2-1帰雲城調査会公式HP 帰雲城に興味を持ったきっかけ

 ここでは、野田事務局が帰雲城を知るに至った経緯を紹介したいと思います。

「帰雲城に興味を持ったきっかけ」


記憶に残る響き きうん城

 1981年(昭和56年)頃のことだったと思います。友人のお母さんの実家が御母衣ダムの北の白川村

平瀬地区にあり、友人とそこへ遊びに行った時に、平瀬の人から帰雲城の話を聞きました。帰雲城を地元

では、「きうん城」と呼んでおり、平瀬地区から北へ行った場所に帰雲山があり、その山の斜面に地肌

(帰雲山中腹崩壊面)が見えていて、その下の方に「城が埋まっとる」と聞きました。


白川村に縁がある

 1980~1990年代は、オフロードバイクでよく白川郷へ走ったり、御母衣ダム北の平瀬鉱山跡や、御母衣

ダムの北東に位置する森茂村跡や、御母衣ダムの東側右岸の道を(秋町隧道トンネルまで)幾度も訪れて

いました。この平瀬地区を通るたびに「きうん城」の名を思い出したものです。


1999年に目にしたこの城名

 つぎに1999年(平成11年)10月の岐阜県広報誌で帰雲城の記載覧(活字)を、この時初めて目に

しました。「悲運の帰雲城物語、白川郷文化フォーラム'99、内ヶ島氏と中世白川郷11月20日に開か

れる」と載っていました。わたしはきうん城か、何か無性にどんな内容なのか知りたいと思ったので我慢

できず「参加申し込み」の電話を白川村役場にしました。


白川郷文化フォーラムで歴史を理解できず

 そして、11月20日(土)AM9:00白川村鳩谷コミュニティー会館で、「白川郷文化フォーラ

ム'99」開催、参加しました。開会。基調講演「中世の飛騨と白川郷」、基調講演「白川郷における

内ヶ島氏四代の事蹟考」、1460年ごろの時代背景、その頃の白川を仕切っていたのは誰か等々。

 かみ砕けばどこの一族がこの白川の地に入ってきたのか。その一族はどれくらい続いたか。争いはあっ

たか、資金源は何かなど。地震による山の崩壊で城が埋没にいたるまでの講演でした。知らない武将の

初めての歴史講演を一気に聞いたので、わたしは何がなんだか理解出来ませんでした。その後は、昼食、

座談会、古老が語る保木脇区の伝承、パネルディスカッションと続き閉会となりました。その後PM

5:30から、交流レセプションも行われ、地元太鼓披露、立食会もありました。これで「白川郷

文化フォーラム'99」の交流レセプションが終わり幕となりました。


どういう団体?

