5-2帰雲城調査会公式HP登場人物の紹介 みぼろ山荘

 ここでは、帰雲城調査会の①メンバーや関係する人物、②みぼろ山荘を紹介します。

 ①、登場人物の紹介
 ここでは、調査会の会員や、関係者、(おもに白川村)地元聞取り証言者や他を含め、この人物とあの人の
繋がりや関係、帰雲城に興味をもったきっかけをどうしても記さないとこの公式HP内での内容を把握でき
ない文言があることから、一連の流れも記しておもだった人物を紹介します。(調査会に集まった資料等や、
会報や会報誌の情報を含む)

 登場人物の氏名に関して
 この公式HP内で紹介する登場人物の氏名に関して、調査会員各氏名や、関係者氏名、聞取り証言者氏名、
他氏名は個人情報の観点から本人やご家族の方々にご迷惑にならないよう、(本会会報及び会報誌をここで
紹介する場合も)できる限り伏字、イニシャル、苗字にしている個所があるのでご理解下さい。(住所関しては
当時の住所を記す)

 「松古氏」
 白川村荻町の旅館城山館の主人で郷土史家。まず何よりも最初に紹介するのは、帰雲城調査の先人で昭和
25(1950)年頃、松古孝三氏は帰雲城のことを調べ始めた帰雲城調査の白川村地元第一人者で、伝説の
ベールにつつまれていた帰雲城の全容を明らかにした人物。
 昭和44(1969)年8月20日朝日新聞(夕刊、4版)記事に「帰雲城悲史 城跡に供養碑」」が掲載
され、「松古さんから話をきいて、さっそく、保木脇では古老のO・重太さんらが、城があったとみられる一画
を整地にとりかかった。桜の苗木を植えたあと、いま碑を準備中」とあり。この場所は、保木脇上段で2000
年頃「帰雲(かえりくも)公園」と呼ばれた場所になる。つぎに、昭和45(1970)年1月9日朝日新聞
(夕刊)記事に「白川郷に眠る幻の宝帰雲城黄金物語の周辺」が掲載され、「その丘のひとつを、昨秋、大野
さんら有志が、城跡とみて、記念の植樹をして供養」とあり、本会聞取り調査<埋もれている資料から聞取り
調査した証言の記録が見つかり次第年月日を載せます>から「上段で僧侶が供養した」と聞き、供養した位置を
聞いた。(のちの帰雲公園)
 そして、昭和47(1972)年9月18日平凡パンチ「日本の地底にまだ83兆円の金が眠っている!!
岐阜県の帰雲城跡、群馬県の赤城山、注目の2拠点」」が掲載され、担当者が松古氏に取材した内容の37ペー
ジに「帰雲城跡断面図」という図があり、図内に「最近発見された沼地水源地とみられる水がわきでている」と
書いてあり、帰雲城で使っていた水源地なのか調査会で2016年から現地調査するアドバイス(助言)と
なった松古氏の情報なのです。
 帰雲城調査の地元第一人者、松古氏が関わった掲載物の内容や図からすると帰雲城のあった場所は上段(のち
の帰雲公園、帰雲川原城跡)辺りを帰雲城埋没地と示している。1979年昭和54年2月、松古氏他界。
 昭和54(1979)年5月5日、AM9:30ごろ、「日本の歴史探索会」23名が現地調査を行い
<庄川>右岸にて、人工的な石積みを発見した。

 「佐々氏」
 そして、2番目に紹介するのは、昭和42(1967)年2月に朝日新聞社記者の佐々克明氏が白川郷の
切妻合掌造りの取材で白川村を訪れ、松古氏から初めて帰雲城の話を聞く。この佐々氏と松古氏の出会いと
なり、のちにこの2人のチームワークにより、佐々氏と松古氏は新聞記事や刊行物で紹介して帰雲城が世間に
広く知れ渡ることになります。佐々氏は帰雲城をいわば世に広く知らしめた人物。
 佐々氏著書、昭和47(1972)年6月『まぼろしの帰雲城』発行。「昭和47(1972)年秋、佐々
氏、保木脇地質調査を行う」と記録はあるが、結果に関して情報等がないので分かりません。昭和60(19
85)年5月、白川村の要請で金沢大学地質学部絈野(かせの)教授らが学術調査をおこなう。庄川西2カ所
<保木脇>でユンボ<重機>によるトレンチ<断層>調査を実施。昭和60(1985)年10月27日(日)
「帰雲400年・白川フォーラム」」開催。主催白川村・白川村教育委員会。講演1金沢大学絈野先生『400
年前の帰雲大崩壊について』他、講演あり。
 昭和60(1985)年11月『帰雲城大崩壊』佐々氏著書発行。昭和61(1986)年10月、佐々氏 
他界。昭和61(1986)年11月1日、「ひだ白川・帰雲城を考える会」が発足。

