田口プラント北一帯低地調査

ここでは、2013年平成25年4月26日に田口プラント北一帯にある低地(凹)の目視調査を実施した内容を、活動記録として紹介します。

 

 田口プラント北一帯低地調査(活動記録)
                                             2013 H25 05 21
 岐阜県大野郡白川村保木脇の田口プラント北一帯にある低地(凹)の目視調査を実施した内容を、活動記録として紹介します。

 2013H250412、五箇山の岩瀬家を見学。帰りは平瀬地区の旅館に宿泊。4/13朝、この間々帰るのはもったいないので、平瀬にて聞取り調査をする。以前帰雲城の試掘をした場所はどこですか? O氏:「田口プラントから山道を北に進んだところだ」と、紙に書いてもらう。このメモを頼りに現地へ向かう。この場所かと確認をして帰る。

 後日、家で今回おしえてもらった場所一帯を調査したいがどうしようか考えた。まてよ、今雑草の新緑が芽吹く前なので、現地で「地表観察」は絶好のチャンスだぞ。でも来年の調査でもいいか、いや今しかないぞということで調査決行を決めた。さて、現地調査するのに手ぶらで行こうか、それじゃー何の記録というか成果も得られないと思ってあわてて5000分の1地図を用意した。

 4/26、保木脇、田口プラント北の山道にて、長靴に履き替え、鈴とカウベルを付けて調査開始8:30。まずいちばん北にある送電線鉄塔を目指す。鉄塔で番号を確認すると、53鉄塔だったのでメモをする。そして1(1図を参照)の小山へ移動する。1の小山南から、2の小山に移動する。2の小山から西下の窪地というか低地を目測するとおおよそ約30mの低さ(比高)があった。ものすごく深いではないか。2の小山の西と南に中ぐらいの大きさの岩が散乱していた。このまま南へ歩きたかったが、かなりの困難を伴うため断念して引き返した。
 山道を南へ進み、山道から鉄塔のある場所を目指した。少し高い場所に鉄塔があり確認すると、54鉄塔だった(7の場所)。比高は約10mぐらいである。東に歩き3の小山に立つ。なぜか小山は南北に長い距離続いておらず細長い小山状ではあるが途切れているのが理解できない。
 確か天正13年の大地震で右岸の山から崩れ落ちた土砂が庄川という川を越えてこちら側、左岸保木脇のこの辺りまで到達しているのだから小山は南北数百mに長く続いているのではないかと思った。
 次に6の小山の東西2ヶ所ある場所に立つ。地図にはこの6の小山は622mとなっている。西に小山(8の場所)が確認できる。そして4の小山に立つ。比高は約20mぐらいだ。歩きにくいが南へ移動して、5の小山へ来た。比高は約10mぐらいで、ここは携帯電話の中継タワーが立っている場所である。ここから南へ歩き、いったん山道をまた北に進み近くに見える鉄塔へと分け入った。少し高くなっている場所(9の場所)を確認すると55鉄塔であった。あとは、西に戻り山道を北に進み、また東に入り、また西に戻り山道を北に進み、東に入りを繰り返して、地図に記入した。
 現場は雑草が生える前とあって歩きやすく、喜び勇んでハイキング気分で調査できたのであった。そして、現地は「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在していたことに驚いた。この田口プラント北一帯は、約420年(427年)前の天正13年の大地震で右岸の山から崩れ落ちた土砂岩石がこの辺りまで到達して、堆積している(埋っている)地形がその間々そっくり残っていたんだと知ったのである。あと、場所を移動して帰雲城趾碑南のデンカ生コン跡東を調査。小山2ヶ所と大岩ごろごろな場所を確認した。調査終了10:30。帰路。

 1図 保木脇地図
 5000分の1地図保木脇に、上段に何ヶ所かある低地の位置を目視ではあるが記入した図である。53鉄塔南西の林道右に「大岩」があるので今後目印として説明に使うことがある。地図に現地で記したがさて、地図に小山の場所をどう書いたらいいのか分からず、楕円の2重丸(◎)にして、低地部分は丸に斜線として、谷はT1~T4と記した。

 家に戻り、記入した地図を見て気がついたことを述べます。
 1、高い場所というか小山は、国道156号線西沿いに、1、2、3、4、5、と途切れ途切れではあるが続いている。
 2、次に、7、6、9、と単独の小山が存在している。
 3、(小字)後平の山麓沿いに、A、B、C、D、と小山がある。
 4、調査した東西約200m×南北約600mにある高い場所と低い場所の高低さ(比高)は、正確でないが目視で約10~30mぐらいだった。
 5、調査した南北約600mの西の(小字)後平の斜面におおよそ4ヶ所の谷が確認でき、その谷の麓は地図に記した底部部分と一致する。
 6、調査した範囲には「幾つものいびつで複雑な凹凸の地形」が存在している。
 7、天正13年の大地震で右岸の山から押寄せた土砂堆積物は1、2、3、4、5、ではないかと推測する。
 8、単独の小山がある7、6、9、について、右岸からの土砂堆積物か、左岸からの土砂堆積物によるものなのかは分からない。
  9、安政2年(1855年)の地震で保木脇を埋めた土砂は国道156号線のある下段部分だと聞いている。
 10、調査した場所は、(小字)後平(あとひら、うしろひら)か、(小字)帰雲川原の地名になるのか未確認。

 今回、保木脇上段54鉄塔一帯の現地調査を実施して帰雲城はどこか?という疑問に当たることとなった。改めて帰雲城の屋形(居城、城主の住まい、館)の場所を3ヶ所推測してみた。
 1.54鉄塔一帯か?←上段部分であり、近くに水源あり
 2.(小字)堂ノ上一帯か?←上段部分であり、弓ケ洞谷水源確保可能、古地図に記載あり、地名も候補
 3.(小字)帰雲川原一帯か?←地名が候補

 おわりに
 
今回、上段の田口プラント北一帯に高い地形があったり、低い地形が何ヶ所かあることは分かっていたので、どのような地形が存在しているのかこの目で見たく調査した。特に低い地形の位置と、この低地から高い場所までの高低差(深さ)はどのくらいあるのか、目視ではあるが地図に記入する調査を実施したのであった。