 交流レセプションが終わってから、皆さんがお帰りになる頃に「帰雲(かえりくも)城調査会」の

会議が、この後2階であります。興味のある方は、参加して下さい」と声がありました。わたしは

会議を見学することにして2階へ上がりました。2階の一室にはそうそうたる年輩の方々が集まって

おられてなんか場違いな所に来てしまったな、と緊張しました。会議内容は、「今後の帰雲城調査活動

について」を物静かに話されていました。と、こちらに意見を求められたので、私は会議の内容を十分

理解していないにも関わらず、長年に渡って調査や研究をしている方達の前で、「基本に戻って行動

されては?」と発言をしました。会議が終わり調査会から今後のスケジュールを送りたいのでと、

住所氏名を聞かれたので記入しました。「帰雲城調査会会議」終わる。


帰雲城調査会から案内がきた

 翌年の2000年(平成12年)5月頃に、「白川郷埋没帰雲城調査会」から現地調査の案内封書が

送られてきました。わたしは帰雲城現地調査の現場を何が何でもこの目で見てみたいことから、そりゃ

もう参加したいと、返信用ハガキに参加(○)、宿泊(○)と記してポストに投函しました。


宿泊する宿に入る

 1ケ月後の6月10日(土)PM2:00、白川村荻町の旅館城山館に早めだが入らさせてもらい

ました。帰雲城調査会会員の皆さんが資料を出して話している様子はどえらい情熱があり、帰雲城の

大人のロマンを語る熱意をわたしは感じてこれは面白いと思ったのですぐに年会費を払い、「白川郷

埋没帰雲城調査会」の会員になったのです。


自己紹介を

 PM5:00過ぎから明日の調査方法の説明。21人の参加でした。まずは各々の自己紹介となり、

席が端だったため私からでした。次は石集めや山登りが趣味の今井さん。測量士の方、僧侶さんの

あいさつと続き、皆さんが自己紹介をしました。<後日談;この時、初参加者数名もいたのでした>

 7:00夕食会場に皆さんが移動して、呑みながら食べて交流をして、会員一人一人が語る「帰雲

城の大人のロマンの熱きお話」の時間が続きました。夕食交流会お開き。


いよいよ初の現地調査参加 山中へ

 翌日の6月11日(日)AM8:00に観音像前に集合。弓ケ洞谷の林道を車で行き、参加人数が

多いことから2班体制とし、1班は1402m(仮称皈雲台地)登山と、もう1班は第58送電線

鉄塔下から進み7名は弓ケ洞谷北の山中(のちに呼ばれる仮称3つの丸円)の調査を始めました。山

の中に入ると急斜面と緩やかな斜面の間くらいの斜面を登り樹木間の日光は地面に届かないことから

草はさほど伸びておらず、地面は柔らかく山中は歩きやすかったのです。わたしは今まで本当に山の

中を歩いたことがなかったので自然の中を歩く調査はとても楽しくリラックスできて(わたしには

合っていると感じたので)調査とはこういうものなのかと知ったのでした。こうして私にとっての

初体験現地調査は終了しました。


 このように、1999年(平成11年)11月20日に、「白川郷文化フォーラム'99内ヶ島氏

と中世白川郷」に参加と、その夜の「帰雲城会議」に参加してと、2000年(平成12年)6月

10日(土)の「白川郷埋没帰雲城調査会」の懇親会と、次の日の「現地調査」の参加によって、

私の「帰雲城」に対する興味が動き始めたのでした。

帰雲城の資料を目にする

 それ以後、わたしは「岐阜県図書館」で「帰雲城」に関する資料を調べ始め歴史の興味も増し、

関心を持ったのでした。

                           続く・・・

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かつて人の暮らした痕跡に思いをはせるのが

 2000年の6月に帰雲城調査会会員になって帰雲城の調査研究をしてあっという間に27年の歳月が

経ったわけですが、まず最初に取り上げるのは帰雲城現地調査に結び付くことなので、わたしはどういう

場所で過ごすのがすきなのかを紹介することにします。1980年代から1990年代によくオフロード

バイクで自然の中を駆けずり回って青空の中お日様の下にいるのが自然体でした。もちろんアスファルトの

上ではなく、土の大地の上に立ち日を浴びて太陽の温もりを感じて、心地よい風の流れを肌で感じている

時がわたしはごく自然体で、おにぎりを食べ(小学生の時の)遠足気分でいる時間はすごく楽しい時間を

過ごしました。(自然を感じ、自然と一体と言いましょうか)オフロードバイクでよく白川郷の(悪路)

林道を何回も走ってオフロード走行を楽しんで遊んでいるとかつて人の暮らしたほんのわずかな痕跡(の

場所、森茂村跡、秋町隧道、六厩川橋、赤谷集落跡、落部集落跡)があり、そういう場所に立つと心は

何か自然と落ち着いたことから、わたしは自然の中の「人の痕跡のある場所」に思いを馳せるのがすきと

いうか興味を持つようになったのでした。白川郷の山奥の自然の中にあった帰雲城と城下町もかつて

「人の痕跡があった場所」なので帰雲城のロマンというか当時人々の暮らしに思いを馳せるのがすきな

わたしにとって(何故か白川郷に何回も訪れていたご縁と共に)のちに出会うことになる白川郷にあった

帰雲城に自然に興味を持つことになったのでしょう。

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帰雲城の文字を見て感動する

 わたしは、2000年6月に帰雲城調査会の行事(会合、宿泊、現地調査)に初めて参加してから、

まもなく「岐阜県図書館」で「帰雲城」に関する資料を調べ始めました。当時、調査会からもらった

資料に「帰雲城埋没に関する史誌」と題して『飛州志』、『斐太後風土記』、『貝塚日記』、『飛騨鑑』、

『岷江記』の記述があったことから岐阜県図書館2階で調べると『斐太後風土記』の保木脇村のページに

帰雲城の名を発見した時にどえらい感動興奮したのでした。この書物は飛騨の各村の特色を紹介した

現代版旅行案内パンフレットのようなもので、牧戸村のページでも帰雲城について書いてありました。

 帰雲城について自分で調べて帰雲城や関連する文面や資料を発見した喜びの興奮は更なる帰雲城資料

集めに繋がるのでした。この当時、本会会員の持っていた帰雲城資料を複写させてもらったり、本会佐々木

副会長は帰雲城資料を多く収集しており、わたしは見せてもらいコピーさせてもらったりしたのでした。

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やはり地図が必要

 帰雲城資料を集めていると、現地保木脇の地図がなければ地形を知ることができないと思ったので、

本屋で保木脇の2,5万分の1地図、5万分の1地図を買ったのですが小さくて見づらいことから白川村

役場で5000分の1地図を複写してもらい、この時に牛首(芋井谷城跡)の地図や荻町(荻町城跡)の

地図も複写してもらい、今度は(当時)荘川村役場で牧戸(牧戸城址)、中野地区の5000分の1

地図を複写しておいたのでした。これで保木脇現地の地形や等高線が分かるようになったのでした。

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帰雲城に関する情報をとにかく集めることに

 帰雲城について書かれた新聞記事や掲載物、あと帰雲城を記載した本までもをとにかく集めて、帰雲城や

城主内嶋氏についてどのように書いているのかを知っておく必要があったのでとにかく書物、論文、報告

書等の記録までをとにかく集めることにしました。エピソードとしては、帰雲城に関する(2000年

以前の)新聞記事は62タイトルあり、岐阜県図書館の所蔵庫の方にあり1日では複写できず、翌週に

複写して今度はマイクロフィルムを映して複写するのにもう1日かかり、計3日間かかったという大

作業になったのでした。

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