内嶋氏と正蓮寺の戦い

ここでは、内嶋氏と正蓮寺の戦いの記録を紹介します。

 

 内嶋氏と飯島正蓮寺の戦いでどちらがどちらを攻めたのか
                                       2014 H26 01 11
帰雲城主内嶋氏と飯島正蓮寺の戦いは、文明7年、文明17年、長享2年と数度に渡り記録にあり、どちらがどちらを攻めたのか書物から比較してみた。

 まずは、飯島村正蓮寺の8世明誓の子、長男が教信で三島将監教信(たかあき)と名乗り、弟が飯島正蓮寺の9代目明教(みょうきょう)である。

 1475年 文明7年「三島入道と無ニの懇念を通じ、時に会合して交情を深くせられしが、深交却て疎意と為るの諺(ことわざ)、或る時圍碁の酒興に、不慮の喧嘩出来て、互に争て遂に確執の本源となり、内島為氏軍勢を催し、三島を討て降参させんと企てしかば、将監入道大いに怒り、彼は和田七郎の正葉なれど、人臣に下て年久し。我祖一旦勅勘を蒙(こうむ)るとも、後鳥羽院の皇子なり。為氏より此の義を知りながら、君臣の義をも辨(わきま)へずして、干戈(かんか)の沙汰に及ぶこそ遺恨なれ。兎角(とかく)先則制人有利となん、よしよし先んじて彼を制すべしと、家老市村太郎左衛門に命じ、文明七年秋不意に帰雲城へ討手を下す。思ひ設けぬ豊後守為氏、ただ一揉(もみ)に攻め崩され、一族の者と諸共に居城を逃れ出て、越中国の所領利波へぞ落ちられける。為氏越中の利波にて軍勢を駈集め、猶豫(ゆうよ)せず会稽(けい)の恥を雪(そそ)ぐべしと、同年八月上旬家臣中川修理亮兼顕を先陣に備へて、都合其の勢500餘騎、白川へぞ討ち込みける。三島将監入道是を聞て、軍兵を集め砦を築きて、防戦粉骨を盡(つく)すと雖(いえど)も、寄手は大勢なる上に雌雄(しゆう)を一戦に決せんと、手定の合戦を致せしかば、味方の軍兵大に討れ、明教も数ケ所の手疵(きず)に戦屈し、一味同心の者も大概(たいがい)は落ち失せれば、明教獨(ひと)り案じけるは、遁(のが)れて命を全ふし、時節を待ちて欝(うつ)憤(いきどおり)を散ずるに若(もし)かずと、妻子を引て夕闇に紛れ、祖伝の佛像を背負ひて、卒都婆峠の深谷に隠れ、僅かなる草庵を結びて居たりける」『神岡町史 特集編 』313頁に「九、飛騨群鑑(全)」所収、1827年文政10年
 この飛騨群鑑では、三島将監と内嶋氏の不和により、三島将監の家老、市村太郎左衛門に命じ文明7(1475)年に「帰雲城を攻めた」とある。攻められた帰雲城主内嶋為氏は越中砺波へ逃げ軍勢を整え500余騎で三島将監を攻めて、内嶋勢が勝利した。ここでは、三島将監の「飯島(村)正蓮寺」の場所に関する記述はない。

 1475年「文明7年、是歳飛騨白川郷にて内島上野介爲氏、本願寺一揆と戰ひ鳩谷道場を焼き坊主明教を殺すと傳(つた)ふ」『飛騨編年史要』126頁、1921年大正10年
 この飛騨編年史要では、文明7(1475)年に「内嶋氏と本願寺一揆との戦い」「内嶋氏と一揆との戦い」であると記しているのが重要なキーワードになる。ここでは、鳩谷道場であるのも注目される。この戦いでどちらがどちらを攻めたのか示していない。

 1475年「文明7年乙未釋明教討取」『飛州志』180頁、1745年延享2年。
 この飛州志は、飛騨国代官の長谷川忠崇が在任中に編述した史書で、文明7(1475)年に明教を討ち取りとある。この一文は、飛州志180頁の「内島略系」の為氏の項にある。

 1475年 「文明7乙未年釋明教ラ討取」『歸雲家系譜』爲氏の項
 この歸雲家系譜では、文明7(1475)年に明教らを討ち取りとある。この系譜は内嶋氏側からの書き方であることが注目される。

