1-3帰雲城調査会公式HP帰雲城主内嶋氏文献出典紹介

 ここでは、帰雲城と城主内嶋氏に関する史料等文献の出典(ページ数も)を明示して古い年代の方から時
系列で少しずつ追記して時間は要しますが、図書館や施設等でスムーズに同史料を調べやすいよう紹介
します。


 帰雲城築城年を探る(簡易レポート)

                                            2026 09 05

 序

 白川ノ庄の帰雲城はいつ築いたのかを取集した資料から改めて調べてみた。まず、寛正5年の記述は、

①、1464年寛正5年、内ヶ嶋為氏白川郷保木脇に帰雲城を築く『歸雲家系譜』、 

②、1464年「寛正5年甲申年、内ヶ嶋爲氏、築保木脇歸雲城移住、與(あたえ)牧戸城於家老川尻備中某

居之[三郡沿革]」『飛騨国大野郡史 上巻』187頁に「三郡沿革」所収.の計2点で、他に帰雲城築城年の基に

なった文献はないか手元の資料を改めて確認してみることにした。


 1.市村家系図

 本会の活動拠点であったみぼろ山荘(別荘)で、会員の持っていた市村家系図(40枚)をお借りしてコピー

させてもらった日付は「2009年平成19年5月6日」となっている。この系図を見ると帰雲城築城年の

記述はなかった。


 2.山下家系譜

 みぼろ山荘(別荘)で、会員の持っていた山下家系譜(66枚)をお借りしてコピーさせてもらった日付は

「2009年平成19年5月6日」となっている。この系図を見ると帰雲城築城年の記述はなかった。


 3.歸雲家系譜

 2003年平成15年2月8日(土)高山市郷土館へ2回目訪問した。S氏と計2名保木脇の古地図や他を

調べるが、書庫(蔵)に史料は眠っていることからズバリ書物名を言わないと出してもらえないので、まずは

①住香草文庫目録や②角竹文庫の目録から、帰雲城主内嶋氏や保木脇古地図のタイトル名までようやくたどり

着いて選んで言って、ようやく史料閲覧ができたのである。保木脇古地図(後写)は古い時代のを目の前にし

感動と興奮して、何となく貴重な情報の載っていることは分かるが言い知れぬ興奮をとにかく後回しにして

(複写禁止なので)数枚撮影した。つぎに「還来寺帰雲家系譜」を撮影した。この系譜に何やら重要な記述が

あるがやはり感動は後回しにして撮影した。(目的はとにかく手元に史料を収集するのが第一で、感動は二の

次だ。史料を紐解く研究はもっと先だ)他史料を撮影した。


 4.還来寺帰雲家系譜の中身

 「還来寺帰雲家系譜」を自宅で(3枚)プリントアウトして一応全文読んだがその間々置いてあった。現在、

改めて見ると、(帰雲城初代城主)為氏の項に「寛正5甲申年、歸雲城ヲ築キ又コレニ居ル」の記述がある。


 5.帰雲城の築城年は

 収集した史料の中でどうも出所となったと思われる帰雲城を築いた寛正5年と確認できた史料は、還来寺

帰雲家系譜の為氏の項である。


 6.還来寺と帰雲城の繋がり

 ところで、還来寺(かんらいじ、げんらいじ)は、岐阜県高山市丹生川町町方にあり、帰雲城3代目城主

内嶋氏理(うじとし)の兄弟の子(氏政、新左衛門、頓乗坊了政、還来寺祖)が還来寺の祖とされる。


 7.おわりに(エピソード談)

 記憶は定かではないが、郡上市図書館(岐阜県郡上市白鳥町)で帰雲城に関する資料を閲覧していて、『飛騨

国大野郡史』という分厚い本があり、さほど重要なことは書いていないと思ったが、一応開いてみた。「寛正5

年甲申年、内ヶ嶋爲氏、築保木脇歸雲城移住」という項があり、将来役立つかもしれないと感じ何気なくコピー

しておいた。このような1枚1枚は、のちに史料分析研究をするとようやく点と点が線になって繋がることに

なったのであった。(当時は、帰雲城について書かれた資料を集めるのが優先で、古い時代の書き物に感動や

興奮は二の次にしてとにかく資料を集めていた)


 参考文献

 『歸雲家系譜』角竹文庫.寺院114.還来寺帰雲家系譜,高山市郷土館所蔵.(現飛騨高山まちの博物館)

 『山下系図』

 「市村家系図」

 『飛騨国大野郡史』発行.1925年大正14年昭和45年復刻発行.

