大戸家の民話伝説昔話

ここでは、大戸家に関する民話伝説昔話を紹介します。

 大戸家に関する民話伝説昔話について
                                                2014 H26 01 25
 岐阜県大野郡白川村御母衣小字上洞にあった大戸家に関する民話伝説昔話を紹介します。

 名笛白菊笙(めいてきしらぎくしょう)
 「その昔、帰雲城に地震がおきて、一瞬にして山崩れの下敷きとなる2ヶ月ほど前のことです。城内では城主をはじめ、家老や家来たちが集まって、仲秋の名月をみる宴がひらかれました。笛太鼓にあわせて、美女が舞いはじめました。この美女の名を白菊といいます。白菊は19才で笛の名人といわれ、また小姓の竹千代とは、お互いに将来を約束した仲です。今夜の宴での舞いは、白菊と竹千代でした。2人は、笛や歌にあわせて美しく舞っています。舞が終わると、不思議なことに笛が鳴らなくなってしまいました。 なんだか不吉な予感に竹千代は次の日、この横笛笙(しょう)の2種を京都へ修理に持って行くことにしました。京都に着いた竹千代は早速修理師にみてもらいましたが、少しも悪いところはありません。怪訝に思いながらそのまま持って帰ることにしました。途中、高山に寄って笙をあずけ横笛だけ持って白川郷へ急ぎました。
 丁度、御母衣へきたとき日が暮れやむなく大戸家に泊めてもらうことにしました。その深夜地震が起こり、大音響とともに帰雲城は壊滅してしまいました。竹千代は難からのがれ、そのまま大戸家で一生を終わったということです。」『白川郷の伝説と民話』26頁
 ↑の「名笛白菊笙」は、横笛が鳴らなくなって不吉な予感がして、その後に天正大地震が発生したことを書いている。そして、竹千代は難からのがれ、そのまま御母衣上洞の大戸家で一生を終わったということである。ここでは、難を逃れた竹千代と、横笛と笙が現存していることを伝えた民話のようです。白菊という女性が持っていた横笛は、白川村御母衣字上洞地区の「大戸家」にあるそうです。

 大戸家の薬師如来
 「昔、保木脇村に「久次郎」という医者がおりました。ある秋のことです。菊の花の咲きほこる庭先きを眺めていますと、ぽつんと紙包が落ちているのが目につきました。拾いあげてみて、久次郎は驚きました。中から、小さな仏像がでてきたではありませんか。そして、仏像と一緒に縁起書らしいものまで添えてあり、むずかしい漢字ばかりで読めません。久次郎は丁重に安置して、毎日拝礼していましたが、この縁起書をなんとかして読みたいものだと思いました。秋も深まり冬がきて、雪がチラチラと降る季節となりました。加賀の国から一人の旅僧らしい人が野谷の里にきて、雪に閉じこめられ、一週間余り滞在していました。このことを聞いた久次郎は、仏像と縁起書を持ってでかけて行き、旅僧にみてもらいましたところ、「これは、もと京都東山の高貴な方が念持仏としておられた薬師如来である。尊いものだから、大切に保管するように」と、旅僧は意外な顔付で教えてくれました。その尊い薬師如来が、どうして庭の菊花の上にあったのか、不思議としかいいようがありません。その後、久次郎は病気を治す妙を得ることができ、名医として大評判になりました。久次郎の見立ても良かったのですが、それにもまして薬の調合が良かったのです。薬の調合は、沢山の薬袋の口を開き適当に調合するだけで特効薬となり、どんな重病人でも奇蹟的に助かったということです。
 月日が流れ、天正13年の冬、大地震が起きて、保木脇村は一夜にして城もろとも全滅してしまいました。しかし、これも不思議なことに、小高い所の杉の切り株の上に、この薬師如来がすわっていたということです。また保木脇村の高台にあった一軒の農家だけが、地震に倒れないで助かりました。この助かった家の者が、杉の切り株の上の仏像をみつけ、「これは、久次郎医者の大切な薬師如来様だ。尊い仏様だ」といって持ち帰りました。さて、この仏像をどうするか・・・・・ということになり、相談の結果、御母衣村の大戸家医者に納めることにきまりました。これ以来、大戸医者は名医といわれるようになりました。今もなお、この仏像は大戸家に伝わって大切に安置、礼拝をつづけられていると伝えられています」『白川郷の伝説と民話』22頁
 ↑の「大戸家の薬師如来」は、天正大地震で保木脇村が一夜にして帰雲城もろとも全滅したことを書いて、薬師如来像を御母衣村上洞の大戸医者で大切に安置して現存していることを伝えた民話です。

