19号は白川村にも甚大な被害をあたえ、特に合掌造りの屋根の
被害がひどいそうです。会として30,000円を見舞い金として白川村え送りました」
1992年平成4年4月26日発行、白川郷帰雲城を考える会会報№13より下記。
白川郷・帰雲城を考える会第5回総会と土田城跡、明智城跡探訪の案内
日時、 平成4年5月30日~31日(1泊2日)
集合場所、 岐阜県可児市土田日本歴史館前
集合時間、 午後1時
宿泊場所、 可児市広見 鈴川旅館℡***
会費、 10,000円
日程5/30 土田城跡探訪~ユトリピアの会議室(総会3時~5時)~旅館(懇親会)6時30分~)
5/31 明智城跡探訪~兼山城跡探訪~可児郷土歴史館~木曽古文書館~豊蔵資料館~(昼食)~
電車で帰られる方は新可児駅で解散、車の方は日本歴史館前で解散、
日帰りの方、1泊される方、いずれかハガキに明記してお送りください。
今回は、総会を兼ねて信長関係の可児市郡の中世の山城跡を見学していただく計画をしています。若葉の下
しばし興亡の激しかった戦国の世を忍んで下さい。今まで、白川村で帰雲城の<白川村による>試掘を行った
場所と別な所での、帰雲城の調査を「白川郷・帰雲城を考える会」で行う重要な案件がありますので、公私共に
お忙しい中だと思いますが大勢の参加をお願いします。
1992年平成4年5月30日、考える会は13:00~土田城跡探訪、5月31日明智城跡探訪した、他。
1992年平成4年9月13日発行、白川郷帰雲城を考える会会報№14より下記。
「5月30日~31日の「白川郷・帰雲城を考える会」総会に参加された皆さんはどうも御苦労様でした。今
回の総会は懇親会とは別な時間に行いましたので、少ない時間でしたが膝突き合わせての時間を忘れる程熱の
入った真剣な討論ができたと思います」、「総会のまとめ報告書を安達先生<会員>にお願いしましたところ
立派な報告書ができました。また、会員の佐々木さんからも投稿がありましたので、この会報に載せました。総
会の詳しいことは安達先生の文章を読んで下さい。ここでは、要点だけを載せます」、
1、黒沢会長の古地図の調査の結果「帰雲山」は庄川の左岸<保木脇>にあったのではないか。今、私達が
言っている庄川右岸の崩壊した「帰雲山」<1622m、白川村木谷>は間違いではないか?
2、一度そこを調査する必要がある。<のちに仮称帰雲台地1402mと呼ぶ場所、田口プラントの西の山>
3、現地までは三方崩山の方へ険しい山道を2~3時間登らなければならない。(そんな高いところに城と
城下町あったのか疑問点もありますが、それは現地え行ってみなければ分からないことです)<←会の
もっとうは「現地を歩いてとにかくこの目で見ること」なのです>
4、この秋に予備調査をして来春に現地調査することに決まりました。
「日本歴史館見学」、「1.新たな場所での帰雲城の調査、(略)「帰雲山」<1622m>が記入された
<地図>根拠について国土地理院の担当部署(富山出張所)に問い合わせたが、はっきりした根拠がないと
いう。<←現地調査している調査会員は当然知っていることで、わたしの知る限り、地元の人に聞いて地図に
帰雲山(1622m)の山名になったと聞いたが、この件の事実関係をもう一度調べる必要はある>私達は
庄川右岸の山を「帰雲山」<1622m>としてきたが、本当の「帰雲山」は庄川左岸保木脇地内にある
「皈雲山」ではないかというショッキングな話をされた。<←誰が?>」、「なお、正保元年(1644)の
絵図(提示資料4)に「保木脇」の地名が載っており、天正大地震(1586)から50年余で村落が復興
したと推定される。今年の秋に「皈雲山」<1402m>の予備調査をし、予備調査の見通しがよければ、
来年3月下旬(27~28日頃)一般参加による「皈雲山」城跡探査会を催したらどうかという提案をされ
た。白川村の谷口教育長は村としても後援すると言われた。しかし、あとで、これまでの帰雲山と全然異なる
場所であること、「皈雲山」は急傾斜で一般の人にはハードであること、等の理由で村としては後援できない
