1-1帰雲城調査会公式HP内表記について
帰雲城調査会公式HP内の各表記についてその都度「但し書き説明」を加えるのは大変なことからここで
まず最初にお伝えしておきます。
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分かりやすい用語で紹介を
ここでは、なるべく分かりやすい用語を使って説明したいと思っておりますが、時には専門用語を用いて
紹介している個所があることもご了承下さればと思います。(具体例:山が崩れて帰雲城は埋まった→山体
崩壊による岩屑流により帰雲城は埋没した)
年号や数字に関して
天正十三年、五百人余などの元号や数字に関してここでは洋数字(天正13年、500人余り)にして
いるヶ所があります。
振り仮名について
ここでは、出来る限り読みやすいよう仮名を振るようにしています。(具体例1:教信→たかのぶ。
具体例2:屯し→たむろし。具体例3:帰雲→かえりくも)
< >は補足を
読みづらくなるかもしれませんが、文章中や文献の記述に< >内に関してこちらが補足、説明、解説
をしている個所があります。(具体例1:兵庫→内嶋兵庫守氏理。具体例2:尾上備前→帰雲城家臣尾神
備前守氏綱うじつな)
氏名等の掲載に関して
本会公式HP内で取り上げる本会会員氏名や関係者氏名、聞き取り調査した方の氏名や関連する氏名等
(例;岐阜一郎さん)について、個人情報の観点からここでは、苗字のみ(例;岐阜さん)、イニシャル
(例;G・Iさん)、名の方をイニシャル(例;岐阜・Iさん)にして紹介しているヶ所もありますことを
ご理解ください。
現地調査の範囲について
白川村保木脇地区の範囲について、弓ケ洞谷という谷から荒谷という谷の南方までが保木脇地区全域の
範囲になりますが、地震を含む自然災害により保木脇に到達した土石の範囲は凡そシッタカ谷~弓ケ洞谷
の範囲になることから、本会の(保木脇)現地調査ではシッタカ谷から弓ケ洞谷までの範囲のことを「現地
調査」呼んで基本情報を示しております。
上段と下段について
保木脇の各場所を示す建物や位置情報の少ないことから、本会では保木脇の国道156号線の西から1段
高くなっている(田口プラントがある)場所を「上段」と呼んで、国道156号線から東を「下段」と
呼んで位置情報を区別して共有しております。(具体例1:台地に池があった。→上段に池があった。具体
例2:上段田口プラント北に。上段田口プラント南に。具体例3:現地調査で上段田口プラント南に不自然
な地形があった、具体例4:上段55鉄塔の北に、とか)
保木脇の正確な高度について
まず、平成13年(2001年)11月1日発行国土地理院25000分の1(紙)地図「平瀬」の中の
保木脇地区の深山豆富店南の国道156号線西に水準点574、7mがありこれを基準にします。この
水準点から本会佐々木副会長の兄弟が測量の仕事をしているので帰雲城趾(石碑)の地面までを測量した
結果約593mでした。つぎは別途、2020年9月頃水準点574、7mから上段田口プラントの
地面までをレーザー測量した結果約591m(590,98m)でした。正確な高度(標高)については、
1、「帰雲城趾石碑地面は高度約593m」で、
2、「上段田口プラント地面は高度約591m」の2ヶ所の正確な高度が判明しています。
標高の誤差は2mと
ここで、インターネット上の国土地理院HPで上記1,2の標高を調べると同等標高で誤差なしでした。
つぎにCS立体図で1,2の標高を調べると同等標高で誤差なしでした。次に5000分の1地図の保木脇
上段田口プラント西に「593」の記入があり、正確な高度約591mからすると誤差2mであることから
保木脇の高度を示す上で「高度誤差±2m」はあるかもしれないことを文言で考慮しておくと良いでしょう。
凹凸地形の高度は不明
ところで、保木脇上段の地面は高くなったり低くなったり波打った凹凸の起伏地形で、国土地理院の地図
標高でさえ、とくに低い地形の高度は正確な標高を表示することは出来ないことを知っておきましょう。
年号の誤差に関して
活動記録の記憶の範囲で簡易的に紹介する場合は2003年頃と「頃」を付けている場合、誤差は±3年
程度あるかもしれないことをご理解ください。後日、確認のできた記録には正確な年月をUPします。ところ
で、図書館で入手した帰雲城関係資料等は、さすがに年月日はメモしていなかったのでいつ頃(誤差±3年
程度)という曖昧な表記になりますことをお許しください。
本会の仮称地点について
ここで、現地調査では建物や目印等の少ないことから本会は共有で呼んでいる仮称地点を紹介します。
