5白川郷埋没帰雲城調査会公式HP 会報誌紹介

 白川郷埋没帰雲城調査会の今までの会報誌等の一部を紹介します。

 白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第55号.発行日:令和3年(2021年)3月22日

 1.ご挨拶
 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。令和2(2020)年はコロナの影響で
本会行事は中止になりました。今年も予断を許さない状況ですので皆さん密の場には入ら
ぬようご注意下さい。
 令和2(2020)年は、保木脇でテレビ愛知が再び掘削等を実施して地質面からのア
プローチと内嶋氏当時の出土物採取の学術成果を収めているので、テレビ愛知の放送を心
待ちにしたいと思います。テレビ愛知の掘削等調査から学術検証をするようで、テレビ愛
知の活動に御礼申し上げます。

 2. テレビ愛知2年連続掘り とうとう天正地震当時の遺物現る
 会員の皆さん、今年もコロナの影響でくれぐれも密の場にはなるべく入らぬよう気をつ
けてください。
2019年(令和元年)保木脇でテレビ愛知が重機による掘削を行って、昨年2020
年令和2年も、保木脇と周辺においてテレビ愛知が調査を実施したり、ボーリング調査や
重機による掘削調査を行いました。
 2-1 テレビ愛知 帰雲城主内嶋氏当時の遺物採取す
 この掘削調査で、テレビ愛知は天正地震(1586年)により帰雲城と城下町の埋まっ
た地層上から約434年前の帰雲城主内嶋氏当時と考えられる出土物を数多く採取して遺
物を保存するという学術成果を得ました。この成果は本会の今後の学術調査の分析に大い
に役立つものであり参考にさせて頂きたいと思います。

 3-1 ボーリング調査実施
 2020年(令和2年)8月、保木脇上段田口砂利プラント敷地内においてテレビ愛知
が「ボーリング調査」実施して、深さ14m以上ボーリングを行い天正地震崩壊堆積物を
確認しました。

 3-2 重機による掘削調査実施
 2020年(令和2年)9月2日から保木脇上段田口砂利プラント敷地内にてテレビ愛
知が「重機による掘削調査」を実施して深さ14m以上掘り数多くの遺物を採取しました。

 3-3 白川村の動向に注目
 今回、保木脇上段622m地点の遺構と考えられる場所や、掘削地地中から採取した出
土物(遺物)について、白川村教育委員会の今後行う遺構等確認調査、遺構(遺跡)登録
地保存への動向に注目したいと思います。

 7-1.2020年掘削現場を見た感想
 9月2日(水)、保木脇上段の田口砂利プラント敷地内においてテレビ愛知が「重機2台
による掘削調査」を実施した。掘削場所は、田口プラント事務所から西南70mである。
 掘削幅は東西約45m×南北約30mだ。今回、安全第一に掘削傾斜面を緩やかにして
とてつもなく広く掘るようだ。重機(ユンボ)2台といえどもこの広さを掘るのは1日で
部分的に深さ約2.4mしか掘れなかった、先は長い。とてつもなく広い地を掘っている
と何かとんでもない物が出てくる予感がしたのである。数日後には、約1mの岩が4個出
てきてこの岩は天正地震(1586年)で右岸から来た岩ということになるのである。恐
るべし破壊力と到達力。帰雲城(館)と城下町は一瞬で木っ端微塵になったことだろう。
 深さ約10m辺りから人工加工木片等が何点も出土し出し採取保存していた。この時の
感激というよりも、残念ながらただ茫然と見学していたという無感情であったのは残念で
ならない。9月17日(木)、「掘削13日目」決定的な人工加工木片が出たのである。堅(かた)い
木である。10月4日(日)、「掘削20日目」掘削最終日、深さ14m以上掘ってトータ
ル数多くの内嶋氏当時の遺物(物証)を採取記録保存していた。掘削穴の幅の広いこと、
深いこと。目の前の光景の現実を受け入れられない。夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か。
テレビ愛知は、とうとう帰雲城主内嶋氏当時の遺物を手にしたわけであった。帰雲城の
遺物を発見する学術成果を収め遺物(物証)を得たのであった。