と訂正された」、「帰雲城関係の資料等を網羅した冊子を作成すること」、「懇親会」、「土田城跡探訪、中程
にチェーンを引っ張って登る岩場もあり、まるで登山であった。80歳代の田口<会員>さんが元気に登って
行かれるので」、「金山城跡探訪」、金山城資料館見学」、「可児郷土歴史館見学」、「昼食会、解散」、
<ここでかえりくもの地名・山名のおさらいを西から順に東へ。
皈雲山1897m→返り雲山(小字名であって山名ではない)→帰雲川原→崩壊面木谷字帰雲→帰雲山1622m>
「幻の城、帰雲城を求めて佐々木会員記、(略)その後、調査の折に気になることがあったので村上さんを
誘い帰雲山の位置の確認のため再三白川村をたずねた。「白川村の**寺和尚曰く「みんなが帰雲山<16
22m>といっている保木脇<正しくは木谷地区>の崩れた山<中腹崩落面>は帰雲山ではない」と話の中に
聞くことが出来2人は顔を見合わせた。他にも帰雲山と呼ぶ山があるんだ。<皈雲山<1897m、庄川左岸
保木脇字弓ケ洞>の古地図を入手した記載あり>」、
「帰雲城の現地調査は1年を通じてオールシーズンできると良いのですが(略)この頃の山中は草や蔦(つ
た)に覆われていてとても中には入れません。また沢すじにはマムシも沢山いるそうです。いずれにしても
夏と冬の雪のあるときは城跡の調査はできません」、
帰雲城の予備調査の目的
1、皈雲山えの登り口の確認
2、登山道の状態の確認
3、出来れば現地近くまで登り危険箇所の確認
4、その他
「以上の理由で来春の本調査の前に予備調査を行う予定をしていましたが、9月6日に電話で黒沢会長とその
旨のお話しをしたしたところ黒沢会長のお話しでは、これから調査する皈雲山の現地までは雑木林の中を長時間
歩かなければならないが、ものの本に書いてあるようなきつい登りではなく、女性でも行けるところです、
ですから、予備調査しなくても大丈夫です、心配ありませんとのことでした。従って、予備調査なしで来春の
本調査に入ります」
1993年平成5年3月7日発行、白川郷・帰雲城を考える会会報№15より下記。
「さて、先般お葉書で連絡しましたが、2月6日の幹事会で、埋没「帰雲城」の調査の日程が決まりました」
埋没「帰雲城」の調査計画
主催、 白川郷「埋没帰雲城」調査会(白川郷・帰雲城を考える会)改名
後援、 白川村教育委員会
日時、 4月29日~4月30日、5月1日解散<2泊3日の予定か>
参加資格、 会員、家族及び友人、一般参加者
会費<費用> 16000円、8000×2泊
集合場所、 白川村荻町 城山館
集合時間、 午後3時
日程
4月29日 平成5年度総会を城山館大広間で午後3時から行います。総会が終わり次第、30日の「帰雲
城」調査の詳しい説明等打ち合わせ会及び懇親会を行います。
4月30日 城山館午前6時30分頃出発~調査地点までの登山7:30分~10時、現地調査10時~
15時頃まで、15時30分下山開始、17時30分頃下山、18:30頃城山館着、調査
報告会、
5月1日 午前中、解散、
個人の持ち物、水筒、軍手、健康保険証、登山に適した帽子、雨具、筆記用具、遺物品入小袋、休憩用敷物、
服装、登山のできる服装、シャツはできるだけ長袖がよい、ズボンはニッカズボンがよいが
ジーパン、作業ズボンでもよい、上下スーツ姿はだめ。
参加申し込みは、同封の葉書を使用して4月10日までにお申し込み下さい。
「白川郷・帰雲城を考える会」は、今回の調査決行に依り、マスコミ対策等もありました為、緊急幹事会に
於いて「白川郷埋没帰雲城調査会」と改名を決定致しました。来る4月29日の総会にて最終決定させていた
だきますが、ご了承の程お願い致します。決行につきましては、当初は5月の連休を予定致したのですが、こ
のゴールデンウィークは、すでに多くの方が計画を決めておられるであろうとの判断から、敢えて平日を含め
た日程と致しました。ご了承下さい」、「会員の皆さんへ、会長黒沢、(略)この度、「埋没帰雲城調査会」