仮称「帰雲台地1402m」→上段田口プラントから西の山(1402m)で、白川村保木脇
字返り雲山になります。頂部高度1402m。1997年頃、本会はこの帰雲台地に山城があるかも
しれないと仮定して現地調査を3~4回実施した。
仮称「3つの丸円」→上段田口田口建設から西の山を登った所(57鉄塔西)で、白川村保木脇字返り
雲山になります。高度約670m。この場所を2000年から調査を2~3回実施し、比較的緩やかな
斜面で栗の古木や、岩を積み上げた丸い井戸のような形の不思議な構造物、3ヶ所程度狭い削平地あり、
等間隔に岩を山積みにした場所があり、後日航空写真でこの場所を確認すると3つの丸い円が見て取れる
ことから仮称「3つの丸円」と呼ぶようになった。後日、現地調査で3つの丸円の場所を探すが円状の
地面は確認できなかったが「ゆずり葉」(←の真の意味を調べると面白い)が群生していたのを確認した。
(3つの丸円調査でマムシに出会ってしまったが本会会員の対処が良く、その後ヘビ対策装備品にした
という教訓になった)
仮称「4つの窯跡」→2003年頃の現地調査で、白川村保木脇字後平(あとひら)になります。仮称
3つの丸円から山の中を北に進んだ場所になります。高度約684m。山の中を北に進むのですが倒木を
越えなくてはならないし、谷間を横切るため10m先はどうなっている地形なのか全く分からない間々
北へ進みました。そうすると何やら草木の緑に埋もれている石積みをこの字型にしたのがあり「炭焼き
窯跡」ということで3~4つの窯跡を確認しました。この場所はどこにあると位置を説明できないこと
から本会では仮称「4つの窯跡」と呼ぶことにしました。後日、炭焼き窯について調べ窯を作る場所、
平地は必要かなどを勉強したり地元の人から聞くのでした。
仮称「カエル池」→上段田口プラントから南にあり、白川村保木脇字堂ノ上になります。高度約
601m。1年に4~5回も現地調査を実施していた2003年頃の現地調査で自然の地形か人工の地形か
不明の場所があり池のように見える水たまりにカエルの卵泡があったことからこの場所を仮称「カエル池」と
呼ぶことにした。このカエル池南東に南北に続く奇妙な山のコブがある。<が、山のコブは自然地形なのか
人工地形なのか2026年7月現在、詳細な調査をまだしていない>
仮称「資材置き場」→上段田口プラント北にある山道(未舗装路、悪路)から北に続く山道を約400m
進んだ山道の右手に削平地(平地)があり資材等が置いてあったことから目印として仮称「資材置き場」と
呼んでいます。白川村保木脇字後平にあります。高度約592m。(誤差±2mあり)
仮称「大岩」→上段53鉄塔南西の山道右(東)に黒い大岩があることから場所をここから説明する
ため仮称「大岩」と呼んでいます。白川村保木脇字宇乙上ノ平(おつうえのひら)にあります。高度約
640m。(具体例・大岩の南南西で小林会員の掘った穴がある)
仮称「右岸風穴」→この場所は庄川という川の東、右岸にあります。白川村木谷(小字名は調べていない)
になります。高度約570m。帰雲山1622mの中腹崩落面から西南西の山麓にあり、2004年頃の
調査で山道の右カーブの斜面の穴に手を当てると冷たい風が外に向かって出ていることから仮称「右岸風穴」
と呼ぶことにしました。風穴の周辺にはまず岩で囲った丸いサークルがあり、幅約1mの石で補強した橋が
あり、石橋の下には大岩ゴロゴロの池のような溝があり、西方向には削平地(平地)が2~3ヶ所確認でき
た。そして、石橋の南方向の川原寄りに岩の壁が東西に延び(CS立体図で確認できる)ている。<←岩の
壁が東西に延びているのは護岸工事の壁と思われる。風穴と石橋や削平地の人工物はここに鉱山試掘坑が
2ヶ所あった(地図を確認した)ことから鉱山作業場と考えられる>
現地調査申請
保木脇で知らない人が勝手に山に入り何かやっていて「不安で地元の方から迷惑で困った」という話を
聞いたことがあるので、本会で現地調査する際は、私有地を通ることから地元自治体(白川村教育
委員会)や保木脇区長に本会は何を調査するのか目的を記した立ち入り申請をしてから現地調査を実施して
おります。
現地調査注意事項
本会の現地調査では、私有地公有地に関係なく①岩を移動させない、②木や枝を伐らない、③地面を
掘らないの現状維持の間々の地形観察、目視調査を実施しております。
埋もれている資料等について
保木脇にあった帰雲城主内嶋氏当時(1464~1586年まで)の文書に関して、土砂で帰雲城の館(城主の
住まい、居館、居城)が埋まり土中の微生物が分解して文書は残っているのでしょうか?