 『飛騨帰雲城と城主・内ケ嶋氏の史実を探る』安達正雄.p116「図1帰雲城主内ケ嶋家系図」から.200

6年平成18年12月3日.石川郷土史学会々誌.


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 飛騨鑑の内容について探る(レポート)

                                        2026 07 15

 序1

 岐阜県大野郡白川村保木脇にあった帰雲(かえりくも)城主内嶋(うちがしま)氏当時(1464~15

86年)の中から天正13年1585年8月の出来事で(向)牧戸城の北にある「岩瀬橋の戦いに関する

位置について」研究レポートを2026年5月17日から書き始めて『飛騨鑑(ひだかがみ)』という書物を

読んで調べていると途中から「んっ!」、「えっ?」っと文面の短い箇所があり不思議に感じたことから、

この『飛騨鑑』はどのような内容の書物なのか、項目とか第何章とか区分の文面はないですが(このレポート

では第1章から第5章までと任意に分類して説明することにします)調べてみた結果を紹介します。


 序2

 まず飛騨国(ひだのくに)の各村の特色を記した地誌は①、『飛州志(ひしゅうし)』第8代飛騨国代官

長谷川庄五郎忠崇著.1745年延享2年成立.岐阜県図書館所蔵.②、『飛騨国中案内』上村木曽衛門満義著.

1746年延享3年成立. 岐阜県図書館所蔵.③、『斐太後風土記』富田礼彦著.1873年明治6年成立.