 「黒沢氏」(東京)
 考える会黒沢代表。調査会黒沢会長。城郭研究家。黒沢英昭氏は保木脇において帰雲城に関する公式手掘り
試掘調査を行った人物。年未詳、昭和40(1965)年前後か?暖かい時期5~10月頃に「白川村の小学
校でNHK?が民話帰雲城をTV放送する。語り、松古氏」TV放送あり。
 昭和47(1972)年6月『まぼろしの帰雲城』佐々氏著、発行。
 1969年昭和44年8月~(『まぼろしの帰雲城』出版を含む)、(昭和47(1972)年3月新評
「黄金とともに埋まる帰雲城(飛騨白川村)の悲史(佐々)」が掲載され、「宝探し的な発掘をやられたら、
文化財がめちゃくちゃにされる。だから、できるだけ公共的な形で発掘すべきです。松古さんは情熱をこめて、
そういう」とあり、発掘への示唆が込められている。1973年昭和48年1月までに帰雲城に関する新聞
記事、刊行物、報告書等、書籍、TV放送を合わせて計20件の報道があり、いわゆる「帰雲城第1次ブーム」
の到来で、当時「保木脇で知らない人達がスコップを持ち掘って困った」と2001年~2014年頃に地元
の人からわたしは聞きました。
 黒沢氏は、昭和47(1972)年に白川村を初来村し松古氏と会い帰雲城埋没推測地を探索した。
 昭和48(1973)年5月、白川村保木脇で(松古氏と)黒沢氏と、中央大学城郭研究会学生5人は公式
試掘<岩石種>調査(手掘り)を行い、庄川西川原を2m掘る。城山館に泊まる。5月25日、同メンバーは
10日間試掘する。黒沢調査団による公式な帰雲城試掘(手掘り)調査は、これが最初といえます。昭和48
(1973)年9月号の『歴史読本』に「飛騨山中に眠る謎の城」佐々著が掲載され、「発掘調査が、城郭
研究会に所属する人たちの手で行われた。白川村役場も協力して、埋もれた貴重な文化財が心ない昨今の開発に
よって損なわれることがないようにと、まじめな探査が進められている」、「発掘調査団の責任者である黒沢氏
によると、発掘に当ってもっとも留意したのは、まさにその城の位置であった」、「黒沢氏らは、国道西側の
発掘調査へと踏みきられたのであった」とあり、黒沢氏、松古氏と白川村役場の協力体制による文化財保護と
いう立場からの公式試掘調査であることが読み取れる。
 昭和60(1985)年10月27日(日)「帰雲400年・白川フォーラム」」開催され参加者約200人
が集まる。佐々氏紹介で城郭研究家の黒沢氏がパネリスト出席。この白川フォーラムが終わり、これをきっかけ
に帰雲城を調査する専門の団体を設けようという声が上がり研究団体が昭和61(1986)年11月1日、
岐阜グランドホテルにて帰雲城の歴史解明のため、来賓出席した岐阜県の梶原副知事の「帰雲城について夢と
ロマンのある話なので皆さんの今後の研究・調査に期待します」と激励の挨拶と、来賓としてお祝いにかけつけ
た白川村の和田村長は「帰雲城についてこのような会が結成され、大変ありがたく思っている。村としても引き
続き調査に取り組むが、今後とも皆さんのご指導を頂きたい」と白川村の後援を得て昭和61(1986)年
11月1日「ひだ白川・帰雲城を考える会」として発足し代表世話人を黒沢代表とした。
 平成5(1993)年4月1日付で「ひだ白川・帰雲城を考える会」は名称を新たに「白川郷埋没帰雲城
調査会」(黒沢会長)と改称した。1999年平成11年11月、黒澤著『幻の戦国武将』発行。<出版に
際して4000枚の原稿を480枚に絞ったエピソードあり。NBK2階図書室にこの原稿の一部分展示あり>
1999年平成11年11月20日、白川郷文化フォーラム'99開催、主催白川郷文化フォーラム'99
実行委員会「内ヶ島氏と中世白川郷」開催される。2005年平成17年11月、白川郷埋没帰雲城調査会
黒沢会長他界。2006年平成18年、故黒沢会長所有、帰雲城関係資料を整理して「黒沢資料目録」は完成
したので白川村に寄贈。

 「神田氏」(岐阜県)
 考える会世話人幹事(役員)、調査会会員、2026年現在調査会元会員。神田卓朗氏は当時、岐阜放送
アナウンサー。(当時、岐阜ラジオ放送ヤングスタジオ1430DJ)元岐阜女子大学教授。考える会当初の
会報作成に携わった。絈野教授らのトレンチ調査や、帰雲400年・白川フォーラムを岐阜放送テレビ取材
した人物。
 昭和60(1985)年10月27日(日)「帰雲400年・白川フォーラム」開催される。主催白川村・
白川村教育委員会。講演1金沢大学絈野先生「400年前の帰雲大崩壊について」、講演2宇都宮大学柿崎
先生「嘉念坊と城主内ケ島について」、講演3金沢大学安達先生<のちの調査会会長>「城主内ケ島の系図
及びその歴史について」講演あり。<このフォーラムを岐阜放送テレビは取材している>
 昭和61(1986)年8月9日、岐阜放送(37CH)で「埋もれた城」PM0:30~1:30がTV
放送される。放送内容は、「伝説の帰雲城である。帰雲山(標高1473m)。研壁氏と城郭研究家林氏が出
演。昭和60(1985)年5月19日、<白川村の依頼により金沢大学理学部絈野教室が保木脇で重機を
使った試掘調査の>下段試掘地と上段試掘地の様子。T建設社長田口氏の話。昭和60(1985)年6月
3日、上段試掘地の様子。昭和60(1985)年10月27日、<保木脇の>慰霊観音像建立除幕式の様子
と、<観音像前での>追悼法要の様子と、平瀬中学校で「帰雲400年・白川フォーラム」の様子と白川村
和田村長と、金沢大学絈野教授の講演と、安達先生の講演と、作家生駒氏・宇都宮大学柿崎教授・城郭研究家
黒沢氏・ハインツアルバ氏・内ヶ島氏・市村氏・高島教育長のインタビュー、などです。この「埋もれた城」
番組のレポートインタビューは神田氏です。
 昭和61(1986)年11月1日「ひだ白川・帰雲城を考える会」発足。
 2015年平成27年11月1日「篝火」№140秋冬号発行 岐阜よもやま話№9 白川郷に眠る「幻の
帰雲城」神田氏著 6~7頁。『こんな話知っとんさる?おもしろ岐阜学入門』著者神田氏.風媒社.2024年11月30
日発行.<本会神田元会員著書で、140ページ目から26ページに及び帰雲城調査を時系列に紹介しており
テレビ愛知の掘削調査をのちに取材、なんと2024年遺構らしき現地調査最新情報まで取り上げている帰雲城
調査年表必須バイブル>神田氏と本会事務局とのパイプライン現在もあり。