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 白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第54号.発行日:令和2年(2020年)3月16日
 1.ご挨拶
 時下益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。2018年平成30年10月、I会員
らが保木脇上段調査(622m地点)で、遺構らしき場所を発見したので、会員の皆さん
に報告します。昨年2019年(平成31年、令和元年)は、テレビ愛知から本会へ帰雲
城取材がありその後テレビ放送が1時間ありました。このテレビ愛知の独自取材調査で、
保木脇上段622m地点は中世の城跡遺構と考えられると確認されました。また、テレビ
愛知が重機による掘削調査を実施して地中から中世の木片(遺物)が確認されるという発
見があったので、会員の皆さんに報告します。このテレビ愛知の放送内容は科学的検証が
なされており、帰雲城を1時間に渡り扱って頂きテレビ愛知へ御礼申し上げます。この放
送内容は、本会の今後の学術調査の分析に大いに役立つものであり参考にさせて頂きたい
と思います。
 2. 会員が帰雲城のあった保木脇で遺構らしき発見す                                
2018年平成30年10月23日(火)午前、I会員ら(S会員、K会員、
計3名)が保木脇上段の調査をしました。各々思う場所を調査し、I会員がとある場所
に立ち、地形を観察すると遺構に思えたので下山して2名に報告して昼食後の午後、その
とある場所(622m地点)に向かい3名が調査して、遺構に思える地形を確認しました。
後日、I会員からこの調査報告を受け、昨年2019年(平成31年)4月29日、
本会現地調査午後からとある場所(622m地点)を視察することを組み込みました。
I会員方の現地調査活躍に感謝いたします。
 3. テレビ愛知 遺構らしき場所を取材して                               
昨年2019年(平成31年)4月29日、本会現地調査にテレビ愛知から取材があり
ました。昼からとある場所(622m地点)を、(2018年平成30年10月23日(火)調査
の第一発見者である)I会員がテレビ愛知に遺構らしき地形の説明をしました。
 3-2 帰雲城のあった保木脇地中深くで中世の木片出土す
さて、テレビ愛知から引き続き取材依頼があったので、本会は資料や現地調査資料と最
新情報を提供して協力しました。10月、テレビ愛知が掘削候補地数ヶ所をGPS高度計
測を行いました。それから、打ち合せや取材を経て、11月20日(水)テレビ愛知が保木脇
上段田口プラント北において重機による掘削を数日間実施しました。地中12m(深さ11
m~12m)から木片が出土して炭素性年代測定の結果、帰雲城のあった保木脇で中世の木
片(遺物)と確認されテレビ愛知の独自取材調査により相次ぐ発見となったのです。
3-5 テレビ愛知で帰雲城1時間放送されました
昨年2019年令和元年12月28日(土)PM3:20~4:20(1時間)、テレビ
愛知で「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」が放送されました。放送内容は下記
で中略あり。<放送以外に、< >内は詳細説明等を加えてある>
令和元年11月(重機が登場するシーン、ナレーター松重豊)歴史に残る発掘調査が今
まさに始まろうとしていた。(掘削地点掘り始めシーン)
 この下に眠っているかもしれない物、それは戦国時代に消えた城と黄金である。「岐阜県
飛騨地方」険しい山々が連なる岐阜県飛騨地方、(帰雲山中腹崩壊面のシーン)このなかに
ポッカリ穴が空いた山がある。山肌をえぐり取ったような大きな穴。戦国時代にこの地で
起きた巨大地震の爪痕である。(天正13年11月)このとき悲劇が起きた。地震によって
山崩れが発生、(帰雲山中腹崩落CGシーン)大量の土砂が津波のように押し寄せ、(土砂
が帰雲城と城下町を埋めるCGシーン)城と城下町をのみ込んだのである。
 「消えた城の名は帰雲城(かえりくも城)」400年以上経った今も痕跡すら見つかって
いない。更に伝説によれば帰雲城には大量の黄金が貯えてあったという。(後省略)
 3-6 テレビ愛知の取材にお礼
昨年2019年(平成31年)4月29日、テレビ愛知から本会に取材があり、12月
まで幾度となく取材があり、12月28日(土)テレビ愛知で「消えた戦国の城 白川郷
の埋蔵金を追え!」が1時間放送されました。テレビ愛知より取材を頂きましたことを誠
にありがとうございました。御礼申し上げます。
 4.今年は4区画目の水場等の調査を実施します
今年2020年令和2年の本会行事等(現地調査、総会、研究発表会、懇親会、宿泊)
は5月4日(月、みどりの日)に開催します。
現地調査は4区画目の田口プラントから南の山すその水場等有無確認調査を実施して午
後から、2003年平成15年6月15日(日)、本会で調査した仮称カエル池一帯を調査
します。
 5.今年の研究発表会は放送後分析を
 昨年2019年令和元年12月28日(土)テレビ愛知放送「消えた戦国の城 白川郷
の埋蔵金を追え!」の内容は科学的検証がなされているので、得られた情報から本会研究
発表会で学術的に地図を示して分析し皆さんと考察したいと思います。