(考える会、改め)が、白川村教育委員会谷口教育長の後援に依り、調査を決行致します場所は、私が昭和
49年、国立公文書館、国会図書館、国土地理院等より入手した資料に基ずく、国道平瀬~木谷より保木脇の
西、林道へ入り<58鉄塔南砂防堤辺りのことか>渓流に沿って、山ひとつ隔てた、<皈>雲山及びその周辺
であります。(皈雲山<1897m>のことは、昭和61年1986年5月号、歴史読本の随筆欄に記載済み
です)」、「参考地図を同封します。三方崩山の下に1405メートルのピークと1369メートルのピーク
とに挟まれたピーク(〇印し)があります。山頂は自然でできたのか人工的なものかは分かりませんが200
メートル程の平坦地になっているそうです。帰雲城の調査はこの山の山頂から<のちの仮称帰雲台地140
2m>山腹にかけた広範囲の地域で行う予定です。いずれにしても保木脇から沢<弓ケ洞谷>を標高差800
メートルばかり登ったところです。何か遺物か物的証拠を発見できるように頑張りましょう」
考える会の現地調査を振り返る(随時追記更新)
考える会会報や会員に当時のことを以前聞いていたことは、発足してまずは保木脇現地見学や、庄川右岸
山麓を調査していました。発足したばかりの当時の考える会なので何を根拠に、何を目標にして現地調査する
のか模索していたようで定まった保木脇現地調査場所はなかったようです。まずは、会員同士の交流を深める
他地域の城跡見学のツアーをしていました。このツアーで城跡遺構本物リアルを見て勉強していました。
考える会は、①帰雲城のロマンの趣味に集まった人達、②帰雲城を真面目に調査研究しようと集まった人達、
③帰雲城の黄金伝説に興味があったから集まった人達。(←黄金目当だった人達は会費未納で数年後去って
ゆきます)考える会は帰雲城のロマンを相当熱く語り、史料をにらめお城の位置を探っていました。
2026年現在、会があるのは先人会員の調査研究した1段目、2段目、3段目の礎(いしづえ)があった
からこそ、現在に至っているのである。
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1993年平成5年4月1日、考える会から「白川郷埋没帰雲城調査会」に改称(黒沢会長)
調査会になってから初第1回目の現地調査雨天決行
(この場所の第1回目) のちに呼ぶ仮称1402m帰雲台地
1993年平成5年4月30日、帰雲城調査会、現地調査、雨天中止したが皆さんの要望で城山館6:30
頃報道陣含め50人出発して保木脇設営本部テントにて皆さんの強い要望で調査雨天決行した。<現地調査場所
はのちに会で呼ぶ仮称帰雲台地1402mで、考える会の会報では調査場所を毎回記載せず報道陣取材対応に
敏感になっている会報文面もあることから調査前日夜に会員へ調査場所を発表していた>
↑会報に情報のない内容を新聞記事から補足、1993年平成5年5月1日(土)、岐阜新聞記事「幻の
帰雲城か、黄金と埋没の伝説、城門と城壁の一部?発見白川村、山中から石や木片、歴史ロマン鑑定結果は
いかに」、「(前略)<現地調査した場所に関してとにかく不明なので位置情報に関すのを取り上げる>石は
同地区の国道156号線から西へ350メートル入った山中に幅約80メートル、長さ約50メートルにわた
って点在していた。同会は「村と相談し、城に使われていた物かどうかを確認するため、鑑定調査を専門家に
依頼する」と話しており、調査メンバーらの期待を集めている」
1993年平成5年5月1日、中日新聞記事「確実資料得られず、帰雲城現地調査を開始、白川村」、
「(前略)参加者らは午前8時30分ごろ、同村保木脇地内に設営した<テント>本部から5班に分かれて
出発。あいにくの雨の中、標高800~1000メートル付近からふもとまでの一帯約75ヘクタールを歩き
回り、地表を注意深く見守りながら、時折スコップで掘るなどして手掛かりを探した。城郭の一部ではないか
と木の破片や石なども持ち帰ったが、確実な裏付け資料は得られなかった」