 「安達氏」(石川県)
 考える会会員。調査会会員、会長、顧問。安達正雄氏は元金沢大学工学部助手.北陸歴史研究会会長.石川
郷土史学会会員.木舟城跡保存会で木舟城の講師を務める.学術論文や研究報告書を発表.天正地震研究の学識者
で論文を発表した.「木舟城哀歌」の作詞安達永真(正雄)をした.歌手北野ゆき、制作協力木舟自治会、制作
木舟城跡保存会.安達氏は帰雲城と木舟城に関する幾つもの論文を発表した帰雲城学術研究の第一人者。帰雲城
の学術研究論文を最初<昭和51年1976年>に発表した人物。
 安達氏は、昭和38年(1963)頃、TVを観て帰雲城のことを初めて知ったそうで、当時TVで帰雲城
について話していたのが松古さん(と後にわかった)だそうです。1972年昭和47年6月に佐々著
『まぼろしの帰雲城』の書籍を読んで安達氏は帰雲城に興味を持ち、帰雲城の史料を集め始め、当時は市町村
史編纂が盛んで、面白いほど帰雲城の史料が集まったそうで1976年昭和51年には早くも、金沢大学
日本海域研究所報告第8号安達著『白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」』学術論文<論文1つ
目>を発表しました。この論文は、帰雲城について当時まだ概要が明らかでないなかで最初に述べられた学術
研究論文を安達氏は発表しました。(次、論文省略)1977年昭和52年10月25日毎日新聞記事「夢の
帰雲城 地下に眠るか」<この記事で、当時の帰雲城調査研究会のメンバー、松古氏・安達氏・中川氏・研壁
氏が載っている。この記事は、安達氏の氏名が載った最初の新聞記事>
 昭和54年(1979年)頃に白川村は帰雲山の崩壊土砂と帰雲城の件で「学術調査」を実施することに
なり、安達氏は金沢大学地質学研究室の絈野教授をご紹介し、以後の「帰雲400年フォーラム」に繋がる。
 昭和60(1985)年10月27日(日)「帰雲400年・白川フォーラム」開催される。主催白川村・
白川村教育委員会。講演1金沢大学絈野先生「400年前の帰雲大崩壊について」
 1986年昭和61年11月1日、「ひだ白川・帰雲城を考える会」発足。<発足記念総会で、安達氏は
「城は木端微塵」と新説発表。安達氏は、考える会発足当初からの会員>
 1993年平成5年4月1日名称を新たに「白川郷埋没帰雲城調査会」と改称。<調査会安達会員>
 1993年平成5年9月1日、岐阜新聞記事「幻の帰雲城 上 安達正雄」掲載。<この記事は、安達氏が
帰雲城は保木脇字(小字)帰雲川原にあったとほぼ確定した重要な記事発表>2005年平成17年5月13
日、帰雲城調査会総会、地質学講演会講師坂部先生『享保年度山林絵図面に見る天正地震時の大規模山体崩壊と
土砂移動について』、『天正地震時の飛騨白川郷における大規模山体崩壊による庄川の堰き止めとその浸水域』
開催。白川村鳩谷、鳩谷コミュニティー会館にて、旅館城山館懇親会宿泊<調査会竹田事務局の奔走と幹事方の
協力により、2005年から白川村において初めて帰雲城調査会は講演会を行った第1回目で、白川村谷口
村長、白川村成原教育長、白川村商工会山越会長に来賓祝辞を賜った>
 2005年平成17年11月28日、調査会黒沢会長他界、会長不在。<佐々木会長代理に>
 2006年平成18年5月8日、調査会会報№36発行。この会報に『帰雲城と内ヶ島氏に関する年表
(18ページ)』資料を同封。会員へ配布した。2006年平成18年5月27日、調査会総会、講演会
講師 安達先生『帰雲城と内ヶ嶋氏について史実を探る』講演開催。来賓祝辞白川村谷口村長。鳩谷コミュニ
ティー会館にて。白川村牧みぼろ山荘宿泊。<当時、安達会員で本会講演会講師に初めて講演いただきま
した。本会の安達氏講演1回目です。この講演内容は、史料からみる天正地震、帰雲城の位置、城下町の位置、
帰雲城主内嶋氏4代小史、「帰雲城の七不思議」、系図、ほかまで安達氏のユーモアある個性的な書き方が
読み取れる報告書で、安達氏は本会用にこの講演用資料を作成したそうで作文と話しておられましたが、
多項の考察と構成が中々面白い報告書でした>
 2006年平成18年、調査会幹事(役員)8~9名が金沢において安達氏と会い、会長職をお願いして
了解頂けた。2007年平成19年5月19日、調査会総会、講演会開催。白川村鳩谷、鳩谷コミュニティー
会館にて(安達会長就任)<安達氏に会長就任いただけました>2007年平成19年12月3日発行、石川
郷土史学会々誌、安達著「五箇山文献に秘められた飛騨・内ヶ嶋氏の史実について-五箇山と川上三箇庄の
一部は室町末期、実は内ヶ嶋氏の領地だった-」
 2009年平成21年3月5日、調査会が収集した帰雲城の資料を1冊にした『帰雲城と内ヶ嶋氏に関する
資料総集編』(872ページ)を白川村谷口村長に寄贈。<安達会長より872ページのかなり貴重な帰雲城
資料1冊を今までお世話になった白川村に寄贈してはどうかということで白川村に寄贈しました>
 2009年平成21年5月16日、調査会総会、講演会講師安達会長『天正大地震と活断層について』、講師
美濃白山長瀧神社宮司、若宮多門先生『阿名院院主<内嶋>道雅のこと(内ヶ嶋家系道雅について)』開催。
 来賓祝辞、白川村谷口村長、白川村成原教育長、白川村商工会山越会長。白川村飯島、白川村総合文化交流
施設。旅館城山館懇親会宿泊。
 2009年平成21年10月31日、調査会、保木脇旧白山神社跡裏鬼門方向の山岳(標高約1270m)
現地調査を実施<この山岳(標高約1270m)から鬼門に旧白山神社があったことから、安達会長が根拠を
提唱した明確な理由からの本格的な学術調査を実施した第一歩となった>
 2010年平成22年5月15日、調査会総会、講演会講師安達先生『松古孝三氏テレビ出演時の録音テー
プ拝聴』、講師美濃白山長瀧神社宮司若宮多門先生『中世白川郷における宗教史』開催。来賓祝辞、白川村
谷口村長、白川村成原教育長、白川村商工会山越会長。白川村飯島、白川村総合文化交流施設、旅館城山館
懇親会宿泊。
 2015年の調査会金沢会議で「①帰雲城の夢とロマン」を求め、「②帰雲城の真相部分」に迫る学術調査
研究の2本柱で今後調査会は行くと決定した。
 2016年平成28年3月31日、安達会長辞任<病気で体力の衰え、会議打合せ等の職務が困難な場合が
あるのでと辞任された。安達会長に、2007年平成19年4月1日から2016年平成28年3月31日
までの9年間会長職を就任された>
 2017年平成29年4月1日付、安達顧問就任<顧問で了解を得て就任いただきました>
 2018年平成30年4月、白川郷埋没帰雲城調査会、安達顧問逝去<顧問就任1年で>

