1-4帰雲城調査会公式HP近年の記録紹介(明治・大正・昭和)
帰雲城に繋がる近代、近年の記録を紹介します。
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仮題岩瀬橋の戦いの位置について前置き(レポート)
2026 R08 07 02 UP
前置き1
「帰雲城に関する情報や資料等」が沢山集まって、この資料等の近代(明治、大正、昭和)の記録の中から、
いちばん古い記事にたまたま昔の道を知る貴重な記録が書いてあったことから、まず最初にわたしはどう
しても取り上げたかったので、帰雲城主内嶋氏当時(1464~1586年)に起こった天正13年(15
85年)8月の「岩瀬橋の戦い」の位置に繋がるのが明治時代の読売新聞記事(高山流水)だったことから
紹介しようとレポートを2026年5月17日から書き始めました。
前置き2「半年経っても完成しないかも」
ところが、手元に埋もれている資料を1つ1つ開けて当時の情報や資料等を読んでPCに叩いて(打ち込ん
で)いました。入力は、帰雲城年表を打ち込んでいる2006年当時18時間程度情熱というか食べるのを
惜しんで執念で叩いていましたが、現在は12時間程度打ち込むのが限界で、集中力のない時は6時間しか
続かないという有り様です。今書いているレポートはあまりにも長文になるゆえ、これは2~3ヶ月しても、
いや6ケ月してもレポートは完成しないと2026年7月1日に気づいたので、『仮題岩瀬橋の戦いと千人
塚と古戦場の位置関係について(レポート)』作成は(発想を変え)少しずつ書いてゆきだいぶ後に完成さ
せるとし、次の出来事に進みたいので、2番目は「穴掘り」を紹介します。
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帰雲城に関する最初の穴掘りはいつか
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帰雲城のあった保木脇で最初に穴掘りをした話からです。時は昭和ではなく「大正時代(1912年~
1926年)のことで、福井県のT氏(陶器の行商人)は白川郷に行商で訪れており、保木脇地区の一部
分を買い人夫を雇い手掘りで直線状に掘った」そうです。掘った目的は何か?この当時帰雲城に関する
文献は『飛州志』、『飛騨国中案内』、『斐太後風土記』などの主だった(手書き又は活版印刷)記録しか
なくそれも当時まだ簡単に読むことのできる書物ではなかったと思われます。<明治時代には活版印刷で
人類学の学会誌をもう発行していた>帰雲城に関する論文や報告書等は大正時代にまだ発表されていないと
思われることから、白川村地元での話しを聞いて掘ったようですが、これはどうも帰雲城目的ではなく
地震により「良質な杉が埋まっている」と聞いて掘ったのかもしれません。<杉が埋まって化石化した
状態の「埋もれ木」、「神代杉」は高額取引される>穴を掘った場所は保木脇の深山豆富店から北の国道
156号線の西側ですが、今はもう掘った跡は埋め戻されてないそうです。これが、近代に保木脇で掘った
最初の出来事になります。
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帰雲城が登場する最初の新聞記事は
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岐阜県図書館HPの蔵書検索で「帰雲城」を調べた結果、いちばん古い新聞記事は1961年昭和36年
4月4日、朝日新聞記事、続ふるさとの史話「帰雲城と照蓮寺」(見出し;山城はいまもナゾ、飛騨へ楠木
正成の一族)掲載が見られます。この記事内容は、内嶋氏と正蓮寺の戦いを書いていて、内嶋為氏―雅氏―
氏理の名しか出てこないので帰雲城主内嶋氏は3代(説)でした。これは、昔の文献が3代として記録して
いたためによるものです。ですが、のちに研究者らにより帰雲城主4代説が浮上します。記事内に「高山市の
角竹さんはいっている」と書いてあることから、この記事で内嶋氏と正蓮寺の戦い後までを詳しく書いて
いるのは角竹さんか、高山市の照蓮寺で取材をしてかの取材内容記事と思われます。この昭和36年の記事
以前にも帰雲城関係の記事はあるかも知れませんが、各新聞社記事を昭和―大正―明治と全て調べるのは
困難なのでわたしはしていません。岐阜県図書館で帰雲城をキーワードに新聞記事を検索した結果、古い
帰雲城記事は「帰雲城と照蓮寺」1961年昭和36年4月4日、朝日新聞記事のタイトルでした。
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