保木脇の500年前の標高

ここでは、保木脇の約500年前の標高を調べた結果を紹介します。

 保木脇の約500年前の標高について
                                                   2014 H26 02 08
 岐阜県大野郡白川村保木脇地区の約500年前の標高について調べてみた。

 まずは、基本になるのが1985(昭和60)年10月27日に白川村平瀬で開催された「帰雲400年・白川フォーラム」で配られた資料の中の講演1金沢大学絈野教授「400年前の帰雲大崩壊について」である。(『新編白川村史上巻』72頁に資料記載あり)この資料に保木脇の地形図と断面図があるので、これを参照にして紹介する。最初は、講演資料を記す。

 1.講演1「400年前の帰雲大崩壊について」
 「帰雲山西側の山腹斜面に見られる大崩壊地は、特有の赤茶けた山肌を現在も遠望することができ、海抜1000mから1450mにわたる馬蹄形の凹地をなしている。この山腹崩壊地から、長年月の間のいくたびかの崩壊によって、河谷ぞいに庄川本流側に向かって流下した砕屑物の総量は、井嶋ほか(1984)によれば45×10㎥をこえると推定される。
 大崩壊地と庄川左岸保木脇地区を含む地域の地形並びに地形断面を、奥西一夫(1984)から引用して図1に示す。この図からも明らかなように、右岸側の斜面及び河谷の地形断面はかなり複雑で、単一の大崩壊によって形成されたものではなく、時期を異にして発生した数次の大崩壊や、その二次的崩壊による複合地形とみられる、ただし、右岸側山腹斜面及び河谷ぞいの崩壊堆積物の性状(分布や厚さ)については、未だくわしい踏査はなされていない。
庄川左岸側の保木脇付近の地形の詳細を図2に示す。崩壊堆積物がつくる地形は、上段(高度600~630m)と、下段(高度580~600m)と大別され両者の高度差はおおむね20mである上段の表面には流れ山状の小起伏が認められ、下流側の方が高く、長さ約1200m、幅200m余のひろがりをもつ。下段も上流側に低くなり、長さ約800m、幅は最大200mである。奥西(1984)は、これら上段及び下段の地形から判断して、砕屑堆積物が流動した流向(流線)を描いている(図1)。保木脇付近の上段及び下段の崩壊堆積物は、濃飛流紋岩類属する溶結凝灰岩の不淘汰の角礫と細粒マトリックスのみから成るもので、右岸側の帰雲山腹崩壊地に由来し、岩屑流となって急勾配の河谷ぞいに流下したあと庄川本流河谷に達し、一部は河床をのりこえ左岸側に乗り上げたのち、下流側及び上流側に向かって流動し堆積するに至ったものであることは、堆積物の組成ならびに地形からみてほぼ確実である。ただし、上段と下段とはあきらかに形成時期を異にするものであり、上段の方が年代の古いものであることも明らかである

 トレンチ1は上段西寄りほぼ中央の凹地で実施され、上面の高度は約600m、約20m×20mの方形でロート状に掘られ、中央最深部の深さは地表面下約10mである。厚さ約10mの堆積物は、トレンチ面でみられる限り、すべて大小の角礫及び岩魂を含む乱雑なもので、岩魂の配列や成層構造などまったく見られず短時間に一挙に累積した崩壊堆積物であることを示している。上段トレンチで特筆すべきことは、今回のトレンチの底部(地表下8~10m)から掘り上げたといわれる多数の円礫の存在である。これらのうち、長径30センチをこえるものが16個あり、岩質別に見ると、花崗岩(白川花崗岩が7個)、溶結凝灰岩(濃飛流紋岩)5個、白山系の安山岩2個、花崗斑岩1個、粗粒砂岩(手取統)1個となる。これらの巨円礫を含む堆積物は、上段をおおう崩壊堆積物とは明らかに異なるもので、おそらくは河岸段丘堆積物(旧期の河床礫層)であるとみられる。

 トレンチ2は下段の北端凹部(海抜595m)の地点で掘られ、約10m×10mのロート状で、底部までの深さは約5mである。大小の角礫や岩魂を主とするが、花崗岩・流紋岩・安山岩などの巨円礫を所々にまれに含み、崩壊堆積物と河床堆積物とが混り合った二次的堆積物で、比較的新期のものと考えられる。ただし、トレンチ2は下段北端の凹所に位置するので、下段の主部全体が二次的堆積物であるか否かについては、必ずしも断定できない。