 「佐々木氏」(岐阜県)
 考える会会員、幹事。調査会副会長、幹事、事務局、会長代理、会員。帰雲城に関する資料を集め、現地
調査をし、聞き取り調査をしていた<現場体当たり主義>人物。ここでは「村上良行氏」なる人物はほとんど
登場しないが、じつは佐々木氏は村上氏と共に帰雲城調査やあちらこちらの調査を独自で調べていました。
 昭和47(1972)年6月『まぼろしの帰雲城』佐々氏著書発行。
 まずは、村上氏について、昭和53(1978)年10月10日、白川村役場が発行している『広報しらか
わ』に村上氏著「白川郷帰雲城の謎第1号」が連載開始される。<連載文中にある誤字は、あえて修正して
いません>村上氏の作者紹介(広報しらかわ掲載原文のまま。昭和53(1978)年10月10日)「鹿児
島おはらなどの作曲で有名な名古屋市の村上さんは白川村の民謡を作曲(譜に表す)したいと来村。そこで、
荻町区の西野さんと親しくなり、そうこうしているうちに帰雲城に興味を持ち書いてみたいということになっ
たようです。村上さんの友人、加藤さんも帰雲城の埋没跡を発掘したいと加わり、2人は真剣に取り組みはじ
めました」この第1号掲載は、「1978年6月の小雨ふる25日、私は知人の紹介で白川郷民話作家西野
氏をはじめて訪問した。(略)西野説は保木脇の対岸帰り雲山麓<白川村木谷現在の帰雲山1622mのこと>
とし、松古説は国道156号線側三方崩れ山麓<白川村保木脇字返り雲山1402mのある麓>と説明を受け
た。私は迷った。内ヶ嶋の出自にしても意見が真二つに別れていた。西野氏は西園寺説をとり、松古氏は楠木
説を唱えていた。私はますます迷った。「こりゃ始めから、やり直しだワ、つづく」などの内容です。上記の
連載は「昭和55(1980)年6月10日『広報しらかわ』村上氏著「白川郷帰雲城の謎第19号」まで
白川村の広報誌で帰雲城が19回連載される。
 昭和54(1979)年1月21日週刊読売「WIDE NEWS「白川郷伝説」時価数千億の埋蔵金探し「帰雲城」
の伝説」が掲載される。「作曲家で地方史研究もしている村上さん」、「従来、帰雲城の埋没地点は庄川の
左岸<保木脇>が定説だった。が、村上さんらは、反対の右岸説<木谷地区>を採用することにした。その
理由として、1山崩れで大きく陥没した跡がある。2そこから庄川まで山のウネが続き、山津波を想像させ
る。3当時の城はせいぜい城郭程度で、山腹にあったと考えてもおかしくない。4左岸はダムの導水工事で
かなり深く掘った<保木脇上段田口骨材プラントの以前の地面は、御母衣ダム発電後の水を流す導水管の工事
の穴掘りがのちの田口プラントと同じ場所(地面)で工事されていたとわたしは聞いた>ことがあるのに何も
出ていない、などから」、「この5月の連休に山歩きを計画していますが、新緑の中を中世の謎にいどみながら
宝探しをするなんて健康にもいいし、まさしく一石二鳥。仲間は最低20人ぐらい欲しいんですが、参加しよ
うという物好きな人はまだ10人前後。希望があれば参加してください」、「私の本当のねらいは、悲運の
内ヶ嶋氏の主従数百人を成仏させ、正史から欠落しているこの悲劇を歴史の上に残すことなんですよ」
 上記で、「5月の連休に庄川右岸で調査をするので、<日本の歴史探索会は>希望者を募っている」という
募集文を佐々木氏は見て参加応募したそうです。
 1979年昭和54年2月、松三氏他界。<↓つぎに庄川右岸で発見がありました>
 昭和54(1979)年5月5日、AM9:30ごろ、「日本の歴史探索会」<村上氏ら含む>23名が
現地調査を行い<庄川>右岸<山麓>にて、人工的な石積みを発見した。
 昭和54(1979)年5月28日中日新聞記事に「日本の歴史探索会現地調査」が掲載される。この
記事は、「岐阜、名古屋市などの郷土史研究家で作っている「日本の歴史探索会」の有志は27日、大野郡
白川村保木脇に約400年前から伝わる帰雲城に絡む<庄川右岸の>現地調査をした。この日の現地調査は
同会単独のもので、会長の名古屋市の村上さんや多治見市の佐々木さんら7人が参加。(略)途中で雨が
激しくなり約1時間で切り上げた。このため、新たな発見はなかったが、リーダーの村上さんは「山中には
石積みや庭園跡を思わせる大石などが随所にあり、城跡といわないまでも、豪族クラスの遺物と確信して
いる。今後も全体像をしっかり調べていきたい」といっていた。なお村教委は近く現場周辺の雑草刈りをし、
石積みなどの見取り図作成を進める予定」などの内容です。
 昭和60(1985)年5月、白川村の要請で金沢大学地質学部絈野教授らが学術調査をおこなう。庄
川西2カ所<保木脇>でユンボ<重機>によるトレンチ<断層>調査を実施。
 昭和60(1985)年10月27日(日)「帰雲400年・白川フォーラム」」開催。主催白川村・白川
村教育委員会。
 昭和61(1986)年11月1日、「ひだ白川・帰雲城を考える会」発足。(佐々木会員、幹事)
 1993年平成5年4月1日考える会は名称を新たに「白川郷埋没帰雲城調査会」と改称。(佐々木副会長)
 1993年平成5年8月1日、立光学舎(岐阜県郡上郡八幡町)「語りとシンポジウム 帰雲城と黄金伝説」
開演、を佐々木副会長は見に行った。
 1994年平成6年4月11日『保木脇の何処まで水がついたか』調査報告書.佐々木氏.
 1994年平成6年8月6日・7日、浄瑠璃史劇「幻の帰雲城」開演、を佐々木副会長は見に行った。
 2004年平成16年10月31日「白川村M地区の古老O氏に聞く 白川村保木脇のこと」聞き手、佐々
木氏.
 高橋事務局は病気の為、野田事務局を選任したが、体調不良により辞退したので2005年~2006年
まで佐々木事務局に委任し会報発送を担当。<2007年から、竹田事務局を選任>
 2015年平成27年12月30日『保木脇地区について聞く』聞き手記録、佐々木氏.
 佐々木副会長はとにかく帰雲城に関する情報をよく調べて知っており、もちろん資料を集め、あちらこちらの
現地調査をしたり、聞き取り調査をしており、わたしは帰雲城資料を佐々木副会長からよく借りてコピーさせ
てもらいました。佐々木氏は聞き取り調査した内容をよく知っているので、わたしも聞取り調査をすることに
したのでした。「佐々木氏談:資料は沢山になるとどこに何があるのか分からなくなるで、1冊にした方が
いいよ」と、アドバイスをもらい、しばらくしてからわたしは資料を1冊に閉じるようにして完成したのが
「資料総集編」で、2009年平成21年3月5日、調査会として帰雲城の資料を1冊にした『帰雲城と
内ヶ嶋氏に関する資料総集編』(872ページ)を白川村に寄贈しました。帰雲城に関する資料の要点を1冊
にしたのが記念誌でこれもやはり佐々木副会長の助言により完成したのでした。

 「高橋氏」(岐阜県)
 考える会幹事(役員)、1990年から考える会事務局、調査会事務局、幹事、会員。平成元年(1989
年)4月2日、高橋氏ら帰雲山中腹崩落面まで登る。長年、高橋事務局は会報作成発送、スケジュール管理、
会長と会報挨拶分のやり取り修正、宿泊地手配を行った人物。2004年、高橋事務局は胃の病気で辞任。
平成27年(2015)7月、高橋前事務局、他界。当時、高橋事務局の書いた会報は読んでわくわくする
内容でした。晩年、高橋さんに会報作成時の逸話を聞いたところ、「毎年会報を楽しく書いていた」と話され
たのが最後の会話となりました。

 「TD氏」(当時、愛知県)
 考える会会員、幹事。調査会会幹事、事務局、会員。調査会TD幹事は、本会を活動面でも運営面でも
ものすごく盛り上げた人物。黒沢会長、安達会長との連絡打ち合わせを担当。本会NM会員(愛知県)らが
所有する白川村牧字中川原にある「みぼろ山荘」(2階立て洋風別荘)を、TD幹事が交渉して本会で
(無料)使用OKとのことで利用させて頂いて、2001年平成13年9月15日(祝土)、みぼろ山荘
(別荘)開きをする。TD幹事はみぼろ山荘飲食調達係担当。みぼろ山荘を2010年平成22年11月まで
9年間本会で利用させて頂いた。その後、持ち主のNM会員らはみぼろ山荘閉鎖、売却。(現在、さら地)
 TD幹事は2005年からの白川村での本会行事の講師依頼、来賓依頼と奔走した。<白川村で幹事方も
協力>事務局を2007年は竹田事務局が担当した。