 7.事務局よもやま話 テレビ局の長期取材を受けて
 今回は、昨年2019年テレビ愛知で放送された「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を
追え!」の取材を受け同行、放送を観た感想を紹介します。
11月29日(日)、放送告知あり(文章)
12月21日(土)、放送告知動画(ユーチューブ)×2あり
12月25日(水)、テレビ愛知、ゆうがたサテライト5:21~5:24放送。「岡田愛マ
リーアナウンサー:戦国時代に黄金と共に埋没したと言われる岐阜県白川村の帰雲城。幻
の城と呼ばれてきましたがテレビ愛知の独自調査で物見櫓と見られる跡が見つかりまし
た」(ニュース.放送、告知)
12月28日(土)、テレビ愛知「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」放送
 2020年令和2年2月19日(水)、テレビ愛知、ゆうがたサテライト5:21~5:22
放送。「テレビ愛知番組審議会」「岡田愛マリーアナウンサー:テレビ愛知の番組審議会が
今日開かれ、昨年12月に放送した[消えた戦国の城白川郷の埋蔵金を追え]について意見を
交わしました。委員からは、地道で丁寧な内容に惹きこまれた。宝を探し当てるんだとい
う挑戦心が伝わったなどの意見があがりました」(ニュース.)
 7-1.掘削現場を見た感想
 さて、テレビ愛知の掘削現場を見て今この目の前の光景は現実なのかと信じられず、た
だただ茫然としていたのでした。出土品の劇的な発見になると思っていたが興奮とか、感
動している余裕はなくやはり茫然としていたのです。物証は木片の人工的な加工の痕跡が
残る約500年前の帰雲城と城下町に繋がる初の木片(遺物)をテレビ愛知が歴史的発見
したのではなかろうか。加工してある木片(遺物)の歴史に触れたのは確かである。
「遺構破壊は」、約500年前の内嶋氏当時の地表(地面)の黒い地層、或いは茶色い地
層(土)は露出しなかったので遺構(遺跡)破壊はありませんでした。2019年は白川村に
最多12回向かった年であった。
 7-2.放送を何十回も見る
 テレビ愛知の「消えた戦国の城 白川郷の埋蔵金を追え!」放送を観てから3日間で1
1回見て、2月までに計30回以上見て、まだ見るたびにドキドキ興奮しています。
この番組は科学的検証がなされており、1時間も放送頂いた感謝とお礼から次は、本会
で学術的に分析したいと思います。特に掘削した最深部の青い地層は会員より有意義な見
解があり、幾つかの仮説を述べ研究したいと思っています。会員の皆さん、帰雲城を真面
目な科学的検証をして1時間も放送されましたよ。
 8.昨年平成31年(2019年)度行事報告
 8-①「現地調査」保木脇3区画目北西水場等調査、4月29日(月)10:00、
(TV愛知2名カメラ取材あり)帰雲城趾碑前から上段山道を北に走行し53鉄塔南
に停車、K会員野田会員は山道を歩いて上の方までまず行き3区画目の北西の水場等確
認調査を実施しました。山道右の段々上の水田跡からシツタカ谷まで水場等がないか調査
を行う。少し下に降りて山道まで調査を実施。幾つかある水田の排水路を確認するがどう
も住居には引き込んでないようであった。水場等は1つも確認できなかった、という結果
を得た。田口プラント北で昼食12:00~1:00。昼から山道を北に走行し、とある地点へ向か
う。I会員、S会員と合流。遺構らしきと思われる622m地点の第一発見者であ
るI会員がTV愛知の取材を受ける。地形は雑草が茂る前とあって地形を確認しやすかっ
た。2:15、調査終了しました。
 8-⑤「懇親会(夕食会)」6:00、まずは乾杯をしました。今日の現地調査場所を地
図上で示し水場等は1つも確認できなかったと報告しました。この懇親会で楽しみなのが、
地元のお話を聞かせていただけることで、「今日調査した場所は以前田んぼだった。段々上
の耕地で牛を飼うために整地したが上の方は昔の間々である」というお話を聞くことがで
きました。

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 白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第53号. 発行日:平成31年(2019年)2月25日