 (白川村御母衣小字)上ヶ洞の八人塚
「平家の落人たちは、遠く人里はなれた山奥を選んで、仮小屋を作りかくれ住んでいました。はじめのうちは木の根・草の実で生計をたてていましたが、次第に開墾地を広め、数年足らずで百姓仕事がすっかり身につくようになりました。さて、源氏方では平家の落人さがしに懸命で、どんな山奥へも家来を回して探策にきます。ここは白川郷の山奥で、御母衣の上ヶ洞というところです。仮小屋を建て百姓になりきっている平家の落人の通称、太郎兵衛一家と、与惣衛門一家と、平兵衛一家の3家で、それぞれ平和に暮らしを営んでいました。
 ある日のこと、この山奥の仮小屋に、一人の小間物屋がやってきました。これは小間物売りに見せかけた源氏の探策方なのです。最初に、太郎兵衛の家に入ってきて、しばらく小屋の中を迂散くさそうにみまわしていましたが、「荷物を少しの間置かして下さい。私はこの先に忘れ物をしたので、取りに行ってきますから・・・」といってでていきました。太郎兵衛の奥さんは、さすがに、侍の奥さんだけあって、源氏の探策方とみぬきました。きっと仲間を連れに行ったに違いない。今に多くの武士が押しかけてきて私たちを殺すに違いない。そこで奥さんは、毒薬をせんじて待ちかまえていました。やがて、8人の武士がどやどやと太郎兵衛の家に入りこんできました太郎兵衛の奥さんは、慌てずゆっくりと、「まあ、お茶でも一杯飲んで下さい」と用意の毒薬を進めました。8人の武士たちは、この奥さんの落着いた様子に疑いを抱かず、お茶を飲んでしまいました。薬がきいて、武士たちは一人、やがて一人と、8人全部が横になって眠ってしまいました。そこへ、与惣衛門、平兵衛一家がびっくりして集まってきました。一部始終を聞いて、太郎兵衛の奥さんの機転にみな感謝しました。8人の武士はいくら時間がたっても目がさめず、翌朝、8人とも冷たくなって死んでいました。太郎兵衛たちは早速、大きな穴を掘って8人をそこにうめました。そしてその上に、大きな岩をおいて塚のようにしました。爾来幾星霜を経た今日、「八人塚」といって大きな岩が残っています」『白川郷の伝説と民話』102頁
 ↑の「上ヶ洞の八人塚」は、上洞地内に「八人塚」という塚があることを伝えた民話です。以前、上洞地区には大戸家と、大松家がありこの民話では大戸家のことなのかは不明です。この上洞地内にある「八人塚」の場所は、『新編白川村史下巻』134頁にあり、大戸家跡の奥(西南)になります。

 保木脇に関する聞取り調査から、大戸家に関する内容を紹介します。
 「白川村保木脇のこと」白川村O氏談2004(平成16)年10月31日、S氏記録
 O氏談:「保木脇の川原で木の株の近くに光る薬師如来像があった。御母衣上洞(あげほら)の大戸(おおど)家に薬師如来像をあずけた。大戸家はなげし造りで、侍が住んどって、上洞の下(しも)の崖で悪者が来ないか番をしていた」
 ↑の記録は、O氏のおじいさんやおばあさんから聞いていた話をO氏が語ったもので、何らかの経緯で大戸家が薬師如来像を安置していたのはまちがいないようです。

 白川村に関する聞取り調査から、上洞地区に関する記録を紹介します。
 「白川村のこと」白川村K氏談2011(平成23)年6月30日記録
 K氏談:「御母衣上洞(あげほら)に大戸(おおど)さんが住んでいた。上洞の八人塚は大戸家の近くで、神社と八人塚があり、この八人塚の石は正しく並んでいたが、云われは不明だと。大戸家に正宗の刀(参考:正宗は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した刀工と称される)が2振りあった」
 ↑の聞取りでは、大戸家に名刀「正宗」があったということである。

 まとめ
 以上、御母衣小字上洞にあった大戸家に関した民話伝説昔話では、天正大地震の災害を書きながらも、大戸家が昔武士だった様子や、代々古い高貴な品があった家であることを伝えている。だが、民話伝説昔話から真実の部分を読み解く必要性もあるのである。

 
        1930(昭和5)年頃の大戸家                 現在の旧大戸家住宅2013 H25 12 23

御母衣小字上洞にあった「大戸家」は、現在岐阜県下呂市森の「下呂温泉合掌村」(800円)に移築保存されています
 「旧大戸家住宅」白川村御母衣小字上洞(上ヶ洞)から岐阜県下呂市森の「下呂温泉合掌村」に移築。柱約24cm、囲炉裏3、江戸間畳12畳、床下約50cm、犬返し(上段)あり、切妻合掌造り屋根、半2階3ヶ所あり、右側面に障子小部屋あり

 旧大戸家住宅は、囲炉裏が3つあり台所の土間の囲炉裏が見どころです。仏壇の部屋に犬返しという段差があります。切妻合掌造り屋根民家の大きさでは、旧大戸家住宅はベスト4に入ります。

 切妻合掌造り民家大きさベスト4
 1、越中五箇山「岩瀬家」300円(富山県南砺市西赤尾町)間口約26m、奥行約13m、準5層、(切妻合掌造り屋根)現在居住で、室内の一部が見学できます。

 2、白川郷「和田家」300円(白川村荻町)間口約22m、奥行約13m、3層、(切妻合掌造り屋根)現在居住で、室内の一部が見学できます。

 3、白川郷「旧遠山家民俗館」300円(白川村御母衣)間口約22m、奥行約13m、4層、(切妻合掌造り屋根)台所以外、ほとんどが見学できます。

 4、白川郷「旧大戸家住宅」(岐阜県下呂市森)800円「下呂温泉合掌村」間口約21m、奥行約12m、4層、(切妻合掌造り屋根)大戸家は白川村御母衣字上洞から、岐阜県下呂市森の「下呂温泉合掌村」に移築。室内を見学できます。

 参考文献、聞取り
 『飛騨白川郷の風物』1950(昭和25)年初版発行
 『白川郷の伝説と民話』1972(昭和47)年、西野機繁著 発行
 『新編白川村史、上巻・中巻・下巻』1998(平成10)年発行
 『白川郷の神々と社祠略史』2004(平成16)年3月25日発行
 「白川村保木脇のこと」白川村O氏談2004(平成16)年10月31日、S氏記録
 「白川村のこと」白川村K氏談2011(平成23)年6月30日記録