1993年平成5年5月1日、朝日新聞記事「幻の帰雲城あった、岐阜白川村石や木片発見さて・・・」、
「(前略)調査の結果、石や木片が見つかった。決め手にはならないが、会員らは「城は伝説ではなたった」
と大喜びだった。(略)今回の調査は、庄川の左岸<保木脇>を中心に行われた」
1993年平成5年5月3日、朝日新聞記事「帰雲城、石発見ふくらむロマン、否定されてもいや測定を、
来年もまた熱気ますます、帰雲城発掘調査同行記<平*記者>」、「発掘調査に同行した。降りしきる雨の中、
記者もスコップを手に「帰雲山」に登った。(略)いざ発掘。30日、目をさますと大粒の雨。午前8時に旅館
を出発、みんなかっぱを着て、タオルを頭に巻き、ひるむところではない。班の1つについていくことにした。
ロープにつかまり、がけをよじ登った。かわらや変わった形の石は落ちていないか。会員たちは真剣なまなざ
しで、地面をじっと見つめる。「大きな穴だ。井戸じゃないか」という声。直径、深さとも1メートルほどの
穴があり、周りには小さな石が積み上げてあった。<←この2点の情報から、わたしも後にこの2点の場所
の現地調査で2点を確認していることから、のちの「仮称3つの丸円」(栗の古木の場所とも当時呼んでいた)
を5班体制の1班が調査していたことが分かった。炭焼き場(窯跡)の記載もあることから、仮称カエル池の
西の窯跡と思われる。正確な情報量のこの記事を書いた平*女性記者にお礼申しあげます>(略)みんなこども
のような無邪気な目をしていた。泥にまみれて石を掘り出しているうちに、私も「帰雲城は、ここにあったの
だろう」という気がしてきた。目に見えなくても、信じる。その力が、いつか城の発見につながってほしい」
1993年平成5年5月30日、中日新聞記事「幻の帰雲城晴れぬナゾ、確証なしにも募るロマン、8年ぶり
の調査新発見得られず、黄金伝説秘め400年、岐阜白川郷」、「白川郷埋没帰雲城調査会が4月末、現地
調査に訪れた。(略)村は昭和61年ごろ、引き続いて<帰雲城重機を使った地質試掘>調査費を予算化しよ
うとしたが、村議会で「歴史ロマンはロマンとしてそのまま残すべきだ。無理に調査して追求しなくても・・
・」などの声が高まり、費用負担の大きいこともあって調査は打ち切られた。(略)当日は会員のほか一般
公募に応じた人々ら約50人が参加、雨が降ったり、やんだりする悪天候の中、人海作戦で斜面一帯を歩き
回った。いずれも地表を注意深く観察しながら手掛かりを求めたが、新しい発見は得られなかった。調査会の
会員でもある高島収入役は「調査には数千万円の費用がかかる。現段階では、とてもそこまでの予算は・・・」
といい、村として再調査に乗り出す可能性は当面、なさそうです。帰雲城は今後も、ロマンを秘めたまま、
人々の夢をかきたててくれそうだ」
1993年平成5年7月4日発行、白川郷埋没帰雲城調査会会報№16から下記。
「高橋事務局記、平成5年度総会、平成5年度総会は、4月29日午後3時から白川村荻町の城山館2階
大広間で会員と一般の参加者それに、白川村役場から来賓として高島収入役、谷口教育長をお迎えして、総勢
50名余りの参加者をえて行われました。黒沢会長の挨拶と来賓の高島収入役の挨拶に続き、高橋事務局から
平成4年度の会計報告がありました。拍手で承認されました。議案として黒沢会長から2月の役員会議の席で
「白川郷・帰雲城を考える会」から「白川郷埋没帰雲城調査会」と名称変更の提案がありましたので、当総会
に図り平成5年4月1日から名称変更ということで黒沢会長の案が了承されました」、「30日の帰雲城調査
の打ち合わせ会に入りました。(略)体力に応じて、調査地域をローラー作戦で地表の目視調査をすることに
なりました。(略)5地区に線引きして頂き各自の体力を考慮して、本人の調査希望場所で班分けしました。
その他、特別班として、山頂の台地を目指す台地班を作りました。各班で班長と無線通信係をきめ、班ごと
に集まり明日の調査の打ち合わせ等を練りました。天気予報では明日5月30日は、曇り時々晴れと言う予報