 6.有志会員がとある場所の調査を実施
 昨年2018年平成30年10月23日(火)、かねてから気になっていた「保木脇のとある場
所」を現地調査の達人である有志会員3人が調査をしました。後日、多くの帰雲城資料の
中から報告書を照らし合わせ仮図面を作成し根拠となる説明があり、納得のいく説として
興味深いものがありました。またこの考察を聞いた際、そういえば帰雲城資料約1500枚の
中から過去の証言にも符合するので記録を調べると、1972年昭和47年8月記事(会
発足30周年記念誌76頁2行目、118頁1行目参照)の故松古氏、故中森氏らの証言に「ワシら
子供のころあそこで古銭を二、三枚ひろうたことがある。むかしから城があったといういい
伝えがあって、堀のあともチャンと残っている。(中略)台地の方向に入ってみた。
(中略)幅20メートルほどの溝が続いている。(中略)近くに泉が湧き」と、証言を残し
ている記事もあることから、有志会員3人が調査した「とある場所」は符合する場所かど
うか今後の調査が必要ですが、4月29日に本会現地調査午後からこの「とある場所」を
見学します。
 7.今年の行事はゴールデンウイークに開催します
 本会の行事は毎年5月に開催していますが、今年はゴールデンウィーク(GW)の4月
29日(月、昭和の日)に、平成(31年)最後となる行事(現地調査、総会、会合、懇親
会、宿泊)開催します。今年1月5日に本会公式ホームページでいち早くGW行事開催日
を告知しました。
 8.今年は3区画目の北西水場の調査を実施します
 昨年2018年は(通称)3区画目の西辺り(山道含む)を調査しましたが、3区画内
全域を調べるには至りませんでしたので、今年2019年平成31年4月29日(月、昭
和の日)の現地調査午前中は3区画目の北西水場等を確認する調査を実施します。午後は、
保木脇の「とある(興味深い)場所」(当日場所説明)を案内見学します。
 
 9.今年の会合は保木脇のとある場所の説明をします
現地調査を長年行ってこられた有志会員らによる保木脇の「とある(興味深い)場所」(当
日場所説明)について地図や根拠を説明して、皆さんと考察したいと思います。
 10.事務局よもやま話 聞取り調査の有意義性
 10-4.これだから聞取り調査はやめられない
 昨年2018年9月25日(火)、この日白川村に向かう前に荘川町で聞取り調査を実施しま
した。上滝(かみたき)金山の更に詳細なことを聞き、金山の正確な位置をようやく知っ
たのでした。ここで、以前から気になっていた事柄を聞くと、なんと全く違う位置情報や
云われを聞くことができました。私たちの知らないことでも地元では普通に言い伝えで語
り継がれて残っており、史料からは見えてこない情報を得ることができ「やはりこれだか
ら聞取り調査はやめられない」と、これからも聞取り調査を続けて何かしらの情報を得た
いと思ったのでした。
 10-6.自分の目で見て何かを感じる現地調査の楽しさ
 今年2019年平成31年1月2日、会員の3人が多治見市のコーヒー店(コメダ)に集った。
 昨年2018年平成30年10月23日(火)に、S会員、I会員、K会員の3人は保木脇の
「とある場所」を午前午後の2回調査したそうだ。このメンバーの発起人K会員は頻繁に
現地調査を行う達人である。S会員はフィルムカメラで現場を撮影した。S会員はご高齢
にも関わらずとある場所に登り切り立ったのである。後日、I会員は調査した場所を地図
に記入して、帰雲城資料(論文)から根拠となる一つの手がかりを得たそうだ。I会員か
ら根拠となる説明を聞き、納得のいく説として興味深い考察があり現地調査で「自分の目
で見て何かを感じる」ということを現地調査の達人3人に気付かせてもらい「やはり現地
調査は楽しくやめられないな」と久しぶりに思ったのでした。最近、KD会員、S会員、I
会員、K会員方による研究や調査が行われており、ご活躍にただただ感謝するばかりです。
 果たして、天正13年の大地震で右岸の土石が保木脇まで到達した時庄川を堰き止めた水
位は何mか?。
 土石が保木脇まで到達した先端はどこか?
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 白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第51号.  発行日:平成30年(2018年)4月2日