さて、今まで収集した帰雲城に関しての資料や、現地調査した内容や、聞取り調査証言の情報やこれら
資料等をA4紙サイズの入るA4対応封筒に個別に入れて保管していますが、その封筒合計は延べ500
封筒数以上あり、あまりにも多過ぎてこれら1つ1つを開封して当時の記録情報を確認するのは1日や
2日でとても出来る作業ではなく、ここでは「埋もれた資料、埋もれてしまった資料、埋もれている資料」
と比喩してよく記すことがあります。
レポートにして
帰雲城に関して1つ1つを紹介するには時間はかなりかかりますが、それでも帰雲城の研究テーマを
1つずつ決めて、①A資料に記述があるとか、②D資料に書いてあるとか、③G資料に関係することが
書いてあるとか、④空中(航空)写真に確認出来るとか、⑤古地図に記してあるとか、⑥「岐阜県関係
正式5万分の1地形図」に破線(点線)があるとか、⑦聞き取り調査証言の内容や、⑧論文や報告書等
明記のこれら数点(3~8点)の点と点は線で繋がるという資料や情報から出典(出どころ)を明記し
つつ、(報告書とは違い)経緯を多く記して、当時の思い、振り返った感想や疑問までもを用いて公式
HP内では「レポート」という形に区別して紹介したいと思います。ところで、UPするにはまだ相当の
時間を要しますが、簡易的に短編の考察や推察も述べたいと思います。
地図について
まずは白川郷(白川村保木脇)を手書きした何枚もの古地図(古絵図)に関して、山々を輪郭で記して
いる絵図なので、保木脇の山の正確な位置に関して(イラスト図みたいで)知るのは無理があるようです。
さて、正確な地図(地形図)についてですが、ここでは『岐阜県関係正式五万分一地形図』(大日本
帝国陸軍省参謀本部陸地測量部・明治24年<1891年>測図~大正元年<1912年>測図)岐阜県
郷土資料研究協議会.岐阜県古地図文化研究会.平成17年<2005年>1月復刻(会員配布用).58枚
程度が収納してあり読み解くと現在の道ではなく古い道も記していることから約500年前の帰雲城主内嶋
氏当時の周辺の道を知る手掛かりになることからこの地図をここでは「岐阜県関係正式5万分の1地形図」
の保木脇と呼んで紹介することにします。この地図の保木脇を記した正式名は「白川村33(明治43年
<1910年>測圖大正2年<1913年>製版)」で、牧戸や中野村を記した正式名は「白山(明治43
年<1910年>)」です。「岐阜県図書館2階には、岐阜県の古地図、地図が多く所蔵されている」こと
で有名なので白川村の古地図、地図も数枚あります。
掲載した正確性について
ここに取り上げた資料の記述や、聞取り調査証言に関する内容等正確性について、部分的に思い違い、
間違い、矛盾、誤り、誇張のある個所があるかもしれないので、更に資料等を調べて裏取りした研究を
されたい。
基本情報
その他1→帰雲山1622mは、白川村木谷地区にあります。
その他2→帰雲山1622mの中腹崩落面の小字名は、白川村木谷字帰雲になります。
メモ書き
1、「死の谷」→松古氏の記録に死の谷と掲載しているが未確認。<帰雲川原城跡の北の低地のことか>
2、「慰霊供養した場所」→昭和に現帰雲川原城跡から南東で供養した場所があるが正確な位置不明で、
高度約600mか?白川村保木脇字帰雲川原。
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