 「野田事務局」(岐阜県各務原市)
 調査会会員、幹事、広報、事務局。2000年平成12年6月10日に帰雲城調査会の会員になる。まずは、
帰雲城に関する資料等を全部読まないと理解できないことから、資料等を集めることに専念する。2001年
平成13年9月15日(祝土)、調査会でお借りしたみぼろ山荘(別荘)開きに参加する。<本会でみぼろ
山荘利用の場合、必ず現地調査を実施していた。みぼろ山荘は調査会の白川村での活動拠点で大人の秘密基地
みたいだった。宿泊時、夕食でまずは乾杯、呑んで「帰雲城のロマンを皆さん熱く語り」ロマンの追求は尽き
ないのであった。みぼろ山荘での会員の皆さんの表情はまるで子供のような無垢な笑顔だった。大人の秘密
基地、みぼろ山荘>みぼろ山荘宿泊は1泊2日、2泊3日だった。野田はみぼろ山荘管理担当。(春に山荘
開き水道蛇口閉め、水道止水弁閉じ、水道メーターバルブ開く、室内そうじ。秋に山荘冬じまい戸締り、水道
メーターバルブ閉じ、水道凍結防止用止水弁開放する、水道全蛇口開放、ブレーカーOFF)
 事務局を2008年~2009年まで野田事務局が担当。2015年秋から<2026年現在>野田事務局
担当。帰雲城に関する資料の要点や、聞取り調査証言、活動記録はPCに打ち込み文字(エクセル・ワード)
化しておいた。<ので、今までの記録等は「①コピー」、「②貼り付け」するだけで比較的簡単にできるので
ある>

 「OR氏」(岐阜県)
 調査会会員、幹事、事務局、会員。事務局を2010年~2015年春までOR事務局が担当。みぼろ山荘
料理担当。

 「高島教育長」
 当時、白川村教育長。考える会会員。調査会会員。
 昭和60(1985)年5月、白川村の要請で金沢大学地質学部絈野(かせの)教授らが学術調査をおこ
なう。庄川西2カ所<保木脇>でユンボ<重機>によるトレンチ<断層>調査を実施した時、高島教育長で
当時の事情に詳しい。
 昭和60(1985)年10月27日(日)「帰雲400年・白川フォーラム」開催。主催白川村・白川
村教育委員会。で、高島教育長が主催担当した。
 昭和61(1986)年11月1日、「ひだ白川・帰雲城を考える会」発足。
 平成元年(1989年)4月2日、高島氏ら帰雲山中腹崩落面まで登る。

 「小林氏」(東京)
 考える会昭和62年1987年から会員。調査会会員、幹事。調査会のムードメーカーで、保木脇上段53
鉄塔南西にてスコップで手掘り調査を数回した人物。(深さ約2m程度、何年頃から掘り始めたのか不明)
 昭和47(1972)年6月『まぼろしの帰雲城』佐々氏著書発行。
 昭和52(1977)年夏ごろ、東京の小林氏が都内で待ち合わせをしていると、まだ時間に余裕のある
ことから目の前にある書店に入り、「昭和47(1972)年6月発行『まぼろしの帰雲城』佐々氏著」が
目に入ったので買う。それから数ヵ月後、帰雲城のことを聞きたいことから車で白川村へ向かう。「松古氏は
白内障かなにかの病気だったと」双方の話から、
 「小林:帰雲城の本を読んで来ました小林です。今晩は一泊お世話になります」
 城山館の女将:よくおいで下さいました。スコップとバケツを東京から持ってこられたのですか?
 「小林:はい、そうです」
 この東京の小林氏は、それから毎年2回程度白川郷を訪れ保木脇上段53鉄塔南西で帰雲城の手掘り発掘
調査を1994年頃まで行っていたそうです。
 昭和61(1986)年11月1日、「ひだ白川・帰雲城を考える会」発足。
 小林氏のテレビ登場は、
 平成3(1991)年8月7日毎日テレビ放送「地球発19時、帰雲城の埋没金時価2兆円」」と、
 平成5(1993)年5月4日CBCテレビ放送「名古屋発新そこが知りたい、中部の財宝、帰雲城」と、
 平成6(1994)年3月26日中京テレビ放送「体感ワンダフル日本、金、帰雲城」の計3本にTV
出演しました。<スコップに布を巻いて新幹線に乗るシーン>2024年3月、調査会小林会員他界。

 「今井氏」(岐阜県)
 調査会会員、幹事、会員。2000年、本会会合の時の一人一人の自己紹介で「山登り、石集めが趣味」と
話されていました。今井会員は保木脇上段で遺構らしき場所を発見した人物。
 2018年平成30年10月23日(火)午前、今井会員ら(佐々木会員、小林会員、計3名)が保木脇
上段田口プラント北の調査を実施しました。各々思う場所を調査し、今井会員がとある場所に立ち、地形を
調査すると遺構に思えたので下山して2名に報告して昼食後の午後、そのとある場所(標高622m地点)に
向かい3名が調査して、遺構に思える地形を確認しました。<のちの帰雲川原城跡>

 「M・R氏」(岐阜県、当時宿女将)
 考える会会員。調査会会員、幹事。調査会でもよく宿泊した白川村の宿の女将で当時、黒沢会長、佐々氏、
小林氏がよく宿泊していました。
 昭和48(1973)年5月、白川村保木脇で(松古氏と)黒沢氏と、中央大学城郭研究会学生5人は公式
試掘<岩石種>調査(手掘り)を行い、庄川西川原を2m掘る。この時、宿の女将は黒沢調査団に「昼食のおに
ぎりを持って行ったと」聞きました。2019年平成31年2月、M・R幹事他界。
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 ②、みぼろ山荘について(調査会活動拠点、大人の秘密基地)
 調査会で使用させて頂いた「みぼろ山荘(別荘)」について紹介します。

 わたしは2000年平成12年6月10日に帰雲城調査会の会員になりました。調査会では会員方が白川郷
で集う場所はないか探していると調査会NM(愛知県)会員(ら所有別荘)は白川村に数年間使っていない
別荘があるので無料で使ってもらってよいと申し出、TD幹事が交渉してNM会員の御厚意により2001年
9月から別荘を使わせて頂くことになりました。この別荘を我々は「みぼろ山荘」(標高636m、白川村牧
字中川原)と呼ぶことにしました。(下記、当時の活動記録メモから)