 「その飯島正蓮寺は9代目明教のとき、白川郷の新興勢力、内島氏と戦って敗れ、回祿、明教は卒塔婆(そとうば)峠まで逃げたがついに自殺したと伝えられている。飛騨における真宗の開祖善俊(ぜんしゅん)にちなみ、飯島の正蓮寺を善俊道場とも称し、門徒らは[善俊門徒]と名乗って誇りにしていたようである。『新編白川村史上巻』1998年平成10年  
 ここでは、内島氏と飯島正蓮寺の戦いで、どちらがどちらを攻めたのか言及しておらず、飯島正蓮寺の9代目明教は卒塔婆峠まで逃げたがついに自殺したと伝えられている、と述べている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 1485年「文明17年乙巳三島将監討取」『飛州志』180頁、1745年延享2年。
 この飛州志では、文明17(1485)年に三島将監を討ち取りとある。この一文は、飛州志180頁の「内島略系」の為氏の項にある。

 1485年「文明17年乙巳三嶋将監ヲ討取リ」『歸雲家系譜』爲氏の項
 この歸雲家系譜では、文明17(1485)年に三嶋将監を討ち取りとある。この系譜は内嶋氏側からの書き方であることが注目される。

 1485年「文明17年、是歳白川郷にて内島上野介爲氏、善俊門徒三島將監と戰ふ、按に此頃加賀には連年本願寺一揆起れり其波動及へるものならむ」『飛騨編年史要』133頁、1921年大正10年
 この飛騨編年史要では、文明17(1485)年に内島氏と三島將監との戦いがあったとあり、加賀での本願寺一揆が、白川郷にも影響して一揆があったようだと記しているところが注目される。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 1488年「家令市村太郎右衛門を大将として、不意に押寄せるに、大敵凌ぐに不叶して或は討れ、或は遁れ唯一戦に利を失ひ、与党の輩は落失せければ、為氏心ならず危き命を遁れ、終に越中の所領利波郡に引退き、敗軍の勢を集めて、其後長享二年八月下旬内ヶ嶋、中河修理亮を隊将として、会稽の恥辱を雪んと其勢五百余騎、越中より攻上りける」『神岡町史 特集編 』199頁に「飛騨略記(全)」所収、1619年元和5年
 この飛騨略記では、長享2(1488)年に三島将監の家老、市村太郎右衛門を大将として「内嶋氏を攻めた」とある。内嶋為氏は越中利波郡まで逃げて、五百余騎の軍勢を集め中河修理亮を大将として、三島将監を攻めたとある。

 「ようやく二歳になる男子を懐きて乳母は後室に入り北国へ落失けるに、小白川の境川を越す時に追手駈け来り其子女子ならば汝に与ふべし、男子ならば此方へ渡せと呼ばはったり。乳母賢くも彼子を抱きて一足二足は立戻り男根を後の方へ引きつけて、川向より此子は女子なりと答へけるに追手の者ども川をも渡らず、女子なれば汝に与ふべしとて立ち帰へりける」『神岡町史 特集編』200頁に「飛騨略記(全)」所収、1619年元和5年
 この飛騨略記では、内嶋氏と三島将監との戦いで、正蓮寺側の幼男子を逃がすため小白川と越中との国境、境川という川を越すときに内嶋氏側の追手が来たので、乳母は幼男子の男根をお尻に引いて女子に見せかけ、内嶋側の追手は女子ならばと捕らえず帰っていったと記している。

 1488年「長享2年7月18日辰の刻ばかりに、飯嶋の道場に押寄て鬨(とき)の聲(こえ)をぞ揚たりける。兄弟の人々思ひもよらぬ事なれば上を下へとかへしたりけり。爰(ここ)に市村太良右衛門といへるは、伊豆の三嶋より善俊にしたがひ來りて數(すう)代忠節の者なりけるが、急ぎ大門に走り出大音をあげ、いかなるものなれば佛閣道場に押寄せかかる不法のふるまひこそ奇怪なれ、名のれきかんといひければ、内嶋將監一陣にすすみ出、事もおろかや名のるまではあるべからず」『岷江記』9頁に「光曜山岷江記」所収、1717年頃享保2年頃
 この光曜山岷江記では、長享2(1488)年に「内嶋氏が飯島道場を攻めた」とある。