でした。
5月30日の朝早く起きて今日の天気はと空を見上げると、明るい空に灰色の雨雲がどんどんと山を越えて
湧き上がっていて、今にも雨が降りそうな様子であった。やがて細かい雨が降り出した、しばらくしてその雨は
本降りの雨えと変わっていった。(略)黒沢会長と相談して、残念だけれどもこれだけ雨が降っていては危険
だから今回の調査は中止ということにしましょう。と話が決まりました。朝食のとき、参加者全員今回の帰雲城
の調査は残念ですが雨で中止にしますと伝えました。すると、皆さんから、遅く出発してもよいからもう少し
様子を見ましょう。という意見や、少々の雨なら危険の無い範囲で調査をしたら、という意見やとにかく<保木
脇設営テント>本部まで出掛けて様子を見ようという意見が出ました。(略)そうした皆さんの意欲に押され
て、雨降る中を白川村のマイクロバスやマイカーを乗り合わせて、保木脇の田口会員のテント<設営テント、
のちの帰雲城趾石碑のある場所、白川村保木脇字帰雲川原標高約593m>が張ってある本部えと向かっ
た。」、「調査のご報告、黒沢会長記、去る4月30日、白川郷埋没帰雲城調査会の調査に参加されました
皆さん、ご苦労様でした。当日は相憎の雨となりました為、残念乍ら登山は危険と判断し、現地本部<設営
テント>にて中止の旨を発表するつもりでしたが<役員と会長の判断は冷静で正しかった>報道陣を含めて
50人から成る皆さんの決行えの意欲、情熱は押さえ難く、感激致しました私は無事を祈り、調査開始を決断
致しました。しかし、雨足は依然激しく、調査は結局午前中のみの、慌ただしい中で、中止の止むなきことと
相成りましたが、先ずは全員事故なく終わり、何よりでありました。この度は、確かなる遺物の発見は得られ
ませんでしたが、皆さん個々には、恐らく何かしらの感触を得られたことと思いますので、それなりの意義は
充分あったものと思います。乱世の戦国時代、飛騨白川郷に雄飛し、無念の内に散った帰雲城主内ケ島氏理と、
その一党とは果たしてどの様な武士達であったろうか。歴史発見のロマンはつきません。この度の調査にあた
り、格別なるご配慮賜りました白川村教育委員会、及び<設営テント、つくえ、いす、お茶をご厚意により
用意頂けた→>田口会員と、ご一族皆様のご協力に対し、心より御礼を申し上げます。ありがとうございまし
た」
1993年平成5年9月5日(日)帰雲城調査会、安土城見学会、ほか見学予定。<開催したか未確認>
1993年平成5年10月17日、調査会、向牧戸城とどぶろく祭り<見学>予定。<開催したか未確認>
1994年平成6年4月1日発行、白川郷埋没帰雲城調査会会報№18(会報№17で重複あり、№18に
訂正必要)より下記。
「昨年は相憎の降雨で、事実上調査は不能でした。(略)今年の現地調査には、ボーリング、井戸掘り法等も
検討しましたが、その前に先ず地点の特定が必要でありますので、そのことも踏まえて、皈雲山<←正確には
無名山頂部1402mで、のちに調査会が呼ぶ仮称帰雲台地1402mのことです。上段田口プラントの西の
山です>を中心に、その周辺を調査致したく思います。或いは幸運な発見があるやもしれません」
1994年平成6年5月4日~5月6日、調査会、調査か見学会か不明<情報手元になく不明>
1995年平成7年3月19日発行、白川郷埋没帰雲城調査会会報№19より下記。
「機械掘りは100万円単位の資金を必要としますから、少なくても今回は出来ませんが(略)何れにしま
しても、今回は議論は一先ず置き、積極果敢には<スコップ手掘り>発掘を進めることの他、まぼろしの城発見
えの道はなきものと思います」
第3回埋没帰雲城現地調査
主催、 白川郷埋没帰雲城調査会
後援、 白川村教育委員会
日時、 平成7年4月30日~5月2日、但し現地調査は5月1日のみ
参加費、 4月30日と5月1日の2泊の方 20000円
4月30日に1泊して調査後かられる方 10000円
5月1日に現地着で1泊の方 10000円