 今回の上段トレンチによって、厚さ約10mの崩壊堆積物の下位に、巨円礫を含む段丘礫層(旧河床堆積物)の存在が確認されたことは、大きな成果といってよい。帰雲城あるいは城下町の存在を示唆する物証はえられなかったが、庄川左岸の段丘上に城および城下町が立地し、それが天正地震による大崩壊(岩屑なだれ)によって瞬時に埋没したという想定は、十分に成り立つものと考える。帰雲崩壊から400年を経た今日、上段のどこかに存在したと考えられる城及び城下町の所在を確定するためには、トレンチ1よりも北側河床よりの地点で、さらにトレンチなどの方法で探索を試みることが必要であろう。400年前の災害に遭遇された方々の、霊安かれと祈って筆をおく」などです。

 ↑に書かれている語句、上段、下段、上流、下流が分かりづらいので、説明します。保木脇地区の国道156号線の西が「上段」と呼ばれる少し高い場所になります。保木脇国道156号線の東が「下段」と呼ばれる低い場所となります(帰雲城趾碑の石碑がある場所です)。庄川という川は南(御母衣ダムと言ったら分かりやすいだろうか)から北(富山県側)へ流れています。なので庄川の「上流」側は、御母衣ダム方面となります。庄川の「下流」側は、富山県方面となります。
 それと、現在、帰雲山(1622m)がある右岸の土質は、「濃飛流紋岩(類)」で左岸保木脇の土質は、「(白川)花崗岩(類)」です。左岸は「(白川)花崗岩(類)」で、右岸は「濃飛流紋岩(類)」だと大まかに記憶しておきましょう(ということは、左岸に「濃飛流紋岩(類)」があってはいけないのです)。あと、トレンチ1の場所は保木脇国道156号線西の上段部分です。そして、トレンチ2(下段)の場所は、現在の帰雲城趾碑の石碑がある所から少し北辺りです。
 この資料で「ただし、上段と下段とはあきらかに形成時期を異にするものであり、上段の方が年代の古いものであることも明らかである」を説明しますと、左岸保木脇を埋めた土砂岩石は「上段は天正大地震」で埋り、「下段は天正大地震と、次に安政大地震」で埋ったということです。別の言い方で、「天正大地震で上段・下段が埋まった」、「安政大地震で下段が埋まった」と言ったら分かりやすいでしょうか。

 つぎに資料にある数値を記す。
 上段崩壊堆積物標高630m~600m
                             下段崩壊堆積物標高600m~580m
 両者の高度差はおおむね20mである。

       上段トレンチ1    下段トレンチ2
標高      600m        595m
方形       20m         10m
深さ       10m          5m
底部標高   590m        590m
 右岸からの崩壊土砂岩石が、左岸保木脇の上段と下段にかなりの厚さ堆積していることをこの資料で述べている。

 2.現在の保木脇の標高について

 31共通図.保木脇標高図
 上の31図は、25000分の1地図平瀬の等高線を消しイラストにしたもので、図のA―A‘からF―F’の6線は、「400年前の帰雲大崩壊について」内の図2に記してある6線と同位置に記したものである。この1図で採用した標高は、「カシミール3D」という地図標高数値を使用した。庄川と国道の標高は比較的正しいようである。但し、上段各所の標高は誤差が激しいので当てにできず、正確な計測や測量が必要である。
 31図では、現在の保木脇のシツタカ谷~弓ケ洞谷までの標高を記してみた。帰雲城趾碑や白山神社、田口プラントの場所を基準にして見てもらえれば分かりやすいかと思う。保木脇国道156号線や庄川のA―A’からF-F’までの標高は下記である。

             F       E       D      C       B        A
国道156号線   575m    579m    589m    595m    609m    604m
庄川                567m        565m        563m        561m        560m        559m


 2.保木脇白山神社西国道156号線 2008 H20 05 16
 保木脇国道156号線の白山神社西~帰雲城趾碑西まで道路が上り坂になっているのが目視で確認できる高低差(F南→C北高低差23m)である。


 3.弓ケ洞谷林道入口東国道156号線 2008 H20 05 16
 保木脇弓ケ洞谷林道入口東国道156号線から緩やかな下り坂になっているのが確認できる

 3.保木脇の約500年前の標高を調べる
 左岸保木脇の約500年前の標高について、上段では約590mが河床であるとみられるという報告であった。下段の河床高度については述べていない。なので、同じ左岸河岸段丘上に位置する旧荘川村海上地区と中野地区の高度について調べてみた。