 3. 白川郷埋没帰雲城調査会 公式表明 会員の皆さんに報告します
①、 白川郷埋没帰雲城調査会は、帰雲城のあった所の地名について、上記2項の研究
報告書『史料の記述から判明した帰雲城のあった所の字名と研究結果』(平成29年
(2017)11月27日)を公式発表の通り、「史料の記述からは帰雲城のあった所は、岐
阜県大野郡白川村保木脇字(小字)帰雲川原と確定した」ので本会の公式表明を会
員の皆さんにご報告いたします。
②、 白川郷埋没帰雲城調査会は、帰雲城は左岸説か右岸説かについて、上記2項の公
式発表から、「帰雲城は左岸説」(庄川という川の西、左岸保木脇地区に帰雲城はあっ
た)の公式表明を会員の皆さんにご報告いたします。
会員の皆さん、我々が長年コツコツと現地調査や、資料収集して蓄積した資料や、白川
村で話し合った結果が(史料)研究報告書という本会の公式表明でようやく日の目を見る
ことができました。
会発足31年目にして白川郷埋没帰雲城調査会から会員の皆さんへ「帰雲城は何処にあっ
たのか?」一つの結論を本会から公式表明できましたことを、皆さんの長年のご活躍や活
動、ご理解や協力をいただきまして今まで本当にありがとうございました。
 4.帰雲城のあった所の地名がついに史料研究からは判明しました
会員の皆さん、ようやく会発足31年目にして史料の記述からはとうとう帰雲城のあっ
た所の地名が判りました。今まで帰雲城は何処にあったのか?を明らかにするために帰雲
城調査会は長年毎年現地調査を実施して研究をしてきました。そして、会発足31年目を
迎えた昨年(2017)に、本会で皆さんが長年収集された資料を蓄積してきて発表や研究して
きた結果、史料の記述からは「帰雲城は帰雲川原にあった」という決定的な証拠の史料の
記述と、裏付け研究の結果、本会の公式表明により一つの結論に達しましたのでそれでは、
帰雲川原確定までの経緯を辿ってみましょう。
 4-1.271年間埋もれていた史料から大発見!!
 1746年延享(えんきょう)3年『飛騨国中案内 第三巻』という書物の111頁に「往昔
は帰雲、其後は帰山なり。に今至て其所を帰雲川原と言ならし候」と記してあり、史料か
らは帰雲城は帰雲川原にあったと読み取れる一文ですが、どうも今一ピンとこず、この一
文が重大な発見だったことは2002年当時、本会は情報量や知識力もなく気がつく段階に至
っていませんでした。また、当時この一文をどのような研究の仕方をしたらよいのかも、
方法もわかりませんでした。しかし、ようやく研究する時期が来たのです。さて、情報量
も多く揃い研究できる段階になった2017年6月、この271年間埋もれていた史料が再注目の
大発見だったことが判ったのです。
 4-2.23年間忘れ去られていた新聞記事発表に再注目
 さて、『飛騨国中案内』の帰雲川原の一文をひも解いたのが、平成5(1993)年9月1日
岐阜新聞「幻の帰雲城 上 安達正雄」に掲載された安達正雄氏の記事発表です。この記事
内容は「帰雲城のあった所を帰雲川原というようになった」と解明した重大発表でしたが
当時あまり注目されなかったようで、この記事発表は見逃されていたようでした。ところ
が、2017年6月に、TV局から本会事務局へ取材を明日に控えて帰雲場が何処にあったのか
資料に書いてないかと思い出していると、あれ?そういえば「帰雲川原」の岐阜新聞記事
があったなと思い読み直すと、「帰雲城のあった所を帰雲川原というようになった」=「帰
雲城は帰雲川原にあった」(=帰雲川原に帰雲城はあった)と読み取り、なんだ史料に帰雲
城のあった所は帰雲川原と書いてあったではないかと気付きました。この新聞記事発表は
なんと23年間も忘れ去られていましたがこの岐阜新聞記事発表があったからこそ、史料の
記述からは帰雲城のあった所の字名が判明することになった重要な新聞記事なのでした。
 5.ごあいさつ
本会より、会員諸氏の活動にご理解と協力をいただき御礼申し上げます。本会の活動は、
平成28年(2016)11月に「会発足30周年記念誌」を公式発表した。今年は皆さんの長年
念願であった帰雲城は何処にあったのかの結論、『史料の記述から判明した帰雲城のあった
所の字名の研究について』研究報告書を本会から公式発表できた。本会は、帰雲城の遺構
の確認とその歴史解明を目的として白川村で現地調査と研究を続けてきて、決定的な証拠