5月1日現地着日帰りの方 1000円
集合場所と時間、 白川村荻町 城山館に4月30日午後4時集合
5月1日に現地着の方は白川村保木脇「帰雲城」観音様前8時30分集合
参加、不参加は同封の葉書で4月15日までに連絡下さい。
「今回の調査は、帰雲山<1622m>の大崩壊で堆積したといわれている所の地表の目視による表面調査
と、大崩壊の荒々しい山肌を今も止めている帰雲山<1622m>の調査登山を計画しています」、「
1995年平成7年4月30日、調査会、帰雲山1622m登山現地調査<情報手元になく不明>
調査会になってから第2回目の現地調査
(この場所の第2回目) 仮称帰雲台地1402m現地調査
1996年平成8年4月28日、調査会、仮称帰雲台地1402m現地調査実施、新聞記者3名含む計20
名参加。会報より「残雪深く登山無理と反対を押し切り9:00出発、傾斜43度、<最短ルートを選んだ
ようだ。しかし雑木を歩くより雪上を歩く方が楽だったと10年後ぐらいに佐々木副会長からわたしは聞いた>
積雪約2mの登山に挑み約2時間、苦闘の末見事踏破、航空写真どうり山頂<1402m>(積雪3m)の
平地に9名到達する。約90m×300mの広大な平地」
調査会によるこんどは本格的な手掘り試掘調査の初回
1997年平成9年5月17日、調査会、仮称帰雲台地1402m現地調査実施、調査会初手掘り試掘調査
実施、本部詰5名、先発隊7名、後発隊新聞記者3名<内1名朝日新聞平*記者>含む計10名。会報22から
「昨年とは違うコースをとり道なき道を悪戦苦闘の末台地<仮称1402m帰雲台地>に到達し台地を再確認、
(中略)手掘り試掘をする)深さ50センチで赤土となり」
5月16日、<会合、総会、会議>現地調査方法の打ち合わせ。
5月17日、現地調査、夜調査結果報告、<ツルハシ・スコップを持ち登山している熱意>
5月18日、解散、
1997年平成9年9月15日発行、白川郷埋没帰雲城調査会会報№22より下記。
「5月17日の<仮称帰雲台地1402m、登山開始時間は9:40>調査では、台地までの道程は決して
たやすいとは思えない。(略)安全第一と地図で傾斜のなだらかなルートをひろって<←時間はかかるがなぜ
最初から尾根道を進まないのだろうか>(略)エンジンの付いた草刈り機をここで分解して、それぞれ分担
してもって登ることになった。(略)1150メートルの地点「昼食」と云う声が掛かる。(略)やっとの
思いで台地に続く尾根道にたどり着いた。時間はすでに1時を回っている。(略)それからさらに、急斜面を
30メートル程登ってやっと目的の台地<1402m>にとどり着いた。時間はもう1時40分を指して
いた。実に登るだけで4時間も費やしたことになる。やっと登って来た台地は思ってた景観とはかなり違って
いた。昨年は3メートルにも及ぶ雪の上に立っての眺めで、遮るのもなく下界まで見渡せた。今は雑木などで
下界の景色は全く見えない。だが幸いなことに台地には気に掛かっていた根曲がり竹らしきものはほとんど
生えていなかった。この上は何か出て来ればと期待に胸が膨らんだ。時間がない、さっそく3地点を定めて
<スコップ手掘り>試掘にかかった。(略)試掘の結果は上15センチが腐葉土、その下20センチ程が
赤土の粘土質で以下は、ずうっと砂を含んだやや赤みがかった土だった。一応写真を撮って埋め戻した。せっ
かくなので台地の反対側迄行ってみようとゆう事になり、枝を払ってもらうと、そこからは未だ残雪ある三方
崩山の峰々が眼の前に聳えていた。息をのむ程の美しさである。来てよかったとしみじみ思った。(略)<下山
開始時間記載なし>、<朝日新聞平*記者よりお礼文あり>」
調査会による手掘り試掘調査の2回目
1998年平成10年6月6日、調査会、仮称帰雲台地1402m現地調査実施、手掘り試掘調査、8:30
登山開始、11名、<会報でこの時初めて「仮称帰雲台地」と命名した>
1998年平成10年7月23日発行、調査会会報№24より、「<1402mという高所では>帰雲台地
