天然ダムの記録について

ここでは、天正大地震で保木脇東の庄川にできた天然ダムの記録を紹介します。
 

 天正大地震で保木脇東の庄川に形成した天然ダムの記録について
                                               2014 H26 01 05

 天正13年11月29日(西暦1586年1月18日)、天正大地震により岐阜県大野郡白川村保木脇地区にあったとされる帰雲城が埋没した時の記録と、庄川上流にあるのまみの場所と、庄川を塞いだ天然ダムの形成場所と上部形状、天然ダムの満水面海抜について調べてみた。

 まずは、天正13年11月29日の天正大地震で、右岸の山から膨大な量の土砂岩石が崩れ落ちて庄川という川を越えて左岸の保木脇地区に土砂岩石が押寄せたのであった。

 1584年「天正12年比(年代不審)内ヶ嶋城郭大地震て打つぶし、新右衛門一人郡上へ使者に行し留守故殘る。この時大河海の如くせぎ留め三里の内水つかへこの水破れるときは何たることも可有とて、諸人川岸に家のあるものは山へ登小屋に住居する處水自然ときれぬき何のことなし」『岷江記』49頁に「光曜山岷江記」所収1717(享保2)年頃
 この岷江記の記述では、大地震により土砂岩石が庄川を堰き止め上流(南)三里まで水が浸かったとある。そして保木脇地区の庄川の流れを塞いで「天然ダム」ができたのである。この天然ダムにより溜まった庄川の水はのちに自然に流れ出て被害はなかったと記している。この記録では上流三里まで浸かった場所について述べていないが、のちの記録で尾神村の「のまみ」と呼ばれた場所になるのである。

 1682年天和2年、御母衣白山神社本殿木札の字より「天和2年、白山大権現、世話人、ミほろ伊助、のまみ庄九郎、戊ノ3月1日」『白川郷の神々と社祠略史』58頁
 ここでは、白山神社本殿の木札に墨で書いてある字に「のまみ庄九郎」たる人物の名があり、1682年天和2年のことである。

 「白川、野間見村庄九郎寺百姓なり。代官と肝煮と勤る處非道數多故、公儀より張付にするとなり」『岷江記』照蓮寺遺聞拾録60頁に「白川照蓮寺濫觴記」所収、1717(享保2)年頃
 この岷江記では、野間見村という小字名か孫字名が存在していることを記している。

 御母衣・白山神社と上ヶ洞堂「まず天和二年(1682)に御母衣白山権現が祭祀されており、その社(やしろ)を御母衣の伊助と、のまみの庄九郎が世話人となり牧戸の大工弥左衛門が建ている。表書の<のまみ>の地は、庄川上流の旧・尾神村(御母衣ダム湖底)の枝村<野間見>を指すであろう。また裏書の<土>はおそらく社の略かと思われる。  いずれにしてもこの時代には白山信仰の白山権現を祀る社、即社の建物の造られていたことが注目される。なお、のまみ庄九郎は、荻町村・本覚寺転派のことや、中野照蓮寺掛所に関る人物としてその後に獄門刑となっている者(『岷江記』)と同名であり同一人物であろうか」『白川郷の神々と社祠略史』60頁

 白川村尾神、沼江の長者「沼江の長者 今は昔、白川村尾神區(く)沼江に長九郎と呼ぶ長者があつて、家業は材木商を營み木材を川に流して金澤方面に賣却して一代に戸萬の富を成して居た。當時はお上の命令では欅(けやき)は一切伐採してはならぬ事に定められて居た處(ところ)が此人は役人の目を盗んで欅材を伐(き)つてネレの木だと欺(あざむ)いて居たが遂に此事が役人の耳に入つて庄川村海上で「拷問」に上げられることになり今や刑場の露と消えん時「我屋敷の周圍に黄金を入れた壺を埋めて置いた白い鶏が出て鳴いたら其處を掘れ」と言つて他界した。其頃村人は「野上長九郎狐の生か、金が加賀からコンコンと」と歌つたと云ふことである。現在此人の屋敷や土蔵跡、墓地が殘つて居り、海上の地内には「拷問場」と呼ぶ地名が殘つて居る」『飛騨の大白川郷』119頁、1934(昭和9)年
 尾神村にある、のまみ、ぬまみ、沼江(ぬまえ)は訛(なま)りか、同一の呼び名かは不明である。

 「尾神村より福島村へ、一里三町余餘、本道筋尾神瀨より三町程下にも民家あり、字野間見といふ、是は尾神村の内なり、此間小坂あり、此村にも宮森なし。野間見より川東に民家見る、是は長瀨村の内字秋町といふ所なり」『飛騨國中案内』80頁、1746(延享3)年
 この飛騨國中案内では、尾神村に野間見(のまみ)という小字名か孫字名が存在していることを記している。