 海上地区(旧荘川村海上)『辛夷(こぶし)』63頁より
「宮谷という谷を境として北の方向尾上郷川に至るまでが「海上地区」であり、南北に直線道路がやや西側に位置している場所を「上海上」と呼び、東側一帯を「下(した)海上」と呼び田畑が広がり周囲の山にはヒノキや杉が群生しており道路に沿って58戸の家屋が点在したのどかな山あいであった。海上地区は通称「上海上」と「下海上」の小字区に分かれており、北端には荘川営林署尾上郷貯木場と官舎が建っていた。昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により離村、水没となったのである。
 上海上
 国道を中央に南北に広がる平地で、平地としての面積では荘川村では第1位であった。土地の大部分は田畑で一反田、ニ反田と呼ばれた田が整然と区画されており農耕には大変便利であった。集落の多くは道路沿いにあってだいたい3ヶ所に集中しており上、中、下というような様相で2階建ての家々が軒を並べていた。大部分の家は分家又は他地域から移住者が多く、下海上に比べて新しく開けた土地柄であったが、人々の結びつきは固く人情豊かな人々であった。  海上地区の鎮守さまは上海上の一角にあって神明神社と呼び大事な守り神であった。たま、上海上には荘川営林署の貯木場があってこれより北西の方向に森林軌道が大日岳の麓まで延び、多くの原木を搬出しており林業に従事する人々でたいへんな賑わいを見せたものである。
 下海上
 下(した)海上」は上海上より河岸段丘の5~6m低い位置にあり道路は大谷という谷の横を国道から東の方、庄川へ向ってなだらかな「日谷の坂」を下り、地区の中へ通じ「久七坂」を上がって上海上に通じていた。一面が田畑であり海上の旧家の殆んどがこの地区に集まり13戸の家々が広い敷地の中に悠然(ゆうぜん)と建ち並んでいた。この地は庄川が運ぶ上流の土砂が数世紀にわたって堆積して出来た河成平地であり、砂粒を多く含んだ土地のおかげで素足で歩き回っても痛くはなかった。田畑は有機質を含んだ肥沃な土質に恵まれ多くの収穫をあげることができた穀倉地帯でありまったくの別天地であった。又、この地は庄川の伏流水の影響で至る所に清らかな湧き水(清水)が出て、飲料水はもとより農作物の育成に役立った。そのほか、この豊富な水を利用して唐臼に使ったり魚の保護養殖にも目を向け淡水魚の養殖も行われ、海上孵化場と呼んだ施設もこの下海上にあった」

 中野地区(旧荘川村中野)『辛夷』20頁より
 「中野地区は、中野上・中野・下中野・下村という地名で呼び、分かれていた。中野には商店が集中しており、診療所、駐在所、公民館、荘川村農協中野支所、中野郵便局、消防分団、営林署、寺院等があった。食肉店2、雑貨店4、飲食店7、旅館5、酒店1、自転車店2、理容美容店、カフェ店、パチンコ店が国道をはさんで相対しており、山深い田舎町といった様相をしていたのであった。中野地区の道路は巾6m程あって、中野郵便局附近で大きく西にカーブしていた。中野地区の国道に沿ってもう一本旧道が南北に続いており、途中からなだらかで一部石だたみみを施した坂道が東の方向にのびて「下中野」へと通じていた。この道を進むとやがてふじがすり淵に至り更に庄川に架かるつり橋を渡って「向かい」へと通じていた。通称下村(4班)作五郎から秋良家までの戸数30戸。下中野(3班)旧道沿いの大沢春一家から吉田家までと、「下中野」を含む23戸で旧家が多く昔の道であった。中野(2班)小椋家から林家までの15戸の中野中央部で、国道沿いに商店が集中しており、校下民にとっての日用品、食料品等を購入するのに大切な地域のひとつであった。中野上(1班)はかせが野の神田家から学校へ通じる道路まで25戸があった。昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により離村、水没となったのである」
 下中野『辛夷』26頁より
 「下中野への道は、杉野家と作田家の間に、巾2m程の坂道があって、この道は、ふじがすり、ちゅうちみを経て、やがてつり橋を渡り向いへと続いており、この道は、野良仕事にとって大切なものであった。下中野は、永年にわたって庄川が上流より運んで堆積した土地、川の浸食作用によって削りとられて出来た河成平地の一部でもあり、その多くは田畑であり、沼田、沢田と名づけた耕地が南北に川岸まで続いていた。その多くは下中野の地区民が有しており、豊かな土質に恵まれ収穫も大であった」
 ↑の記録から、左岸海上地区、左岸中野地区とも河岸(河成)段丘上にあることから5000分の1地図で標高を調べてみた。(現在、海上中野とも御母衣ダムにより水没している)