 みぼろ山荘開き 始めて別荘の中に入る
 2001年平成13年9月15日(祝、土)曇り雨18℃朝、みぼろ山荘に我々調査会会員7名は初めて突入、2階
建て洋風建築でかい別荘だ。数年間使っていなかったみぼろ山荘にて人が住めるよう準備を始める。まずは勝手
口までの草刈りを手刈りする、汗まみれになるあつー。水道メーターの元栓を開くが水の出がわるい。2階の
寝る部屋(飛騨の間)を掃除。食堂を拭き掃除。食器洗い。トイレ掃除。廊下掃除などを行う。夕方水道なお
る。電気はきていないのでランタンと懐中電灯で灯りとり。ガスはカセットガスコンロを使用する。食堂は
戸板が外してなくて真っ暗なので、明かりの入る天井の高いホールにつくえいすを持ってPM4:00から
7名乾杯夕食。文明のないランタンの灯りの中で過ごすのも、なんか新鮮である。きゅうり、ソーセージ、
とうふ、柿ピー、とある緑缶詰。OR会員が持ってきた落花生ゆで、アスパラ、さといもしょうがじょうゆ、
うまーい。電気(電灯)のないという貴重な文明から離れた時間を味わい楽しむ。PM11:00お開き、寝る。
(電気なし、水道使用OK、カセットガス使用)
 9月16日(日)、昼過ぎに電気は開通して、室内は明るくなった。冷蔵庫は何とか冷えているOK。一夜限り
の原始の生活から電気文明に戻る。PM3:30帰路。(電気開通OK、水道OK、カセットガス使用)

 みぼろ山荘に泊まると必ず現地調査する
 みぼろ山荘に宿泊した翌朝の2001年10月13日(土)、調査会会員10名集まり白川村保木脇字返り雲山に
ある「仮称3つの丸円」場所の測量を実施した。測量班は10:00ごろ2台の車で出発した。みぼろ山荘にて
TD幹事とわたし(野田)2名は昼食の支度、おにぎり11。熱いお茶は?、電気ポットにお湯を入れて走る
11:30ごろ。2名は弓ケ洞砂防堤から歩く。電気ポットを持って第57鉄塔から斜面を登る。草木が高く
生い茂って歩きづらいと思ったが、そうでもなかった。測量中のみなさん発見、ちょうどいい時間、昼食。お
にぎり2、たくわん2、熱いお茶を注ぐ。昼からも測量、気になる「丸円」に案内してもらう。計10名。そ
こだけ平ら、ゆずり葉がかたまってある12×12、57中央円。今日のこの場所の測量は終わり、下山。
 TD幹事とわたしは一足先にみぼろ山荘へ向かって夕食の用意を、と山荘に入る所でもたもたする車が、こ
の車はM・R会員だ。またいい具合で出くわしたものだ。みぼろ山荘敷地内まで誘導する、3:15。つくえを
片づけて、厨房にて準備。食堂(兼会議室)にて焼き肉の用意OK、5:00バーベキュー、コンロに火を入れて
お肉のせ、焼けた所で佐々木副会長の挨拶、かんぱ~い、みなさん食べ、呑んででき上がりながら、M・R会員
の古き為になるお話し<ビデオ記録あり>を聞く。午前様ぐらいにお開き。それからというもの、帰雲城現地
調査の際にみぼろ山荘に前日泊まり、当日泊まり(1泊2日や、2泊3日した)帰雲城史料を持ち寄り、会員の
皆さんと帰雲城のロマンを熱く語り話題は尽きない。白川郷での帰雲城調査会の活動拠点、大人の秘密基地、
前線基地として至福の時を過ごしみぼろ山荘(別荘)ライフという時間を気にせず過ごさせて頂いたので
ある。このみぼろ山荘では、ご厚意により2001年~2009年頃まで約8年間何回(延べ30回以上)
も調査会で利用させてもらって「別荘ライフ」を十二分満喫したのであった。今振り返ると、みぼろ山荘
(別荘)春秋の晴れた昼間は長袖で過ごし快適であった。しかし、5月上旬でも朝晩はもう寒いので石油スト
ーブを点けたことがあった。10月上旬晴れた朝晩は寒いのでやはり石油ストーブを点けた思い出がなんとも
懐かしい。調査会の活動拠点、大人の秘密基地、前線基地としてみぼろ山荘(別荘)ライフに感謝。
   

 帰雲城調査会の活動拠点「みぼろ山荘」(白川村牧字中川原)と間取り図.

 みぼろ山荘の歴史
 ところで、帰雲城の調査研究をしていると、白川郷の歴史や文化も研究する必要があり、この中で御母衣
ダムに関しても調べることとなり、ここで「みぼろ山荘以前の姿」を資料や文献、地図、御母衣ダム水没前に
住んでいた(現在岐阜市在住)方を訪ねた聞取り調査した内容結果から白川郷と電力供給急務による国策で
ある御母衣ダムの歴史を交え、「みぼろ山荘年表史」として紹介したいと思います。