 「ときに教心内ヶ嶋と不和にて合戰數度に及つひに内ヶ嶋は越中砺波郡へ引退。其後越中領内の軍勢を推し照蓮寺を責ける。終に照蓮寺明教13ヶ處手追ひ山中へ身を隠す」『岷江記』照蓮寺遺聞拾録47頁に「白川照蓮寺濫觴記」所収、1717年頃享保2年頃
 この白川照蓮寺濫觴記では、内嶋氏と教心(教信)の間に戦いが数度に及んだと記している。

 1488年「或時の仰(おおせ)に、我が名教信の二字ハたかあきと読るなれバ、我も三島将監教信(たかあき)と名乗べしと、妖言(かごと)ばかりと言ひながら、日頃の風俗に応ずれバ、岩に口あり壁に耳、内ヶ島将監為氏へ聞ゆ。将監聞や手を掎(うっ)て、儲儲(さぞさぞ)いかに法師が還俗したれバとて、何さま付くべき名も有し名を名乗る事不審也。寺方の為とも見へず、国郡所領のためもなし、何さま是にハ子細有べし。たぶんハ某しを劫(おび)やかして敵たらん下地と覚へたり。今ハ急ぎ三島が責め来らん其先に責めん、急げとて手勢を具(そなえ)し、牧戸より飯島青蓮寺へ凱(とき)のこゑして押し寄せたり」、「此上ハ門弟一所に集り評定なくてハ叶ふまじと、嘱託に触れ渡しけるに、皆飯島、鳩谷辺へ集りしかバ、内ヶ島ハ多くの門弟の群り集る気色を見、気味悪くや思ひけん、窃(ひそか)に越中江逃げ退きて跡さひしくぞ成りにける」『大系真宗史料』320頁に「願生寺由来(抄)」所収、1778年頃安永7年頃
 この願生寺由来記では、内嶋将監為氏が飯島村青蓮寺の教信(たかあき)が三島将監教信と同じ「将監」を名乗るのに不審を懐き「内嶋氏が飯島青蓮寺を攻めた」とある。この願生寺由来記は、白川郷の向牧戸城と帰雲城の間、海上村の海上道場(のちの願生寺)の記録である。正蓮寺の正の字を、「青」と青蓮寺で記しているのがキーワードである。

 1488年「長享2年、内ヶ島将監為氏正蓮寺ヲ責テ戦フ、七月再ヒ寄来リ正蓮寺ヲ焼払フ、八月十八日明教ヲ馬狩ノ横谷ニテ殺ス、幼子明心ハ二歳執事市村太郎左エ門守護シ、母公ト共親里越前椎ノ里ニ走ル、次男明賢ハ此時胎内ニアリ。三嶋太郎将監父子三人美濃ニ遁レ赴(おもむ)ク。三嶋正顕ハ内ヶ嶋ノ嫡上野介雅氏ノ家臣トナル。延徳二年正顕嫡子正総出生」『荘川村史 下巻』23頁に「白川年代記 益戸本」所収 、1831年天保2年
 この白川年代記は、神代より天保2年(1831)までの暦年記を叙述してある書物で、白川年代記益戸本では、長享2(1488)年に「内嶋将監為氏が正蓮寺を攻めた」とある。内嶋為氏は7月再び正蓮寺を攻めて焼き払い、8月に正蓮寺の9代目明教を馬狩村の横谷という所で殺したと記している。三嶋将監は美濃に逃れたとある。

 1488年 「其性、武事ヲ好ミ、寺務ヲ弟明教ニ譲り、還俗シテ三島将監ト云、長享2年戊申八月、白川帰雲城主内ヶ島為氏之ヲ嫉(ねた)ミ、来リ攻ム。教信力戦防禦セシガ、終(つい)ニ敗走シ、加越ノ間ニ奔(はし)ル」、「長享2年戊申八月、内ヶ島勢来リ飯島正蓮寺ヲ焚伐セシニヨリテ、明教宝物ヲ守護シ」『荘川村史下巻』108頁に「五、皇子善俊上人系伝考」所収
 この皇子善俊上人系伝考では、長享2(1488)年に「内嶋為氏が正蓮寺を攻めた」とある。

 1488年 長享2年「時に明教、長享2年8月28日卒都婆峠において逝去48歳なり。天明二壬寅年まで凡そ295年になる。一説文明17乙巳年8月17日といふ」『岷江記』84頁に「光耀山照蓮寺略記」所収、1717年頃享保2年頃
 この光耀山照蓮寺略記には、正蓮寺の9代目明教の没年が記してあり、長享2(1488)年8月28日卒都婆峠において逝去48歳とある。また、一説には文明17(1485)年8月17日逝去という、とも記している。

 1.内嶋氏と飯島正蓮寺の戦いはどちらがどちらを攻めたのか?