と根拠となる裏付けをして「史料の記述からは帰雲城のあった所は、保木脇字帰雲川原」
と確定して会発足31年目で一つの結論を公式表明できたのは誠に嬉しく思います。会員
の皆様の今までの活動に心から感謝申し上げます。
そして、「史料の記述からは帰雲城のあった所は、保木脇字帰雲川原」という一つの結論
をこの場をお借りして、今まで長きに渡る帰雲城調査研究で、白川村の協力や、白川村の
皆さん、保木脇の人達、帰雲城に尽力された方々、帰雲城に挑んだ先人研究者や、諸先輩
方、本会会員の活躍に心から御礼申し上げます。ご苦労様でした。そして、御霊前に報告
させていただきます。
 6.事務局から
先人が帰雲城を調べ始めたのが昭和25(1950)年頃、(記念誌105頁20行目)白
川村荻町の旅館城山館主人松古孝三氏(47歳)が帰雲城の史料研究をし始めてから今年
で約68年。昭和47年1972年6月『まぼろしの帰雲城』佐々克明著を読んでから4
6年帰雲城を調査されている本会会員もいます。(記念誌113頁最下行、123頁22行目)そ
して、会が発足して31年が経過しました。上記2項で公式発表した通り本会は史料の記
述からは「帰雲城は帰雲川原にあった」という一つの結論に達しましたので会員の皆さん、
今まで長きに渡るご活躍に感謝申し上げます。
 12.事務局よもやま話 遺跡視察
 12-1.TV局の取材により
 昨年2017年6月10日(土)、TV局からの取材前日、帰雲城はどこにあったのか資料から
思い出していると、ふと帰雲川原記述が浮かんで帰雲城のあった所の字名が再注目だった
と判明したのでした。6月11日(日)、TV局から帰雲城調査の現状について取材を受け、
帰雲川原記述を伝えました。
 12-2.一乗谷朝倉氏遺跡視察
そうすると先のことを考え、重機で試掘したら帰雲城の縄張りではどのような遺跡遺物
が露出するのかと思い、昨年2017年10月7日(土)、福井県福井市城戸ノ内町の「一乗谷
朝倉氏遺跡」と一乗谷朝倉氏遺跡資料館を視察しました。一乗谷で今まで発掘された場所
では、住居跡、井戸跡、道路跡、石積み跡、一部住居復原を視察して念入りに観察しまし
た。一乗谷で発掘された場所では今まで瓦は出ていないとのことでした。では、帰雲城遺
跡の場合をシュミレーションしてみると、屋形(居城、城主の住まい、館)には空堀(水
堀)と土塁と礎石、道路、家臣住居、町屋の遺跡(遺構)がほぼ完全な形で露出するのを
一乗谷朝倉氏遺跡に重ね推測したのでした。本会は、重機による試掘調査計画は2027年実
施予定です。
 12-6.上村木曽右衛門満義が見たであろう帰雲川原と現在では地形が違う
 我々が帰雲城を調査してシツタカ谷から弓ヶ洞谷までの間を保木脇と呼んでいますが、
じつは保木脇地区は、荒谷という谷の南方辺りから凡そ弓ヶ洞谷までが保木脇なのです。
『飛騨国中案内』を編纂した上村木曽右衛門満義が当時見聞した「保木脇集落」の位置
は古地図『大野郡山絵図』(後写、住香草文庫目録平成元年10月、3.23-107. 高山市郷土
館(現在、高山市まちの博物館)所蔵)の朱色記しから、関西電力荒谷発電所辺りにあっ
たようで、保木脇集落の「枝村」の位置はシツタカ谷の北にありました。
飛騨高山の地役人上村木曽右衛門満義は保木脇を公用巡視して帰雲城があった場所を周
辺で聞いたりして、保木脇村の南方辺りに堆積した地形と、対岸山腹の崩落面の描写を「城
内より川東の大山崩飛て、氏理の居城は不及言ニ其近辺不残打つぶし」と記録しています。
帰雲城のあった所の記録方法はというと、どうも地役人の仕事柄、村の地名(字名、小
字名、孫字名)を知っていたようで「帰雲川原」という字名を『飛騨国中案内』111頁に記
したのが読み取れる一文です。
ところで、上村木曽右衛門満義が江戸中期に見たであろう「帰雲川原」(現、白山神社一
帯。だが江戸中期にはこの白山神社は関西電力荒谷発電所辺りに鎮座していた)は、現在
とは違い地形(高度)は低かったようです。(記念誌146頁24行目、147頁2行目参照)
それから後の江戸後期の安政2年(1855)の安政地震で対岸から土石が(現、白山神社
一帯に)堆積して現在の地形(高度)になったようです。(記念誌147頁13行目)帰雲川
原は2度の地形変化(堆積)に見舞われていたのです。