 「みぼろ山荘年表史」
 明治初年まで荘川村大字海上より庄川上流地方を上白川郷と呼び、白川村大字尾神より庄川下流地方を
下白川郷と呼んでいた.
 1925年大正14年、ラジオ放送開始.
 1927年昭和2年2月25日、荘川村の黒谷校下・同26日新渕校下・同27日中野校下に始めて電燈がついた.
 然し六厩地区その他一部に会社は言を左右にして約束を履行しなかった.今までのあん燈やランプなどの
照明から便利な電気に変わる.
 1927年昭和2年6月より荘川で電話加入者が増加し郵便局で電話交換事務が開始される.
 1934年昭和9年、越美南線北濃駅まで開通する.
 1935年昭和10年頃まで、富山方面から白川村へ搬入する生活物資はボッカ(歩荷)により城端~鳩谷間50
kmの行程を2日もかかり運んでいたという.ボッカによる物資の移動は昭和10年頃まで続いていたようで
ある.
 1938年昭和13年、荘川村六厩・中野に郵便局が開設された.
 1939年昭和14年~15年にかけても豪雪の年であった。1月29日保木脇を襲った大雪崩によって16人が
圧死した.
 1943年昭和18年、日本本土決戦に備え荘川村新渕の脇洞山頂(新渕城跡)に監視哨を設け、敵機の来襲を
見張った.
 1949年昭和24年末、白川村でほぼ昭和24年末までに全戸点灯となった.一部の家屋を除く各戸はわずかに
10W1個の点灯であったが、これまで灯油ランプなどの乏しい光による生活を余儀なくされていただけに
住民の喜びは格別であった.
 1950年昭和25年6月、大野郡白川村加須良に外界からの電灯線なし(自家発電除く)未だ電灯もなければ
ラジオもなし.石油ランプを用いたり、松明を燃して照明とした.加須良集落に学校(小学1~中学3まで)
あり、先生は集落内の住職1人で教える.オルガンなし.
 1951年昭和26年8月、日照開拓地、16戸40人が入植して開墾中.
 1952年昭和27年4月、中野小学校に、田下昭夫教論赴任する<この時の中野小学校の場所は、光輪寺から
東南東の庄川のかんこ淵の脇に旧中野小学校があった>
 1952年昭和27年春頃、中野小学校増築.荘川村中野で(御母衣)ダム建設の噂が流れる.
 1952年昭和27年10月18日、日本国総理府告示第237号を以って国策御母衣ダムならびに発電所建設の件公表
さる.これが岐阜県庁を通じ飛騨地方事務所、荘川村役場を経て、地元住民に届くまでには相当の日子が費や
されたため、荘川村白川村住民の不満が高まった.
 1952年昭和27年秋、御母衣ダム建設開始.
 1953年昭和28年、御母衣ダム建設予定地点附近の地質に一部断層帯のあることがわかり、横坑・竪坑を河底
に掘り進めて綿密な調査と研究がされた。その結果当初予定されたコンクリートダムはS30,05ロックフィル
式に変更になる.
 1953年昭和28年、NHKと日本テレビがテレビ放送を開始した.当時勤労者世帯年収が31万円に対して
テレビは19万円と高く一般家庭では買えない高嶺の花だった.
 1955年昭和30年頃、白川村牧・御母衣・平瀬地区で屋根の上や近くの受信できる場所を選んでアンテナを
上げ数台のテレビを設置している.
 1955年昭和30年代前半、水田の耕起は、昭和30年代前半まで人力や牛馬で行っていた.牛や馬に鋤(すき・
プラウ)を引かせて耕し、まんがで代かきをしていたが、耕耘機がまたたくまに復及し、牛馬の耕起はみられ
なくなった.
 1955年昭和30年5月、御母衣ダム支流案等への計画変更の運動を展開するが、現地の調査所は必死になって
他の施工設計変更に踏みきり、ここに新工法としての「ロックフィル式ダム」となった.
 1955年昭和30年5月21日、通産省から御母衣ダム施工が発表される.
 1956年昭和31年、白川村大牧地区の鳩谷発電所が完成した.
 1956年昭和31年3月、御母衣ダム「ロックフィル式ダム」の着工の決意.電源開発藤井副総裁が地元をたずね
死守会の要望の支流案は、調査結果から経済効果の面で不可能であるから、是非この現計画に協力されたいと、
荘川村白川村地元住民の説得にあたられたが、説明に不満を抱く地元民との対立が激しく両者明るい兆しも
見えず終わる.
 1956年昭和31年、本格的に御母衣ダム工事開始.

 「みぼろ山荘の変移」
 みぼろ山荘(別荘)の前身は、御母衣ダム建設におけるアメリカのアトキンソン社指導のもと外国人
技術者の泊まる洋風山小屋「①2階建宿泊施設」であった。この宿泊施設が出来たのはおおよそ1956年昭和31
年頃で、当時専属コックがいたと聞いている。その後、御母衣ダムが完成すると、この宿泊施設は国鉄に渡り
「②国鉄スキーロッジ」施設として営業して施設前の広い場所は国鉄バス転回場だった。その後、一般に売りに
出され個人4人(のちの調査会NM会員と他3人)共同購入してしばらく「③個人経営スキーロッジ」として
営業していた。その後宿泊施設は閉館してしばらく無人別荘だった時にこの施設を購入した4人共同購入者の
1人が調査会NM会員だったわけで我々調査会メンバーが無料で利用させてもらうことになるのである。そし
て、2010年平成22年以降にK家へ売却され「④建物は取り壊されてさら地」となった。

 さて、建築後約45年も経っている昭和(中期)レトロ「みぼろ山荘(別荘)」に2001年平成13年9月15日に
初めて入った時のことを振り返ってみよう。外観は、赤屋根、エントツ、2階白壁、木材補強X型は山小屋の
特長、いかにも洋風別荘という感じである。中に入ると扉デザインは古きを感じ、蝶番(ちょうつがい)は
今はもう使われていない時代を感じ、通路床は板張り、内装壁は今までに見たことのない木材(ベニア板の
出来る前の木片を圧縮したような壁板)、洋風水洗便座レバーは横1本棒のかなり古い便座だった。階段
手すり下の木材は、おっ、TVドラマ「高原へいらっしゃい」で見た手すりっぽくカット細工されていて、
色はペンキ茶色(ブラウン、えび茶色、チョコレート色)でこれぞ洋風モダン別荘というおしゃれなデザイン
だった。それにしても、1956年昭和31年頃の充実していない資材で洋風を真似た内装をここまで仕上げたもの
だと思った。このみぼろ山荘の別荘は高原へいらっしゃい気分になれたのでものすごくうれしかったし、
何より白川郷の「みぼろ別荘で時間を気にせず過ごす」調査会の活動拠点、大人の秘密基地としての別荘
ライフはとても貴重な時間を過ごすことができてほんと楽しい別荘の空間と空気であったのでした。