岐阜県図書館所蔵.の3書があります。


 1.『飛騨鑑』は何枚で構成されているのか

 まずは、『飛騨鑑』という書物は何枚なのかを調べてみると、背表紙の表(1枚)と、本文(14枚)と、

図(3枚)と、添え書き(1枚)と、背表紙の裏面(1枚)を含めると飛騨鑑は合計20枚で構成されている

書物であることを確認したのである。


 1-1.飛騨鑑の近代の所有者

 飛騨鑑の表紙に「吉住(よしずみ)」、「角竹(すみたけ)文庫」(吉住氏と角竹氏は人名で研究者の間で

は有名である)とあり、次のページに「高山市郷土館」の印があり、飛騨鑑の近代の所有者を経たルートを

垣間見ることができるのである。ところで、飛騨鑑の第5章添え書き(補足)ではこの書物を誰が持って

帰り、どのような経緯で飛騨に戻ってきたのかを書き留めています。


 2.飛騨鑑の内容を分類して

 まずは、序1でも述べた通り飛騨鑑という書物に項目とか第何章とか区分の文面はない

のですが、このレポートでは飛騨鑑の内容を把握できるよう第1章から第5章まで任意に

分類して説明することにします。


 2-1.飛騨鑑第1章の内容

 2枚目、第1章の冒頭(1行目)は「飛騨鑑」、2行目「飛騨国大野郡高山城図並<ならびに>大<大き

い>道小<小さい>道覚<おぼえ>」と書いてあり、3行目から「山城」高山城から四方(東西南北)の地名

と道や距離「西ハ里、足軽町有」、「北ハ侍町、商人町」や高山城内の各曲輪「本丸曲輪」、「東ハ追手門」、

「西ハ搦手門、石垣高サ五間、六間」、「南出丸曲輪」、「二ノ丸曲輪」、「三ノ丸曲輪、(距離は略)堀八

間深サ三間」や他を2枚目と3枚目で紹介している。

 つぎに4枚目から大道、小道に分類して書いており、<小道は>高山城から四方(東西南北)の<各城まで

や>、近村までの距離や、村々間の距離、峠や川渡りの幅、馬次、難所、神社や他を記している。

 つぎに<大道は>高山城から四方(東西南北)の町や村までの距離や他、国境から近村までの距離を書いて

いる。

 4枚目から10枚目までは(町や村や主だった)各場所までや国境までの距離等に関する内容で、「此間

侍町」、「足軽町」、「寺町」、「商人町」、<神社や>、「小橋有」、「信濃海<街>道」、「馬次」、

「川広サ拾間」、「境目大川渡り」、「中野村照蓮寺と申一向宗大地寺領3百石」、「大川懸<かかる>

橋」、「釣橋有」、「大長谷坂道難所也」、「平湯村湯四ケ所御座候」、「病人ニ相応仕候故他国よりも湯治

仕候」、「安国寺経堂有」、「高原の内金山所々より出ル茂住銀山」、「白川之内所々山多在ニ多之<し>

外ハ皆金山也」、「舟渡し」、「高山より越中境目迄拾弐里三拾壱町余」という文字が読み取れる。

 さて、このように飛騨鑑第1章の内容は、飛騨国(ひだのくに)の高山城を中心にして城内の各曲輪までの

距離や、高山城を中心に四方(東西南北)の地名や「各城」、大きい道や小さい道、町や村々間の距離や峠や

川渡りの幅、馬次、難所、神社や他を記し、そして高山(城)を中心に四方(東西南北)の国境から近村まで

の距離、国境までの距離を記してあるのが飛騨鑑の第1章(2枚目から10枚目の10行目まで)である。


 2-2.飛騨鑑第2章の内容

 10枚目の11行目からの第2章は、「<飛騨>国産、金、銀、銅、鉛、鉄。諸材木。蝋<ろう>、漆<う

るし>、糸、綿、布、紙、焔硝<塩硝>」と書いてある。飛騨の国産は産出した村や場所を示しておらず、

たったこれだけ5行しか書いておらす「んっ!」、「えっ?」っと文面の短ことからこれは何とも不思議に

感じたのであった。<書きかけ途中なのか?>と、10枚目に数行だけ「<飛騨>国産」が書いてあるので

ある。


 2-3.飛騨鑑第3章の内容

 さて、11枚目から13枚目までは絵図(古地図)を計3枚記してあり、11枚目と12枚目の計2枚が

一対で、13枚目が絵図面(1枚)となっている。11枚目と12枚目の絵図は高山城を中心に近くの地名や

道、橋、川、寺院<は7宇>、神社、池を記してあり「照蓮寺」も記してあり、特に照蓮寺の一帯に「侍町」

が11ヶ所も記してある。「小人町」は2ヶ所、「町」は<高山城下町に>14ヶ所も記してある。

 つぎに、13枚目の絵図面1枚は<高山城のある>「高山」を中心に真上(上空)から見た古地図で、東西