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 白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第50号.  発行日:平成29年(2017年)4月3日

 1.祝 会発足30周年!
 新緑の候、会員の皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶びいたします。日頃は、
本会の活動に格別のご理解と協力をいただき御礼申し上げます。
 昨年2016年、帰雲城が埋没して430年が経過しました。我々帰雲城を専門に調査、
研究する団体、白川郷埋没帰雲城調査会の前身、「ひだ白川・帰雲城を考える会」は昭和6
1年(1986)11月1日に発足し、平成5年(1993)「白川郷埋没帰雲城調査会」
に改称して、合わせて会発足30周年を迎えましたことを御祝い申し上げます。会を引率
してこられた諸先輩方や先人研究者のご活躍、協力や参加された皆さんや、白川村の協力
に御礼と感謝を申し上げ、一重に30年もの間、帰雲城を専門に調査してこられた長寿団
体の活動、活躍に御祝い申し上げます。

 2.会発足30周年記念誌 限定40冊配布さる
 昨年11月1日に、会が発足して30周年を迎え記念して『ひだ白川・帰雲城を考える
会 白川郷埋没帰雲城調査会 発足30周年記念誌』を会員の皆さんに限定計40冊を配布
することができました。諸先輩方や皆さんが30年の長きに渡り帰雲城の資料収集にお礼、
感謝申し上げ、これら書物の要点を1冊に集約したのがこの記念誌資料です。帰雲(かえ
りくも)城調査会では、帰雲城の遺構の確認とその歴史解明を目的として白川村で現地調
査や研究を専門に長年続けてまいりましたので今後、記念誌を会員の皆様と共有して白川
村において帰雲城の真相部分に迫る分析や検証、証拠や根拠を示した帰雲城の解明に役立
つ会合を行いたいと思います。
 

 3.この記念誌1冊で帰雲城研究し得る情報量がすごい
 記念誌2項では、皆さんから頂いた資料や、図書館や施設等で長年収集してきてこれで
ほぼ全てであろう帰雲城書物約1500枚から、帰雲城主内嶋(うちがしま)氏に関して、
学術研究に役立つ記述の要点のほぼ全てを時系列で記念誌に載せました。今まで、多くの
帰雲城資料を持ち合っても、話しの意図する資料頁を探し示すまでに大変だったり、資料
を持ってくるのを忘れたりで、帰雲城の真相部分に迫る話しができなかったこともあった
かもしれません。今後は、帰雲城資料の要点のほぼ全てが書いてあるこの貴重な記念誌資
料を1冊持っていれば、帰雲城の真相に迫る考察を論ずることができます。ところで、帰
雲城調査会で、研究し得る帰雲城情報のほぼ全てを載せたこの資料は、本会にとっても白
川村にとっても大変貴重な記念誌なので今後活用してゆきます。

 6.事務局から記念誌完成のお礼
 帰雲城調査会では、皆さんからの資料や帰雲城関係の記録を長年収集して全部とは言い
ませんが、ほぼ全ての帰雲城書物約1500枚の資料が集まりましたので、興味深い(面
白い)記述や研究に値する要点を1冊に集約し作成して記念誌という形で無料配布できま
したのでお礼を申し上げます。昨年11月1日に、記念誌を配布して全会員に届いたよう
で安堵しています。記念誌の構成編集は事務局の書き方の癖で表現力が至らぬ箇所はお許
しいただきたく思います。昨年10月、記念誌40冊を発注して、完成した記念誌が届き
1冊手にしたところ、あまりのずっしりした重さに腕が震え、会30年の重みを感じて身
震いしました。せっかく皆さんと限定40冊の貴重な共有記念誌を手にすることができた
ので、今後は帰雲城について記念誌に書いてある文から証拠や根拠を示して意見交換がで
きたらと思います。


 11.今年の現地調査も証拠や根拠となる水場の調査を実施
 帰雲城主、内嶋(うちがしま)氏は生活に必要などの場所の水場を使っていたのでしょ
うか。会発足30年を目前にした昨年より、帰雲城の位置に迫る山裾の水場跡(水場、水
源地跡、水源地、谷水跡、谷水)の調査を始めました。今年も引き続き庄川川原の水場の
調査を行い、帰雲城の位置に繋がる証拠や根拠となる的を射た現地調査を実施します。

 17.昨年平成28年(2016年)度行事報告
 昨年、平成28年(2016年)5月21日(土)に開催された現地調査、総会、会合
等の報告をします。
 ①「現地調査」は、帰雲城の場所に繋がる水場2跡、水場1跡(水場、水源地跡、水源
地、谷水跡、谷水、泉跡、泉、これら水場等)の調査を実施して2ヶ所の水場跡を目視確
認しました。会報誌同封の地図を持って水場2跡前に立ち、斜面の谷間を確認してこの地
図の水場2跡の記しの正確性を確認した。次に山道を車で進むが、雑草が60~70セン
チ伸びていて、これほど雑草が生い茂っている年は初めてであった。水場1跡に到着した
はずだが、確か、山道の左下約4m低地に水場1跡があるのにかき分けて進むも雑草が生
い茂っていて確認できない。山道を約20mほど進みようやく水場1跡が確認できた。
 この場所も地図で正確に合っているのを確認した。今日は、雑草が生い茂り山道から山
中に入るのを諦めた。この水場跡を目にしたことのある会員方もいると思いますが、過去
の記録(記念誌119頁18行目)には水源地という文字はあるものの、位置情報に繋が
る記述はなく、本会で聞取り調査をして位置の裏付を取り、そしてようやく2ヶ所の正確
な水場跡を本会の現地調査で確認して判明しました。聞取り証言では、「御母衣ダム工事で
発電した水を流すために保木脇地下に配水管(導水管)工事をした昭和31~32年(1956
~1957)頃から(この)谷水(水源地、水場)が枯れた」ということである。