 1475年 文明7年、正蓮寺が内嶋氏を攻めた『飛騨群鑑』
 1475年 文明7年、「内嶋氏と明教との戦いがあった」『飛州志』
 1485年 文明17年、「内嶋氏と三島將監との戦いがあった」『飛州志』
 1488年 長享2年、正蓮寺が内嶋氏を攻めた『飛騨略記』
 1488年 長享2年、内嶋氏が正蓮寺を攻めた『岷江記』、『願生寺由来』、『白川年代記 益戸本』

 1-1.正蓮寺が内嶋氏を攻めた記録
 正蓮寺が内嶋氏を攻めた記録は、文明7(1475)年に『飛騨群鑑』があり、長享2(1488)年に『飛騨略記』があり、これら「野史」とされる書物は「正蓮寺が内嶋氏を攻めた」と記している。

 1-2.内嶋氏が正蓮寺を攻めた記録 
 内嶋氏が正蓮寺を攻めた記録は、長享2(1488)年に『岷江記』、『願生寺由来』、『白川年代記 益戸本』に「内嶋氏が正蓮寺を攻めた」と記している結果であった。

 2.書物の成立年号順に並べるとどうなるのか?
   書物の成立年号            合戦年号
 1619年(元和5)年『飛騨略記』、1488年長享2年、正蓮寺が内嶋氏を攻めた
  「1692(元禄5)年、金森出雲守頼旹に出羽上ノ山へ移封の命令が幕府から下った」
 1717年(享保2)年頃『岷江記』、1488年長享2年、内嶋氏が正蓮寺を攻めた
 1745(延享2)年『飛州志』1475年文明7年、「内嶋氏と明教との戦い」
 1745(延享2)年『飛州志』、1485年文明17年、「内嶋氏と三島將監の戦い」
 1778年(安永7)年頃『願生寺由来』、1488年長享2年、内嶋氏が正蓮寺を攻めた
 1827(文政10)年『飛騨群鑑』、1475年文明7年、正蓮寺が内嶋氏を攻めた
 1831年(天保2)年『白川年代記』、1488年長享2年、内嶋氏が正蓮寺を攻めた
 ここでは、飛騨国代官の長谷川忠崇が編述した飛州志180頁、内島略系の為氏の条に「文明7年乙未釋明教討取同17年乙巳三島将監討取」とあり、内島略系の末尾に「以上内島略系本土所在ノ書也猶詳ナルニハ及ズ」とある。『岷江記』の「1488年長享2年、内嶋氏が正蓮寺を攻めた」内容を採用せず、史書である飛州志では文明7年、文明17年の内嶋氏と正蓮寺の戦いの方を用いているのが注目されるところである。

 おわりに
 内嶋氏と正蓮寺の戦いは次のようになる。「内嶋為氏と飯島村正蓮寺の戦いがあり、内嶋氏が敗走した。再び内嶋勢が正蓮寺を攻め、正蓮寺8世明誓の子、長男の三島将監教信は逃亡し、弟の正蓮寺9代目明教は卒塔婆峠の山中に身を隠した。その後、明教を討ち取る。明教の子、幼男子亀寿丸(2歳、のちの明心)は難を逃れた」

 内嶋氏が正蓮寺を攻めたのか? 
 内嶋氏は、武器も持たず戦いの用意もない者達を攻めたのであろうか。
 

 『飛騨群鑑』、『飛騨略記』の書物は一部潤色の個所があり資料的価値が乏しいとされる「野史」であるが、思いがけない史実を見出すことがあるかもしれないので用いた。


参考文献
               『歸雲家系譜』
1619年  元和5年   『飛騨略記』    朝比奈入道定味著 
1717年  享保2年頃 『光曜山岷江記』 正覚寺浄明書
1745年  延享2年  『飛州志』 第8代飛騨国代官長谷川庄五郎忠崇著
1778年  安永7年頃  『願生寺由来記』願生寺17世顕了編纂
1827年  文政10年 『飛騨群鑑(全)』(神岡町史特集編)
1831年  天保2年   『白川年代記』  三島勘左衛門正英著 益戸本
1921年  大正10年 『飛騨編年史要』岡村利平著
1975年  昭和50年  『荘川村史 上巻・下巻』2月8日発行
1998年  平成10年  『新編白川村史、上巻・中巻・下巻』発行