南北(四方)の国境と道、川を描いている。


 2-4.飛騨鑑第4章の内容

 14枚目の文面上部に「芳渕考」とあるが著者か不明である。さて、飛騨鑑第4章、14枚目の冒頭は

「古老曰<言わ>く」で始まり天正10年の出来事からを書いている。つぎに<天正13年1585年8月

羽柴秀吉の命による>越前大野城主金森長近率いる軍による飛騨国攻めのことが書いてある。(中略)16

枚目に越中に出兵していた帰雲(かえりくも)城主内嶋兵庫守氏理(うじまさ)らは飛騨に戻り金森軍へ

降参するシーン。16枚目の6行目に「尾上(おがみ、尾神)備前<帰雲城家臣尾神備前守氏綱(うじ

つな)>と申者、大刀數度<すうど>武功<ぶこう、武術力>有之者ニ候」と書いてあり、17枚目は天正

地震により帰雲城は埋まり内嶋氏一族断絶の文面。帰雲城の支城荻町城主山下大和守氏勝(うじかつ)が生き

残った理由を記している。17枚目では「某古老物語故<ゆえ>」←この次の文面を現代語にしたのが→

「用事があり帰雲城の埋まった現場で老人に尋ねると言葉少なかったそうだ」と17枚目は記している。

 18枚目は、両面宿儺(りょうめんすくな)の記述である。18枚目の末尾は添え書き補足(この飛騨鑑の

行方や経緯)があり、飛騨鑑の第4章は飛騨国に関する戦や、古老の話し、昔話し、伝説、出来事を14枚

目から18枚目まで5枚に渡り書き留めている。


 2-5.飛騨鑑第5章の内容

 飛騨鑑の第5章は18枚目末尾からで、いわゆる「添え書き(補足、この飛騨鑑の行方や経緯)」を記して

おり、19枚目の4行目から筆跡が異なる。19枚目の5行目から通釈すると「この書はその時その時に

見聞きした間々を書き留めたものであり、伝説の誤りも少なからずある。しかしながら、取り用いるべき

所も間々あるので、塾生に書き写させ温故知新の役に立てんとしたものだ」と記している。飛騨鑑の第5章

には飛騨鑑1冊が土佐に渡り、再び飛騨に戻ってきた経緯が18枚目末尾から19枚目の計2枚に書き留め

てある。


 2-6.飛騨鑑は完成しているのか

 第1章の内容は、飛騨国(ひだのくに)の中心である高山城内の各曲輪までの距離や、高山城を中心に

四方の<各城>、町、村、国境までの距離、峠や川渡りの幅、馬次、難所、神社や他を<飛騨の各村々を

詳細に調べた地誌ではないが>書いている。


 つぎに、第2章の内容は「<飛騨>国産、金、銀、銅、鉛、鉄。諸材木。蝋<ろう>、漆<うるし>、糸、

綿、布、紙、焔硝<塩硝>」と、書いてあるだけで、各村の特産を示していないことから第2章の「<飛騨>

国産」は書きかけ途中であると推定される。


 第3章は絵図で、高山城を中心に近くの地名や道、橋、川、寺院、神社、池を記してあり、もう1枚の

絵図面は<高山城のある>「高山」を中心に真上(上空)から見た古地図で、東西南北(四方)の国境と道、

川を記している。


 第4章は飛騨国に関する戦や、古老の話し、昔話し、伝説、出来事を書き留めている事件や「出来事」を

<一部箇所真偽は別として>第4章で紹介している。


 そして第5章はいわゆる「添え書き(補足、この飛騨鑑の行方や経緯)」を記しており、この『飛騨鑑』の

著者は不明で某氏が執筆し、金森氏に仕えていた者が土佐の山内侯に仕えることになり『飛騨鑑』を16

92年(元禄5年)頃に土佐(高知県)へ持って帰った。その後、土佐の家臣の家から出た『飛騨鑑』を18

10年(文化7年)より以前に安国寺(岐阜県高山市国府町西門前)和尚(はもと土佐の士族の子で)へ

渡って飛騨に里帰りしたわけである。飛騨に里帰りした『飛騨鑑』を安国寺の和尚はこの書物を伝え残す

ために『飛騨鑑』写本を1810年(文化7年)頃に作り、高山市の某氏或いは(吉住氏?よしずみ)地役人

に渡り、『飛騨鑑』写本を借りて1813年(文化10年)頃、塾生に筆写させ添え書き(第5章を加筆)を

して『飛騨鑑』再写本ができる。その後、『飛騨鑑』再写本は角竹(すみたけ)氏や幾人かの所有を経て19

36年(昭和11年)以後に高山市郷土館(ひだ高山まちの博物館)に寄贈されたという経緯である。

 ところで、『飛騨鑑』の第4章の飛騨国に関する戦や、古老の話し、昔話し、伝説、出来事は、その時に