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 白川郷埋没帰雲城調査会 会報誌第49号.       発行日:平成28年(2016)4月2日

 1. 天正の大地震で埋った幻の城 帰雲城
 1460~1465年(寛正年間)頃、内嶋(うちがしま)為氏が白川ノ庄(白川郷)に入国し
て、帰雲(かえりくも)城を1464年(寛正5)頃、保木脇に築いたとされます。その後、
2代雅氏、3代氏利、4代氏理(うじまさ、うじよし)が城主の時、天正13年11月29日
(1586年1月18日)大地震のため、庄川(という川)の右岸(東側)の山から崩れ落ち
た土砂岩石によって帰雲城と城下町が埋まりました。帰雲城のあった場所は現在に至るま
で、城の位置さえ分からず「幻の城」といわれてきました。

 2. 帰雲城の全容を明らかにした松古孝三氏
 さて、本会が発足する36年も前に帰雲城を調べ始めた人物がいました。その人は、白
川村荻町の旅館、城山館の主人「松古」氏で1950年(昭和25)頃から帰雲城の史料研究
をし始めたそうで、空想の民話だと思われていた帰雲城を調べて、伝説のベールに包
まれていた帰雲城の全容を明らかにした人物です。じつは、(のちの分析で分かることです
が)松古氏や、安達氏は帰雲城の位置に繋がる重要な証言や記録を残していまし
たが、そのなかで松古氏は1979年(昭和54)に他界され、29年間に渡り帰雲城について
調査した記録や証言は、その後誰も裏付検証がされなかったようで、また他界後7年の空
白期間があり松古氏の記録は忘れ去られてしまったようです。

 3. 帰雲城を世に広く知らしめた佐々克明氏
 1967年(昭和42)年2月に朝日新聞社記者の佐々克明氏が白川郷の切妻合掌造りの取材
で白川村を訪れ、松古氏から初めて帰雲城の話を聞いたそうです。この縁がきっかけ
で、のちにこの2人のチームワークにより、記事等に多く執筆し帰雲城が広く世間に知れ
渡ることになります。朝日新聞社記者の佐々克明氏は帰雲城をいわば広く世に知らしめた
人物です。佐々氏は『まぼろしの帰雲城』、『帰雲城大崩壊』の小説を発行しました。

 4. 7年の空白期間を経て帰雲城調査団体が
 松古氏が亡くなってから7年後に帰雲城を調査する専門団体が、1986年(昭和61)「ひ
だ白川帰雲城を考える会」として発足して、現在の「白川郷埋没帰雲城調査会」になり、
合わせて今年で29年が経ちました。会では現地調査を主体に活動してきて、なかなか城位
置を何処だと推測するのは難しく、示していませんでしたがそれでも保木脇や、弓ケ洞谷
の南や、シツタカ谷の北や、右岸の調査と保木脇を中心に広範囲に渡り28年間毎年現地調
査を実施してきた結果、証拠根拠に基づく帰雲城のあった範囲推定を示せるようになりま
した。

 5.いよいよ帰雲城の場所に繋がる現地調査実施!
 今年の5/21(土)の現地調査は、帰雲城の場所に繋がる松古氏が記録に残した「水
源地を見学」したり、水源地一帯を調査する予定ですので、皆さん楽しみに現地調査にご
参加ください。

 6.「帰雲城調査会次のステップへ!」
 会が発足して29年、帰雲城に関する資料や情報は、諸先輩方や研究者方が長年集めら
れた文献、古地図(絵図)、地図、空中(航空)写真、資料、聞取り証言、現地調査結果、
論文、報告書、レポートなどに感謝申し上げ、帰雲城に関する大部分の情報が集積された
ので、これらあらゆる方面の「帰雲城に関する多種情報」から「帰雲城はどこにあった(埋
まっている)のか?」をいよいよ本会において分析できるステップ(段階)に差し掛かり
ました。今後、皆さんの調査研究結果から「帰雲城の真相部分」に迫る証拠や根拠を会合
発表の席で報告してゆきたく思い、会報に記載したり、会合で皆さんにわかりやすい説明
や、学術調査研究解説をしてゆきたいと思います。