(年不詳)巨大な御母衣ダム建設資材運搬にため、輸送を円滑にすべく、越美南線白鳥駅から牧戸までの所謂
百万円道路の補強改修工事をはじめ、牛丸~御母衣間15キロの国道付替工事には、巨額の費用が投ぜられて、
近代的偉容を誇る舗装道路が完成するに至った.
 1957年昭和32年、御母衣ダム建設に伴い牛丸~御母衣間15キロの付替道路が行われた.またダムの関係で
荘川営林署軌道代替林道尾上郷・六厩川・森茂・庄川各線合計29キロが完成した.
 1957年昭和32年6月、御母衣ダム本体工事着工となる。以後「幸福の覚書」の線に沿って交渉が進められる.
 1959年昭和34年9月26日、伊勢湾台風、22:30頃白山上空通過のため暴風雨、大洪水により荘川村では橋殆んど
流失、道路欠潰、交通杜絶。荘川村赤谷地区の赤谷橋半壊.
 1959年昭和34年11月23日、長かった御母衣ダム建設反対運動に心血を注いだ住民が、学校の講堂にて最後の
別れの宴を開く.この席に高崎元総裁も列席された.夕方、最後のお別れ会に出席された高崎氏・檜垣次長・
佐々木顧問の3氏が水没する学校周辺地域を案内してほしいと求められたので、建石会長・若山芳枝書記・
辻田清校長が同伴して案内される.元電源開発総裁高崎達之助氏が、水没地区の中野を散策されていて、ふと
足を止められて、目にされたのが光輪寺境内の一本老桜だった.照蓮寺にも赴き老桜を目にした。2本の桜の
老木<のちの荘川桜、荘川町海上地内>を水没から助けたい.湖面の上方に移植させたいと語る.
 1959年昭和34年12月21日、記録保存「御母衣アルバム」について最終的な編集会議.
 1959年昭和34~1960年昭和35年夏、御母衣ダム水没地域、一部水没地域住民名古屋市、美濃市、関市、高山
市、岐阜市その他の地方へ縁故を頼って移住した.
 1960年昭和35年、ラジオは昭和初期電灯がついてから逐次聴取率増加してきていたが、昭和35年までが
最盛で以後テレビの普及に伴い減少となる.
 1960年昭和35年、テレビは荘川村は普通アンテナでは殆んど聴視不可能で、昭和35年頃より比較的電波の
良好な場所を見付け3~4軒で共同アンテナを設置して画面の不鮮明の状態で聴視していた.昭和35年はじめ
て新渕に共同受信施設が設けられた.以後逐次各所に共同受信施設が出来る.テレビ台数調(昭和49年現在)
総数446台、カラー378台、普通68台.テレビ共同受信施設組合及所属台数新渕99、黒谷148、
牧戸75野々俣67、寺河戸15.NHKカラーテレビ放送を開始.
 1960年昭和35年9月30日、荘川村中野郵便局御母衣ダム建設により水没のため廃局.
 1960年昭和35年10月28日、荘川村中野小中学校完全閉校.
 1960年昭和35年10月、御母衣ダム建設が完了した.
 1960年昭和35年秋、秋の収穫が終わるとこれまで未解決だった35戸も補償がすべて解決して、わがふるさと
を後に新天地へと立ち去り、吹きすさぶ風に取り残された屋敷の石垣や囲炉裏跡の石積みが震えているのみと
なった.
 1960年昭和35年11月3日、文化の日に御母衣ダム2本の仮排水路を閉じ、高さ131m、堰堤上部の長さ405mの
巨大なロックフィルダムは、庄川の流れを完全にせき止めた<牛丸と尾上郷の一部と、岩瀬・赤谷・中野・
海上・尾神・福島の各地区水没し始める>
 1960年昭和35年11月15日、水没する荘川村中野の照蓮寺と光輪寺の2本の桜(のちの荘川桜)移植作業開始
(移植当時照蓮寺の桜は、既に高山市内の材木商に売却済になっていて、やがて木材として伐採されることに
なっていたので、早速これを電源開発が材木商から買い戻した)
 1960年昭和35年12月24日、荘川村海上地内に2本の桜(のちの荘川桜)移植完了.
 1961年昭和36年1月、御母衣ダム最大出力215000KWの約半分の発電で営業をはじめる.
 1961年昭和36年4月、移植された桜(荘川桜)に新芽がチラホラとついていた.
 1961年昭和36年5月、御母衣ダム雪どけ水による貯水池の満水をまって全出力で発電を開始した.
 1961年昭和36年5月、照蓮寺から移植した桜の細い芽の先に白い花を付け初めていた.光輪寺から移植した
桜の枝の先端にも幾本もの小枝の芽が出ていた.ダム完成後刻々と貯水量が増して満水は日時を待つ.
 1961年昭和36年5月、「水没記念碑」完成.
 1962年昭和37年6月12日、「水没記念碑」除幕式挙行.(水没記念歌碑 詩人・佐々木信綱作 高崎達之助
直筆[すすみゆく 御代のしるしと うもれても 荘白川の名を とこしえに])出席者約400名、荘川村
白川村地域住民・荘川田下村長・高崎達之助氏・笹部新太郎氏・丹羽政光氏・電源開発藤井副総裁・幹部役員
多数来賓のもと開催される.高崎氏は尚つづけて涙を浮かべ声をつまらせ次の歌を詠まれた.[ふるさとは 
湖底となりつ うつしこし この老桜咲けと こしえに] 高崎氏がこの2本の桜を『荘川桜』と命名された.
除幕式に住民が参加したその時、桜の木に巻いた「コモ」を突いて出始める桜の芽の偉大な力と姿に感涙する.
 1963年昭和38年5月、『荘川桜碑』の除幕式を挙行した.高崎氏は病床に伏し
て出席することができず住民達は残念がる.
 1963年昭和38年秋、校区全域8地域完全水没する.
 1964年昭和39年、東京オリンピック開催.テレビが爆発的に売れた.
 1965年昭和40年頃、昭和40年頃に手押し稲刈り機が入る.
 1966年昭和41年、荘川桜が県の天然記念物に指定される.
 1972年昭和47年5月、御母衣ダム湖畔中野展望台荘川桜下に集う.老若男女こぞって県内外に移住していった
ふるさと全員の集い.中野校下全住民12年ぶりの再会.
 1973年昭和48年頃、昭和48年頃から忽ちの内に機械田植えに変わってきた.そして田植えの時期も5月中旬
から下旬までとなり、1ヶ月ほど早く植えるようになった.
 1974年昭和49年、信号機が荘川村牧戸の三叉路で初点滅する.
 1974年昭和49年、荘川村中野にドライブインみぼろ湖を建設する.
 1980年昭和55年12月末~1月にかけ有史以来の記録的な豪雪となった(五六豪雪)自衛隊が出動.S55 12/30
白川村役場の降雪量355cm.S56 1/15には450cmを記録した.
 1981年昭和56年2月8日、荘川村六厩で日最低気温-25.4℃を記録.
 1995年平成7年12月、白川郷・五箇山の合掌造り集落、世界遺産登録決定.
 1998年平成10年8月15日、埼玉県の飛行場から飛び立ち、大阪府八尾空港へ向った個人所有の小型飛行機が、
白山連峰の別山附近でレーダーから消え、墜落した可能性が高くなった.高山警察署では白川村平瀬に対策
本部を置き、白山救助隊、警察、消防団、自衛隊が出動して捜索を開始した.連日の雨で捜索は難航したが、
18日に自衛隊ヘリコプターが尾上郷地内、三ノ峰山附近で墜落している機体を発見し乗員2名の死亡を確認
した.しかし、悪天候が続き遺体収容は20日になった.この事故での出動人員は警察官延301名、消防団員
延237名、ヘリコプターは3機でフライト回数は30回にも及んだ.
 1999年平成11年11月、東海北陸自動車道荘川IC~白鳥IC間開通.
 2000年平成12年、「郡上一揆」のロケが「荘川の里(荘川村新渕)」で行われる.オートキャンプ場が
御母衣湖畔で開業する.
 2002年平成14年、「荘川桜」NHKプロジェクトXで放送.
 2005年平成17年、市町村合併により荘川村は高山市荘川町になる.
 2008年平成20年7月、東海北陸自動車道白川郷IC~飛騨清見IC間が開通する.

 参考文献・聞取り調査
『荘川村史』上巻・下巻・続巻.
 『新編白川村史』上巻・中巻・下巻.
『御母衣ダムと荘白川地方の50年』浜本篤史編者.
『御母衣アルバム』記録保存写真.
『辛夷(こぶし)ふるさと回想 水没前の荘川村』田下昭夫著.1978年昭和53年11月集録完成.
 他、荘川村中野郵便局長Y氏へ聞取り調査(現在、岐阜市在住).

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