見聞きした間々を書き留めたものであり、一部伝説的な書き方も読み取れるのである。


 2-7.飛騨鑑は完成していたのか結論

 ここで、『飛騨鑑』は飛騨(国)高山金森氏時代から以降に書き始めた書物ではないかとわたしは思った

のである。『飛騨鑑』の著者は、のちの飛騨国(ひだのくに)の各村の特徴を記した地誌『飛騨国中案内』

(上村木曽衛門満義著)のような書物に仕上げたかったのかは不明で、第2章の「<飛騨>国産」の記述の

少ないことや、『飛騨鑑』という書物は背表紙を含めた少数の計20枚というものすごく少ない枚数から

すると書きかけ途中の未完成であると推定されるのである。


 3.まとめ

 『飛騨鑑』という書物はどのような内容なのか、まとめ。


 第1章では、飛騨国(ひだのくに)の中心である高山城内の各曲輪までの距離や、高山城を中心に四方の

「各城」、町、村、国境までの距離、峠や川渡りの幅、馬次、難所、神社や他を書いている。


 第2章は「<飛騨>国産、金、銀、銅、鉛、鉄。諸材木。蝋<ろう>、漆<うるし>、糸、綿、布、紙、

焔硝<塩硝>」と、書いているに留めている。


 第3章は、絵図で高山城を中心に近くの地名や道、橋、川、寺院、神社、池を記してあり、もう1枚の

絵図面は<高山城のある>「高山」を中心に真上(上空)から見た古地図で、東西南北(四方)の国境と道、

川を描いている。


 第4章は、飛騨国に関する戦や、古老の話し、昔話し、伝説、出来事を<一部箇所真偽は別にして>書き

留めている。


 第5章は、いわゆる「添え書き(補足、この飛騨鑑の行方や経緯)」を記している。


 さて、『飛騨鑑』には項目とか第何章とか区分の文面はないのですが、このレポートでは「第1章から

第5章まで」と任意に分類して説明した次第です。


 4.おわりに

 ところで、第4章の「古老曰<言わ>く」で始まる古老の話しや、昔話し、伝説、<一部箇所真偽は別に

して>出来事から、「①内嶋氏理らが金森軍へ降参するシーン」、「②天正地震により帰雲城が埋まる

文面」を読み解いて、なぞ解きをすると興味深い(おもしろい)であろう。


 5.あとがき

 上記では人名についてあまり触れないようにしたが、ここで年号と事項、人名をメモ書きしておく。

 1692年(元禄5年)頃、富永氏が土佐・山内侯に仕えることになり、飛騨高山より移転の際、『飛騨

鑑』を土佐・高知へ持って行く。

 1692年(元禄5年)、金森氏6代頼?(よりとき)は、出羽上山(かみのやま、現山形県上山市)へ

転封となり、飛騨は幕府領となる。

 1725年(享保10年)、吉住平右衛門、高山弐之町村下新町に居住の記録あり。『飛騨国中案内』

 1735年(元文元年)頃、『光曜山岷江記』正覚寺浄明が著す。

 1745年(延享2年)、『飛州志』第8代飛騨国代官長谷川庄五郎忠崇が著す。

 1746年(延享3年)、『飛騨国中案内』上村木曽衛門満義が著す。

 1805年(文化2年)、高山最初の「静修館」(儒学者・赤田臥牛)が開校される。

 <土佐富永氏→安国寺和尚→写本作成→某氏→(吉住)地役人へ>

  1813年(文化10年)頃、塾生邊吉に筆写させ、それに赤田暢永和甫が添え書きす。

 1832年(天保3年)8月、高山二之町より出火し119軒を焼失。この時、静修館も類焼する。

 1873年(明治6年)、『斐太後風土記』富田礼彦が著す。

 ?(?)、再写本が静修館(赤田氏)から幾人かの所有変遷を経て、角竹喜登に渡る。

 1936年(昭和11年)以後、再写本が角竹氏から高山市郷土館へ寄贈される。



 参考文献

 『飛騨鑑』(著者不明.年不詳.写本)飛騨高山まちの博物館所蔵.(旧高山市郷土館所蔵)

 『飛騨鑑』(著者不明.年不詳.写本.岐阜県図書館所蔵.G/261/ヒ/A.古文書.くずし字)飛騨鑑は16

32~1650年頃寛永9~慶安3年頃の執筆と思われる.

 『飛州志』第8代飛騨国代官長谷川庄五郎忠崇著.1745年延享2年成立.岐阜県図書館所蔵.

 『飛騨国中案内』上村木曽衛門満義著.1746年延享3年成立. 岐阜県図書館所蔵.

 『斐太後風土記』富田礼彦著.1873年明治6年成立.岐阜県図書館所蔵.

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