 「その頃飛州あこの城(帰雲城)も、地震にて城下3百余軒の処へ、帰り雲の山半分缺ケ落ちて、数百人の男女共家々も、三丈余りの底となりにける。城下のあたりは草も薙ぎ荒山となり、白川通りも堰き留めてぞ水たたへり。その海上村は海の如くに成りし故、海上村と名付しよし」『神岡町史特集編』241頁に「八 飛騨太平記(全)」所収、1848(嘉永元年)年
 この飛騨太平記では、庄川を堰き止めて水が溜まったとある。その場所は海上村とあり、海上村の字名を調べたが、のまみ、ぬまみに関する地名は見出せなかった。

 「帰り雲のうしろの大山崩落て城も民家もつき埋め、大川をせぎ切三里川上へたたへて内ヶ嶋の一族此時断絶す」『白川奇談』1850(嘉永3)年
 白川奇談では、庄川を堰き止め三里上流まで浸かったとある。

 「尾神より二三丁野間見村、帰り雲山水つき込ける時、川水此所まで湛(たたへ)たりと云傳ふ。ぬまへけるゆえ、ぬまみといふ事なりとそ。野間見とは申侍る。夫より福島むらを過ぎて福島歩岐万仭(じん)の高崩へ橋を渡し登り下る白川随一の難所にて、内ヶ嶋家帰り雲の城郭の要害也。歩岐を過ると牧村也此川向に秋町長瀬村有」『白川奇談』1850(嘉永3)年
 この白川奇談では、尾神野間見村まで水が浸かったとある。ここでようやく水が浸かった場所が「野間見」と記されているのである。ここでは、野間見村という大字名か小字名か孫字名が存在していることを記している。

 1586年「天正13年11月29日、夜の大地震に城布悉(ことごとく)皆土中に埋没して滅亡し、其跡于(ここに)今荒野となり随而白川は東方山麓へ押迫られ居れり、内ヶ島兵庫助氏理が歸雲城は云ふまでもなく城下三百の民家悉く埋没して一人を残さず、白川の水は爲(なす)に堰(せ)かれて逆流し上流三里福島の南方尚(なお)のまみの地名を存して大汎濫の歴史を語れり」『飛騨山川』421頁、1926(大正15)年
 この飛騨山川では、堰き止められた庄川の水は上流の福島村の南方、のまみという地名まで浸かったとある。福島村の字名を調べたが、のまみ、ぬまみに関する地名は見出せなかった。

 1.のまみの場所について、上流三里は何処になるのか?
 天正大地震で、右岸の山から膨大な土砂岩石が崩れ落ちて庄川という川を越えて左岸の保木脇地区に土砂岩石が押寄せた。この時、土砂岩石が庄川の流れを堰き止め「天然ダム」が形成されたのである。そして上流(南)三里まで水が浸かり、この「三里」を地図上直線にすると保木脇から12Km上流の白川村「尾神」地区になる。記録では「のまみ」まで水が浸かったとあるので、のまみの場所を地図で調べるが分からない。字絵図で調べるものまみという字名や地名は記されていなかった。現在、白川村尾神地区は御母衣ダム湖底なので住人に聞くことができない。なので、尾神地区在住だった方に聞取り調査を実施した。
 聞き取り調査、尾神(地区)のこと 2007(平成19)年9月27日
 尾神地区在住だった現在高山市在住のM氏:尾神南東先端の呼び名は、どりど(土音)という。どりどの西にある小山の呼び名は、「じょうがさま」という。じょうがさまに松があった。じょうがさまに祠などはなかった。保谷という谷がある。のまみの場所は、じょうがさまと、保谷の間を「のまみ」と呼んでいた。
 この聞取り調査で、尾神集落の北の小山を「じょうがさま」と地元では呼んでいた。このじょうがさまと保谷の間が尾神地区の「のまみ」と呼ばれる場所であることが分かった。

 1保木脇尾神のまみ図 (図はカシミール3D、国土地理院発行数値地図25000地図画像及び、数値地図50mメッシュ標高を使用)


 2保木脇天然ダムイラスト図
 2.天然ダムの形成場所、どの場所に天然ダムができたのか?
 天然ダムができた場所は、右岸「カニ澤崩れ」直下の庄川に形成されたという坂部氏の論文『天正地震(1586年)時の飛騨白川郷における大規模山体崩壊による庄川の堰き止めとその浸水域』がある。上図の帰雲城趾碑より少し北の庄川に天然ダムが形成されたのである。


 3天然ダムカシミール3Dカシバード図
 3.天然ダムの上部形状、上部はどのような形か?
 天然ダムが形成された上部面はどのような形だったのか推測してみた。1U字型、2水平型、3山型と、U字型に山型の、4W字型の凡そ4種類から「1、U字型」ではないかと推測してみた。


 4砂山シュミレーション2002 H14 10 25
 上の写真は1000分の1スケールで上の方から砂を激しく流した(落とした)もので、止まった砂の上部形状は「U字型」になったので、参考になるかもしれない。

