2-3帰雲城調査会公式HP聞き取り調査証言紹介

 聞き取り調査を実施した中で、個人情報の観点から氏名はイニシャルにしたり、内容に関して支障の
ない範囲で「後世に伝え残す記録として」紹介したいと思います。

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 ①帰雲城を研究するなかでのみならず、②白川郷の歴史と文化までも調べる必要があったのでこれも調べ
紹介します。聞き取り調査した証言をメモしたのは2000年~2006年までのがあるかもしれませんが、
いかんせ(封筒に入れた)資料は埋もれてしまっているので、まずはPCで文字化したのは2007年平成
19年からなので、ここから紹介します。聞き取り調査内容はお住まいだった地区の方しか知らないかなり
ローカルな内容を含んでいることから、読んでいて理解できない所もあるかもしれませんがご理解ください。
 <聞取り調査にご協力頂いた方々から貴重なお話を聞くことができましたことに誠に御礼申し上げます>
(随時追加更新)


「仮題日崎城(跡)と地元の歴史と文化と風土のこと聞取り調査」
                                          2026 08 12 UP
 まずは、御母衣ダム建設で水没した「日崎城(跡)」(旧荘川村海上字ヒサキ)のことに興味があったので
当時荘川村(中野地区・海上地区)に住んでいた方々に聞取り調査を実施しました。

 1、「田*・Aさんに聞く」(当時荘川村中野居住、現在岐阜市在住)2007年平成19年7月11日に
電話したところ、事情により後日奥様宅に訪問することにした。

 2、「田*・Hさんに聞く」(当時荘川村中野居住、現在岐阜市在住)2007年平成19年9月4日に
訪問。御母衣ダム湖に沈む前の海上地区の白黒写真額を見せてもらいました。日崎城(跡)のことを聞く。
 「田*・Hさん談:中野村在住で27才までいました。昭和35年岐阜市に移転上京した。<中野(村)
照蓮寺は>ごぼうさん、こうりんさん。<と言った>黒谷<地区>まで鮭のぼってきた。尾上郷村2戸」の
内容で、吉*・Mさんを紹介してもらう。

 3、「吉*・Mさんに聞く」(当時荘川村中野居住中野郵便局員、現在岐阜市在住)2007年平成19年
9月10日に訪問。(職業上当時のことよく知っておられた)「吉*・Mさん談:渇水時に照蓮寺跡現るよ。
<照蓮寺跡は>乳母谷川下って左、大石・大杉のカブ2あり。(手書きしてもらった紙あり)。<岩瀬字>下滝
若山家。岩瀬の矢の原は庄屋。ぶら橋・下滝橋・旧岩瀬橋・中野橋(手書きしてもらった貴重な紙あり)。旧
156号線・100万円道路。旧尾神橋は木でゆれる橋だった。旧岩瀬橋は木。ブラ橋は大正の後期にできて
トラックが通れた。岩瀬サスケ式台付の家。三谷~落部の山道があった。<←貴重な証言あり>森茂<村>~
中野往来あった。<←これも貴重な証言>尾上郷川からの山越えは昭和はなし。中野まで鮭がのぼってきた
よ。カンコの意味はL直角という意味。和田山1271m。上尾神と下尾神があった」の内容で、手書きして
もらった紙はわたしの宝物です。中*・Kさん、丸*・Sさんを紹介してもらう。後日、和*・Sさんを
紹介してもらう。

 <日崎城(跡)の報告書を書くには今一歩情報は少なかったので、2年後に聞き取り調査を行なった>

 4、「和*・Sさんに日崎城(跡)を聞く」(当時荘川村海上居住、現在岐阜市在住)2009年平成21
年6月18日に聞く。(76歳)「和*・Sさん談:尾神(おかみ)、上海上(うわかいしょ)、下海上(した
かいしょ)。どいどい。日崎<地区>にバラック2棟朝鮮人20人ぐらいかな<居た>。林道開山(新道)
労働にあたらせた。ここの労働者から牛の肉をもらった。旧中野小学校東の庄川がかんこ淵だった。福島村は
3戸。<海上地区に>久七坂。聖殿碑。カラス貝がいた場所<を地図上で示してもらい>、食べた。<と聞い
た>2ヶ所の水路<農業用水>の場所。孵化場、県よう魚試験場あまごの場所。牧野橋南、<庄川の川原は>
石がない<ので>クツなしで歩ける」の内容でした。後日、柳*・Tさんを紹介してもらう。

 5、「柳*・Tさんに日崎城(跡)を聞く」(当時荘川村海上居住、現在岐阜市在住)2009年平成21年
7月22日に聞く。「柳*・Tさん談:小坂さんが日崎<城跡>を開墾した、松林、空堀、奥に土塁があった。
<海上地区にいた>カラス貝、昔から食べたらいかんと言われていた。聖殿碑の場所、少年時に聖殿碑あたり
の地面を掘っていたら、大量の古銭が出てきた。くろ淵<と呼んだのは>土地の影で暗かったから。牧戸城、
岩瀬サスケ学者、杉山大将<←地元ではふつうかもしれないが、杉山なる名をわたしは初めて聞いた>」の内容
でした。
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