での調査に対する疑問の見解が一部会員にありますことは万般承知の上での行動です」、仮称帰雲台地を調査
参加した会員の考察文8作品あり。
1999年平成11年5月<5月は誤字で6月が正解>19日、調査会、仮称帰雲台地1402m現地調査
実施。
1999年平成11年11月20日、白川郷文化フォーラム'99開催、主催白川郷文化フォーラム'99
実行委員会「内ヶ島氏と中世白川郷」開催された。<←わたしは参加しました。閉会してこの後、帰雲城調査会
の会議が2階であるので興味ある人は参加して下さい、との声にわたしは参加しました>
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帰雲城調査会から初めて通知がきた
2000年平成12年6月10日(土)、白川郷埋没帰雲城調査会、会合、総会、懇親会開催、城山館宿泊
わたしはこの時、初めて帰雲城調査会の開催行事に参加して帰雲城のロマンを語る皆さんの情熱の熱さの
趣味に、これはおもしろいと感じてすぐに年会費を払い野田会員になった。
<ここで、当時のメモ記録を探すがない。やはり埋もれてしまっている、1999年フォーラム資料の中を
見ると、なんと当日の資料があったので書きます。会員名簿登録者63名、当日参加予定者24名(当日欠席
者もあったかもしれない。参加者(予定)名簿人数ではなくわたしが当日メモした人数を示す)「野田:夕方
宿に入り、大広間(夕食会場)手前の二間続きの座敷部屋で会合があった。(後に知る新会員数名もいた)
皆さんわいわいがやがや賑わしいので聞いていると帰雲城の熱い思いをもうバトルしていた。わたしはこういう
席は初参加なので大人しくしていた。右前奥ではなにやら打ち合わせをしている役員?(のちに知る佐々木
副会長、TD幹事、高橋事務局)調査会の重鎮のようだ。会からあいさつ、各自自己紹介、明日の現地調査
場所説明。場所は大広間に移動し、夕食親睦会、数えると19人だ。わたしは会役員にお話しをしたかったが
あまりの迫力に声をかけられずじっと食べていただけだった。それでも皆さんの帰雲城ロマンを熱く語る情熱
の夕食会場のにぎわいの熱気を今でも鮮明に記憶している。(白川村村長代理、田口建設会長参加)>
(仮称帰雲台地調査)仮称3つの丸円 に初めて入る調査
2000年平成12年6月11日(日)、調査会、現地調査実施、帰雲城趾前、本部4名、設営テントあり。
仮称帰雲台地1402m調査班9名、7:00出発、15:30下山開始。弓ケ洞谷周辺一帯調査班7名、
<のちの仮称3つの丸円(保木脇字返り雲山、標高約663m)と呼ぶ場所>8:00出発、
2000年平成12年10月15日発行調査会会報№27、仮称帰雲台地1402m調査と弓ケ洞谷周辺
一帯<のちの仮称3つの丸円>調査した会員の考察文5作品あり。
仮称カエル池 に初めて入る調査
2001年平成13年6月17日、調査会、現地調査、仮称3つの丸円場所調査、平板測量実施。
堂ノ上調査<のちの仮称カエル池(保木脇字堂ノ上、標高約601m)と呼ぶ場所>
仮称4つの窯跡一帯に初めて入る調査
2002年平成14年5月19日、調査会、保木脇弓ケ洞谷から北山腹仮称4つの窯跡一帯(保木脇字返り
雲山、標高約691m)現地調査実施。
平瀬地区での調査
2003年平成15年6月15日(日)、調査会、現地調査11名、弓ケ洞谷下流南の山(白川村平瀬)
調査実施、仮称カエル池調査実施、(保木脇字堂ノ上)
調査会の現地調査を振り返る(随時追記更新)
調査会になってから、のちに呼ぶ仮称帰雲台地1402mを計5回調査しました。15:00頃下山開始も
あったようですがこれにはさすがに疑問を感じた。下山は弓ケ洞谷方面の林道に下りるはずですから深い谷間
で夕方は山陰になり相当暗いはずで、当時の情熱も理解はできますが、情熱より安全第一のはず。さて、スコップによる手掘り試掘調査は土質確認を会報の記録に残しているのはとてもいいことです。5回の調査をして
