中野照蓮寺跡と境内

ここでは、中野村照蓮寺跡に立った記録と、境内についての資料を紹介します。

 中野照蓮寺跡と境内について
                                          2014 H26 01 12
 中野村照蓮寺跡に立った活動記録と、境内の資料について調べてみた。


 1中野地区イラスト図
 上図は、御母衣ダムが完成する前の中野地区で、中野小中学校北に「中野照蓮寺」があった。中野照蓮寺本堂の正面(東面)は、少し北西面であった。現在、この場所は御母衣ダム湖左岸「みぼろ湖ドライブイン」から北の湖岸水面下が中野地区になる。
 ところで図に記してある照蓮寺と光輪寺の老桜だが、御母衣ダム建設で水没するはずだった中野地区の「照蓮寺と光輪寺の老桜」を、当時高山市内の材木商に売却済になっており、やがて木材として伐採されることになっていたので、早速これを電源開発が材木商から買い戻して、現在の「荘川桜」の場所に移されたのであった。昭和35(1960)年11月15日、中野の照蓮寺(海抜約721m)と光輪寺の2本の桜の移植作業が開始されたのであった。老桜を移動運搬に要する鉄骨や鉄板の機材や人力は、御母衣ダム本体の工事をしていた間(はざま)組が申し出た。ブルドーザー3台を使用して運搬のための道を作り、鉄ソリを作り巨大クレーン車2台を使用してコロの上をころがして引っ張り、作業員延べ500人余りがこの作業を手伝った。昭和35(1960)年12月24日、海上地内の湖畔(海抜約766m)に2本の桜の移植が完了した。日数は掘り起しから植え付け完了まで35日間を要したのであった。

 2012 H24 04 09(月)、白川郷へ資料調べに向かった。AM7:20御母衣ダム、国道156号線の岩瀬橋にさしかかるとダム湖水面が例年より一段と低いのが見てとれたので、もしかしたら「中野照蓮寺跡」を拝めるかもしれないと思い、急きょ湖岸を歩くことに決めて海上地区の荘川桜のある駐車場から、更に北にある駐車場に車を止めた。7:43、長靴の用意もなく残雪が残るなか駐車場から湖岸に向かうと、いきなり、おやレールが湖底に向かって延びているぞ。レール幅は約1.6~1.7mだ。鉄道用レール?・木材運搬用軌道?、何のレールだろうか。分からなかった。(後日確認すると、御母衣ダム湖底に向かって延びていたレールは、ダム湖へ点検用の船を上げ下ろしするためのレールだと分かった)何より十何年御母衣ダム湖岸道路を走行していたが、今までレールの存在すら見たことがなく気がつかなかった。
 スニーカーは泥だらけになり、湖岸水面近くまで歩いてきて北方を見て水面下にある「日崎城跡」を推測した。ここから東を見て南北朝時代のものと思われる「山城跡」の尾根を眺めた。
 湖岸には「旧白川街道」と思われる道跡が薄っすらと残っており、街道脇を南へ歩いた。果たして照蓮寺跡は現れているのだろうか。準備をせず、旧地図を持たずさ迷っているので位置が判らない。あと少しだけ南へ進むことにしよう。

 2中野地区旧白川街道
 この2の場所は、中野照蓮寺跡前(東)の白川街道が左にカーブしている道である。

 右前方に、ふと大きな石が目に付いた。これだ!。さらに近づくと「大石」は約1.8mほどの高さであることが分かった。更に大石の西にある2本杉の切り株を確認して、ここが「中野(村)御坊照蓮寺跡」であることを確信した。何よりもまずは手を合わせて「拝んだ」。「:帰雲城内嶋様、嘉念坊兼入(けんにゅう、のちの明心)、明心(みょうしん)さま、ははあー」と拝んでから、仏敵である「:帰雲城内嶋様」と拝んだのはまずかったと思ったが、いまさら遅い。

 3中野照蓮寺跡
 3は、国道156号線乳母谷下流に「大石」と「2本杉切り株」がありこの北が「中野照蓮寺跡」である。雪解け水が流れ込む前の3~4月にこの「大石」がダム湖水面から現れる年がある。

 飯島(村)正蓮寺は、1475年文明7年(1488年長享2年ともあり)、帰雲城の城主、内嶋氏と飯島正蓮寺の戦いがあり、正蓮寺が敗れ廃絶した。その後、本願寺の蓮如・実如らの仲介により内嶋氏と明心が和睦して、1504年永正元年(1501年文亀元年ともあり)中野村に(正蓮寺の正の字を照に改め)照蓮寺が再建された。それから1588年までの約80年余り、この「中野御坊照蓮寺」が飛騨の真宗メッカとなったのである。

 7~8年前から御母衣ダム渇水時の春に照蓮寺跡に立つことが、念願であったので、白川村へ資料調べに向かう途中、思わぬ偶然に「照蓮寺跡」に立てたことはすごくうれしく興奮した。以前、「聞取り調査」で聞いていた、中野照蓮寺跡東にあった、白川街道はここから「くの字に」カーブしているのを確認できた。聞き取りと現場が確証になったことはうれしい限りであった。なによりも御母衣ダムが完成する前の昭和30年頃の地形に立った喜びと感動はロマンをくすぐる。資料や旧地図を持たずこの地に立っているが、覚えている限り地表を見ておこうと思い、北へ歩き、照蓮寺跡の北にあった伝承にもある「牛の池」跡を探したが、湖岸地表は浸食していて、確認できなかった。更に北に歩き旧白川街道左に石の階段があるのを確認した。(後日資料を調べたら、中野村一之宮神社跡の階段と思われる)更に北へ進み、海上地区と思われる場所を歩き、駐車場へ戻った、9:00。