 海上地区の標高
 海上地区上段の白川街道(久七坂の西上辺り)の標高が714mで、下海上と呼ばれた下段の聖殿碑があった場所が約690mで、聖殿碑東の庄川が約685mである。高低差は下記である。
 上海上714m、下海上 約690m、海上東庄川 約685m
 上海上~下海上高低差   約24m
 下海上~海上東庄川高低差 約5m

 中野地区の標高
 中野地区上段の白川街道(照蓮寺東)の標高が721mで、下中野の場所が約705m(照蓮寺から東の下段)で、照蓮寺東の庄川が約700mである。高低差は下記である。
 中野上段721m、下中野 約705m、中野東庄川 約700m
 中野上段~下中野高低差  約16m
 下中野~中野東庄川高低差 約5m

 海上地区中野地区の上段下段と庄川の高低差は?
 上海上~下海上高低差約24mで、中野上段~下中野高低差約16mで、「上段と下段の高低差は約20m±4m」であった。
 下海上~海上東庄川高低差約5m、下中野~中野東庄川高低差約5mで、「下段と庄川の高低差は約5m」であった。

 旧荘川村海上地区、中野地区の河成段丘の上段と下段標高研究結果
 
「上段と下段の高低差は約20m±4m」で、「下段と庄川の高低差は約5m」であった。この数値を保木脇に形成された河成段丘に当てはめることは正確と言えないが「上段と下段の高低差は約20m±4m」と、「下段と庄川の高低差は約5m」を推測における参考数値として使用した。

 4.保木脇地区の約500年前の標高と現在の標高は?
 「1.保木脇標高図」で、D~D’の現在の標高と、海上地区中野地区の高低差から当てはめたのが下記である。(腐植土層厚さ、隆起含まず)

 保木脇D~D’           上段                 下段               庄川
 上段崩壊堆積物      630m~600m
 下段崩壊堆積物                                  600m~580m
 現在標高               約598m               約589m              約563m
 約500年前                約588m±4m            約568m    
  
 保木脇地区の約500年前の上段の標高は、「588m±4m」で、下段は「約568m」であったのではないかと推測した。

 5.保木脇D~D’断面図

 4図.保木脇D~D’断面図
 ↑の4図は、「帰雲400年・白川フォーラム」で配られた資料の中の講演1金沢大学絈野教授「400年前の帰雲大崩壊について」の図2の右にA~Fまでの断面図があり、この中のD~D’断面を手書きして10m間隔で高度を付けて、上段「約588m±4m」と下段「約568m」(推測)を黒く記したものである。トレンチ1の場所は上段D~D’の北になる。トレンチ2の場所は下段C~C’の北である。

 国道156号線(589m)を基準にして、上段部分と下段部分がこのような地形の感じかと分かるのではないかと思う。
 

 6.埋没範囲に関する動画の静止画
 
次は、埋没範囲に関する動画制作した際の静止画を紹介する。

 5図.保木脇D~D’土砂堆積断面図
 5図は、約500年前の地形推測と、現在の地形と、天正大地震で堆積した厚さと、安政大地震で堆積した(下段)部分の4つがこの5図で分かりやすいかと思うので紹介した。但し、安政大地震で下段に堆積した土砂の厚さは分からない。

 7. おわりに
 31図に記した保木脇地区のD―D’の約500年前の上段の標高は、「約588m±4m」で、下段は「約568m」であったのではないかと推測した。現地でボーリング調査して更に正確な数値を求める必要がある。

 参考文献、使用資料(ソフト)
 『辛夷』田下昭夫著 昭和53(1978)年11月集録完成
 「帰雲400年・白川フォーラム」昭和60(1985)年10月27日開催、講演1金沢大学絈野教授「400年前の帰雲大崩壊について」資料配布
 岐阜テレビ「埋もれた城」昭和61年(1986)8月9日放送
 『新編白川村史上巻』平成10(1998)年発行
 5000分1地図保木脇、
 5000分1地図海上 昭和32年(1957)測図
 5000分1地図中野 昭和32年(1957)測図
 「カシミール3D」国土地理院発行25000数値地図を使用
 『カシミール3D入門編』2013年1月30日初版ISBN978-4-408-00830(2400円+税)