遺構は確認できず、この仮称帰雲台地1402mの場所調査に関して会員方から疑問の声が上がっていたと
後にわたしは聞きました。城跡を見つけられなかったのは残念ですが、調査は無駄だったのではなく、調査
しなければ何も結果(あった、無かった)は分からないので調査して「何もなかったという結果を得られた
ことはとても良いことです」長年調査している方だと理解できると思いますが、帰雲城の位置を推定するまで
には20年~30年、いや40年~50年かかるかもしれないのである。
ところで、仮称帰雲台地1402mに仮に何かあったとした場合の仮説は、
1、山岳修験者の信仰場所(人工石積み)、
2、帰雲城主内嶋氏が超高所に山城を築こうとして意味なしとすぐ止めてしまった遺構(曲輪、削平地)
その後、調査会では場所を決めずにあちらこちらの場所を調査したいという会員から要望の多かったことを
受け調査場所は1ヶ所にこだわらず会員の調査したい場所を聞き、2000年6月11日からは仮称帰雲台地
1402m班を含む他の場所班<仮称3つの丸円>の同時調査を行い始めたのでした。その後は、庄川右岸の
木谷地区、大牧地区の調査や、シッタカ谷北の旧保木脇集落山側の3軒跡や旧白山神社跡(保木脇字若林)を
調査したり、弓ケ洞谷南の山(白川村平瀬)を調査したりと場所にこだわらず「とにかく現地を歩いてこの目
で見る」という調査をしたのでした。さて、初めて未知の場所を調べたのは本当わくわくしながら、そして
楽しくて仕方ない現地調査に参加しました。(←は特定の場所のみを調査する明確な根拠はまだ見つかって
いないとも言える)
ところで、地名も1つの根拠になることから、字返り雲山にある「仮称3つの丸円」や、堂ノ上(お寺、
神聖な場所、祠という意味)にある「仮称カエル池」も現地調査したのでした。
さて、先人(松古研究者)の残した記録に水源地(水場)と記してあったことから、水場=生活水→帰雲城主
内嶋氏も飲んでいた保木脇の水源地はどこ?って飲んでいた場所は帰雲城の位置の根拠の1つになることから
知りたいと思ったので2016年から保木脇に水源地は何ヶ所あるのか調査を始めたのでした。
そういえば、逆に調査していなかった場所は埋まった場所の上段田口プラントから北を調査したという会の
話しや記録は見出していなかったので、埋まった場所の地面を探しても何もないというのを、逆転の発想で
埋まったという証拠は地面に何かあるのか?→角ばった大きな岩(角礫、流紋岩類)を調査して探すことに
より証拠の1つになると気づいたことから2025年から田口プラント北の調査を始めたのである。
田口プラント北を10年ほど前から現地調査を実施し始めました。こうやって、1つ1つの場所の現地調査
をしていくことで、知見による知識が高まっていくのでした。
先人の伝統を引き継ぎ、調査会は1段ずつ高みを目指している。
<上記、会報を精査しながらPCに打っていたら丸4日間かかってしまった>
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おぼえがき
「帰雲城に関する重機を使った地質試掘調査」
白川村による重機を使った第1回目の試掘地質調査
1985年昭和60年5月、白川村の要請で金沢大学地質学部絈野義夫教授らが学術地質調査をおこなう。
庄川西2カ所<トレンチ1(保木脇字後平)、トレンチ2保木脇字帰雲川原>でユンボ(重機)によるトレ
ンチ(試掘)調査を実施した。
白川村による重機を使った第2回目の試掘地質調査
1988年昭和63年7月9日(土)~7月10日(日)、3年ぶりの重機による(白川村教育委員会)
地質調査実施<保木脇上段>トレンチ1跡の北50m(約80mとも会報に記載あり)地点を調査実施。深さ
約10m掘削した。深さ約5mから木の根っこのようなものが見られた。トレンチ1跡の地質状況とほぼ変わ
りない感じだった。
「とにかく現地を歩いてこの目で見ること」
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