 9:40、白川村で全資料等を調べた。先月より嘉念坊善俊(ぜんしゅん)の記録を調べ始めたので、善俊の記述がある資料を持ち帰ることとした、PM3:00。

 今回、資料調べに向かう途中、思いもせず「照蓮寺跡」に立つことができたのはうれしい限りであった。

 照蓮寺跡境内にあった大石の西にある2本杉の切り株の年輪を数えると、160年で、この2本杉が伐られたのは御母衣ダムが完成する前の1960(昭和35)年頃と思われ、1960-160=杉が植樹されたのは約1800(寛政12)年頃になるのであった。

 4中野照蓮寺1960(昭和35)年頃(提供S氏、所有H氏)
 4では、中野照蓮寺本堂南に「大石」があった。

 中野照蓮寺の境内について

 中野照蓮寺は平地に建立されたのか?
 中野照蓮寺は平地に建立されたのか知りたく、中野照蓮寺のすぐ東にあった当時中野郵便局勤務だった、現在岐阜市在住のY氏に聞取り調査を2011 H23 06 24実施した。
 Y氏:「本堂裏(西)は山の斜面を削った跡があった。中野照蓮寺に空掘はなかった。境内の周りは垣根だった」この聞取りで、本堂は平坦地に建てたのであろうか聞くと、本堂裏(西)は山の斜面を削った跡を見ているそうで、中野照蓮寺は山の斜面もしくは緩やかな斜面に建立されたのであった。

 5中野地区1960(昭和35)年頃(提供S氏、所有H氏)
 5で、牛の池、中野照蓮寺の位置や、老桜や2本杉の位置が分かると思う。

 中野照蓮寺はよい立地条件であったのか?
 「牛の池(照蓮寺)飯島村正蓮寺が焼け落ちた後、寺を再建することになり大杉を赤牛に曳かせて、その牛が止まった所を寺屋敷にしたという伝承があり、その牛が中野村で止まった場所に再建して照蓮寺となった。この牛の止まった場所に大きな淵(池)があったことから、この池をその後人々は「牛の池」と呼んでいた。池は三角形に似た約5~6m程の長さで周りは湿地であった」田下著、『辛夷』30頁
 この辛夷では、中野照蓮寺の北西に「牛の池」という池があり周りは湿地であったと記している。

 6牛の池1960(昭和35)年頃(提供S氏、所有H氏)
 6で牛の池辺りの湿地状態がよく分かると思う。奥に中野照蓮寺本堂屋根と2本杉が見える。

 絵図あにる中野照蓮寺の水路について

 7中野照蓮寺絵図1
 この絵図1では、北に牛の池と呼ばれる池があり、境内正面(東、青印)に水路が描かれている。


 8中野照蓮寺絵図2
 この絵図2では、3ヶ所の水路が確認できる。まず1ヶ所目は境内正面(東、青印)に水路が描かれている。2ヶ所目は山からの谷水を境内北に引いている。3ヶ所目は谷水を本堂北に引き入れ、正面(東)まで流している。

 中野照蓮寺の場所に関する記述は?
 「其中一人すすみ出申けるは、中野と申所に廣き澤の候は、これは守護不入の地に候得ば敷地と御定ありてはいかにと申ける」、「これにて明心かの地に赴き廣澤の様を見給ひ、四方に池をほらしめ給へば澤水悉池に引て目出度乾地と成りにけり」『岷江記』25頁に「光曜山岷江記」所収

 1504年「永正元年歸國、郡上より越中へ出牛首と云ふ處より白川へ入。その比小白川、飯島、鳩飼、寺ヶ野屋敷數多ありけれども守護不入の處を望み、中野村に一宇建立なり。當時(とうじ)屋敷は池なり山本に四つ池掘ければ水引入て屋敷となれり。今の照蓮寺これなり」『岷江記』照蓮寺遺聞拾録48頁に「白川照蓮寺濫觴記」所収
 この岷江記の記録では、沢水が流れ込む湿地なので池を掘って乾地にして中野照蓮寺を建立したと記している。このことから、中野照蓮寺が建立された場所は湿地で、立地に関して必ずしもよい条件場所でなかったことが読み取れる。

 おわりに
 中野地区では、庄川という川寄りに下中野」と呼ばれた地区があり旧家が多く昔の道があった。そうすると、中野照蓮寺が建立された場所は山寄りの斜面になり、湿地、森、雑木林を開墾した土地であったのである。つぎに海上村から南に村名と道場お寺名を挙げる。海上村、海上道場(のちの願生寺)→中野村→岩瀬村、旧光輪寺→牛丸村(蓮勝寺)→牧戸村である。それまで、中野村には道場やお寺がなかったのである。
 ところで、詳細な地図を見ると、中野照蓮寺裏山(西)に2本の深い谷(沢)があり、大雨ともなると大量の谷水は一気に流れ込み、下流の谷筋の流れを氾濫させていたことが予想でき、2筋の一本は(飲み水として)境内へ流して、もう一本は水路変更の工事をして安定な流れを境内北に確保したのではないかと地図から読み取ってみた次第である。