 4.天然ダムの満水面海抜、海抜何mになったのか?
 次は、尾神地区「のまみ」東の庄川水面と、保木脇東の庄川水面海抜を調べてみた。のまみ東の庄川水面は海抜約670mで保木脇東の庄川水面が海抜約560mである。これを引くと、670m-560m=天然ダムの高さは「約110m」となり、天然ダム満水面「海抜約670m」となり、資料の記述通り上流三里まで水に浸かった結果ではこの数値になった。
 ここで、保木脇から南の海抜約670m以下が水に浸かったと捉えてみると、保木脇国道156号線海抜約600m、高圧送電線第53鉄塔約645m、56鉄塔約630m、平瀬地区では常徳寺約615m、御母衣地区の旧遠山家民俗館約640mも資料の記述通りの上流三里まで水に浸かった結果では全て水没したことになる。

 5.天然ダムに関する論文
 この天然ダムの標高について、坂部氏の論文『天正地震(1586年)時の飛騨白川郷における大規模山体崩壊による庄川の堰き止めとその浸水域』を一部抜粋する。
 「庄川右岸の大規模山体崩壊は、庄川を越えて、一部は左岸に不規則な起伏を伴う盛り上りとしての崩落堆を残している。この崩落堆の主体部の分布高度は、約600~630mであって」、「庄川中央部付近における天然ダムの天端高標高は、630m前後と考えられる」、「天然ダムの湛水高は、約53mと考えられる」、「この湛水による浸水域は、天然ダムの堤体から上流約5650mに及ぶことになる。上流約5650mの地点は、庄川と大白川との合流点近くである」、「この決壊時の天然ダムの水面の標高は、約613mよりいくらか低かった可能性が高いと考えられる
 まずは、天然ダムの湛水高は、約53mと考えられると論じていることから、保木脇東の庄川水面が海抜約560m+「天然ダムの高さ約53m」=天然ダムの標高約613mとなる。次に天然ダムの堰き止めていた期間を20日間とすると、天然ダムの堤体から上流約5650mの地点は、庄川と大白川との合流点近くであるということから、御母衣地区の北方まで水が浸かったということになる。ここでは、右岸からの崩壊土質が、左岸標高約630mまで確認できる最高地点であることがキーワードである。また、天然ダムの湛水期間は20日間であったという地元の伝承がある。
このことから、天然ダム上部端の高さは630m前後と考えられ、決壊時の天然ダム水面の標高は約613mよりいくらか低かった可能性が高いと論じている。

 おわりに
 今回、資料からの海抜と、論文からの標高を比べてみる。
    「天然ダムの高さ」 天然ダム標高 保木脇東庄川水面 尾神のまみ東庄川水面
資料   約110m       約670m       約560m            約670m
論文   約53m       約613m以下   約560m
 資料の記述通り、上流三里まで水に浸かったとすると天然ダムの標高は約670mになるが、論文にもある右岸からの崩壊岩石が庄川を越え、左岸に駆け登った最高地点は約630mまでしか岩石が確認されていないことから、天然ダム端の高さは約630m以下だったことが妥当である。よって、「天然ダム上部端の高さは630m前後」と考えられ、「天然ダム水面標高は約613m以下」と推測される。

 参考文献
1717年  享保2年頃 『光曜山岷江記』正覚寺浄明書

1746年  延享3年   『飛騨国中案内』上村木曽衛門満義著
1848年  嘉永元年  『飛騨太平記』著者不明
1850年  嘉永3年   『白川奇談』森達蔵
1926年  大正15年    『飛騨山川』岡村利平著者
1934年  昭和9年   『飛騨の大白川郷』
2007年 平成19年『享保年度山林絵図面(1728年)に見る天正地震(1586年)時の大規模山体崩壊と土砂移動について』
2007年 平成19年 『天正地震(1586年)時の飛騨白川郷における大規模山体崩壊による庄川の堰き止めとその浸水域』

 補足
 天然ダムの約630mラインと、約613mラインを写真で見やすいようできないかと思い53鉄塔一帯の写真に当てはめてみた。

 5.左岸保木脇53鉄塔一帯写真
 これは、左岸保木脇53鉄塔一帯の写真で、「天然ダム上部端の高さは630m前後」と考えられ、「天然ダム水面標高は約613m以下」と推測される、約630m?ラインと約613m?ラインを付けてみた。現地でGPS計測したわけでなく正確な標高でないので、凡そでこの高さ辺りだと見ていただきたい。写真の「約613m?ライン水色線」が、天然ダムによって水が溜まった上部ラインとなる。


 6.613mライン図(図はカシミール3D、国土地理院発行数値地図25000地図画像及び、数値地図50mメッシュ標高を使用)
 
水没した標高は、613m以下ということから水色で613m以下を示してみた。53鉄塔とその南は水没していない。56鉄塔も水没していないのであった。